吉幾三の「TSUGARU」と日本語の歌の語り口の問題について
演歌というジャンルはJ-POPと同じくらい曖昧なジャンルだ。民謡調、古賀調、浪花節調という古式ゆかしい区別に始まり、ロック、ブルース、ジャズ、ダンス、サンバ等々多くのジャンルを吸収し、海と河口の境目のように不確かな境界を持つ。
そんなぼやっとしたジャンルの中にラップというスタイルを投げ入れ、見事成功したのが吉幾三だ。1984年に発表された「俺ら東京さ行ぐだ」は、2000年代に入って様々な形でリミックスされ、一種のリバイバル現象を引き起こしたことを知る人は多いだろう。
そして今年、「TSUGARU」である。35年前の前作より、はるかに強い訛りでラップを披露している。にも関わらず、というべきか、だからこそというべきか、個人的には前作よりも一層完成された「日本語ラップ」になったのではないかと思う。
今あえて「日本語ラップ」と書いたが、僕は「日本語ラップ」というジャンル自体には大いに不満を持っている。なぜか?それはスタイルが総じて黒人ラッパーの借り物と感じられるからである。多くのラッパーのスタイルは、日本語のしゃべり言葉の感性ではない。
そんな中、吉幾三は本当に数少ない例外だ。地方に住まう人々の声を、方言の感性を保存しながらラップにきちんと昇華している。なぜこんなことが可能なのかというと、吉幾三が言葉をきちんと歌にできる人だからなのだと思う。
演歌というのは往々にしてダサいと思われがちだが、おしなべて言えば、言葉の表現の確かさにかけてはJ-POPやJ-ラップを大きく凌ぐ。
言葉の表現とは大雑把な言い方で、その中身にはいくつもの側面がある。一言一句のニュアンスの取り扱い、もっと大きなフレーズの構成の仕方……色々あるのだが、それらを具体的に説明するのは僕の手に余る。
そこで不完全ながら一つわかりやすい、感性的な側面の強い切り口を提示する。語り口の問題だ。J-POPや日本のラップの語り口の多くを、僕は受け入れることができない。
どんなJ-POPの歌手でもラッパーでもいいが、思い浮かべてみてほしい。彼らの歌い方、ラップの仕方のまま日常言語を喋ったとしたらどうだろう。まともな人格の持ち主と思えない語り口が大半ではないだろうか。しかし、それらの多くが「かっこいい」「かわいい」etc....といった記号性で受け入れられているのが現状である。
もちろん、歌というのは一種の飛躍した言語表現だから、その過程である種のキャラがつくことは避けえないだろう。しかし、なんらかの切実な要請(テーマ、発声技術、身体の限界)から生じるものでないキャラがついた語り口は、ほぼ間違いなくいやらしさのみを伴う(ちなみに黒人の喧嘩はラップそのものだ。彼らの身体感覚が直にラップに繋がっていることが、非ネイティブの自分でも感覚的に直ちに了解できる)。
多くの日本人ラッパーの黒人志向は、語り口のいやらしさという面では特にわかりやすい。日本人の身体的必然でもなければ、テーマ的な必然でもない。身体的・文化的必然がなく語り口だけ真似てもしょうがないのである。また、演歌でも、形だけになって必然がなくなった歌手はたくさんいる。酒と泪と女みたいなテーマばっかりを扱い、「日本のこころ」を僭称するようになり、多くの作り手・歌い手から誠実な表現が消えた。そんな中、吉幾三の「TSUGARU」は演歌歌手としてもラッパーとしても、数少ない例外と言えそうだ。今後とも末長く活躍してほしい。
ところで一応断っておくが、僕がやたらと日本というタームにこだわるのは右翼的発想からではない。現に僕が日本に生まれて日本語話者として育ってしまったということが重要なのだ。否応無く母語となってしまった言語と、それが所属する文化が僕のバックグラウンドになってしまった。そのことを前提に音楽・表現活動をするしかないから、嫌が応にもこだわらざるを得ないのだ(この発想は横浜ボートシアターの影響が大きい)。