コロナによる危機で考えること徒然
伝え聞く範囲、ニュースで知る範囲でわかるだけでも、舞台業界は相当なことになっているらしい。実際、次にいつ公演ができるかわからないために、予定が決められないという事態に僕も直面している。
しかし幸か不幸か、最近の僕は空白の時間を欲していた。昨年の遠藤さんの入院を機に、遠藤さんが復帰した時により良い作品がつくれるよう、自分の実力を上げるために色々努力していた(もちろん、遠藤さんが亡くなった後には別の理由で空白が必要だった)。
ところが遠藤さんの葬儀の後、追悼企画などで非常にゴタゴタし、今までにない頻度でミーティングをせざるを得ない状況が続いた。このまま状況に流されているとマズいのでは、と思っていたところにコロナ危機である。当然素直に喜べるものではないが、ここ最近身の回りで起こっていた狂騒的な事態が一瞬でも収まってくれるのは、とても不謹慎ではあるが、少し助けられた気分だ。とは言え、目の前の仕事という側面から見ればどう考えても危機的な状況である。
ピンチをチャンスに、と言うとまた不謹慎な感じがするが、そういう風に思ってないとやってられないくらい舞台系の仕事はひどいことになる気がする。舞台は本番だけでなく稽古も必要で、しかも稽古のたびに役者や語り手は喉を酷使するわけだ。喉が消耗した状態で感染したら当然怖い。だから、お金のことは度外視するにしても、「これくらいの時期に収束するだろうから、その時期に本番を延期するよう設定して、それまでは稽古をしていれば良い」というようには都合よくスケジューリングできない(第一本番をやったってお客様がいらっしゃれるかどうかわからない)。特に出演者やスタッフに高齢者がいる場合はなおさらである。
ほんの数ヶ月前までは、眼前で行われるライブパフォーマンスという枠組みが、配信や記録メディアに比べて非常に訴求力のあるものだと、おそらく誰しもが思っていた。しかし、コロナによってあっという間にその優位性が崩れてしまった。何事にも絶対はないとは思うけれども、一時的(……と思いたい)ではあれ、こういう形でライブパフォーマンスが「全滅」するとは思わなかった。
気づけばここ数ヶ月、かつてないまでに身を切るような思いをして苦い学びを得ている。これを単純に喜ぶことは不可能だが、それでも経験を糧として自らを成長する機会にせねばならない。
時間的空白ができたことで、80年代に出た横浜ボートシアターの脚本集『仮面の聲』を少し読み直した。『マハーバーラタ』を題材とした『若きアビマニュの死』は以前何度か読もうとしたが、登場人物のあまりの多さと名前の覚えづらさゆえに敬遠し、今までちゃんと読んでいなかった。しかし、今回は本当によく物語が身にしみて、感動すらした。実際泣きました。
『若きアビマニュの死』の脚本は、『マハーバーラタ』という途方もない古典に、20世紀の戦争を経験した人類の実感を加えることで、神話とは何かという問いを日本人に対してうまく提示したと思う(話の展開も非常に象徴的で、よくできている)。
そして、作品全体からは、インドネシアで独自の『マハーバーラタ』が発達したように、日本土着の『マハーバーラタ』を作ってしまおう、という野心がうかがい知れる。その企てを高いレベルで達成しているわけだから本当にすごいと思う(僕はボートシアターにズブズブですが、今の所、劇団員ではないのでギリギリ身内びいきではない、と強弁しておく)。遠藤さんが生きているときにこういう話ができたら、もうちょっと元気を出してくれたかもなあ。ちょっとした知的怠慢ですら大きな後悔を呼び起こすものだということ、これまた身を切って学びました。
こんな具合で、過去の資料の整理および鑑賞を行うことも、僕の空白を埋める重要な営みなのである。願わくばそれが社会的に重要な行為であらんことを(と言いつつ、そう信じてやってます)。