『永遠が通り過ぎていく』と父の事
今日は神戸グランドヒルで早朝スルーラウンド。ショットは良かったがグリーンが難しく89(39)という内容で終了
コースまでの行き帰り、昨日観た『永遠が通り過ぎていく』のことを思い返す。映画は3本のオムニバス方式で、エンタメではなく、監督自らを表現する内容で、監督の構成する血、肉、臓物を見せつけられているような衝撃だった
人は他人を構成する血、肉、臓物、その全てを浴びせられた時、どうなるのだろうか?私はそれを受けて自分の成り立ちについて思いを巡らしてしまった。そして一番影響を受けたのは誰かなぁと考えたが、車内で一番長い時間考えたのは父のことだった
私の父は在日韓国人2世で、祖父は川崎駅前の方で売春宿をやっていたとか、ポン中で若くして亡くなったとかなんて話を聞いているが定かではない。ただ血縁の分からない親戚のおじさんがパチンコ屋を経営していたりしていたので、普通の家庭よりも少し複雑な家庭に育ったのは間違い無いだろう
叔父たちの話では、父は子供の頃から腕っ節が強く、スポーツ万能で水泳部の助っ人に駆り出されてみんな競泳水着で泳ぐ中、1人だけ船橋ヘルスセンターへ行くような水着で大会に出場していたらしい。そんな男を同世代の女子が放っておく訳もなく、家に女の子が来ちゃうような学生時代だったそうだ
高校に入ってアマレスをやるもすぐに父の父(私から見た祖父)が亡くなり学校を退学。ダンプを転がしてカネを稼ぐようになり、18歳になってから実技のみで免許を取ったという
その後、色々な仕事をした(私は小さい頃にマムシドリンクを売っていたなんて話を聞いたが、母はそんな話は聞いたことがないといっていた)のち、姉(私の叔母)の紹介で母と出会い結婚。勤め先の叔父の会社が倒産したことをキッカケに私が生まれた年に独立し、土建屋を起業した
私が物心ついた時はバブルへ向かう真っ最中。父はザ・中小企業のエネルギッシュな社長といった感じで、ゴルフを始めれば、当時高級だったビデオカメラ(VHSテープで録画するバカでかいやつ)を買って、ゴルフスイングを録画してスイングを分析しつつ、メタルヘッドのドライバーで300yかっ飛ばして70台でラウンドしていた
博打も好きで、特に競馬は好きで1970年の有馬記念スピードシンボリとアカネテンリュウの馬券を取ったなんて話をを聞いたものだし、当時としては珍しい中央競馬の電話投票の口座を開設して毎週末馬券を買うだけでなく、知り合いの川崎競馬の厩務員から朝一番に情報をもらっては馬券を買い、当たれば国道を渡って「琥珀」で遊んで帰る日々だったとのこと
スポーツを見るのも好きで、プロレスを毎週欠かさず見ており、特に維新軍のリーダーとして売り出していた長州力を贔屓にしていた。今思えば自分とバックボーンが似ていた(在日二世、アマレス出身の)長州の戦う姿に自分を重ね合わせていたのかもしれない
ラグビーも好きで、健志台で練習していた日体大ラグビー部をバイトとして雇いつつ、わたしたちを連れて健志台のグラウンドや秩父宮に試合を見にいったりしていた
演芸も大好きだった。ネタ番組を見ては「このネタは…」とか「このあとこんなこと言うぞ」みたいなことをよく言っていた。自身の周りにも笑いが絶えない人で、お笑いや演芸、バラエティといったものが本当に好きだったのだと思う。
ある時、家に塾の勧誘電話が来た時、ちょうど父の友人が訪ねてきていて急遽芝居を打ち、受話器の向こうに聞こえるように
「パパー、僕、塾で勉強したい!」
「なにー!(ドカッ!バキッ!)、あっすいません!なんの話でしたっけ?」
なんてやりとりをして勧誘電話をビビらせて遊んだりしていた
若い時分はタップダンスやダイススタッキングが出来たなんて事も言ってた気がする(母はそんな話聞いたことないと言っていたが)
女の子も好きだったのだろう。姪っ子達を可愛がり自分のことを「ハニー」と呼ばせて色々な物を我々男兄弟以上に買い与えていたらしいし、ある日突然母には一切相談なくNSXを買ってきて都心を走らせていたらしい
こんな男の欲望を叶えるままに生きていた父は普通の新聞だけでなくスポーツ新聞も配達で契約していたので、我が家には世の中の一般的な情報だけでなくイエローペーパーの情報も溢れかえっており、そのことが私や兄の人格形成に大きな影響を与えたのは間違いない
子育てに関しては、勉強して結果を残せばカネを出すというスタイルで、月の小遣いとは別に通知表の成績や、塾の月例テストの順位でボーナスが出るという仕組みだった。お陰で私は中学生の時に自分の小遣いでCDラジカセを買うことが出来たが、その小遣い自体が勉強のモチベーションとなることはなかった
また、叱るときの怖さはハンパではなく、自分より強い兄を叱る姿を見て育ったので、いつの頃からか父の顔色を伺うことが多くなった
そんな父は、私が高校入学した秋に癌で亡くなった。葬式は盛大に行われ、斎場に送迎していたタクシー運転手が「芸能人の葬式ですか?」と聞いたらしい。嘘か本当か1500人の参列があったと聞く
亡くなったのが1993年なのでちょうどバブルが崩壊した頃。その後のことを考えると良いタイミングで亡くなったのかもしれないと思うこともある。ただ、あのエネルギッシュな姿と葬式を見せつけられると、一生越えることは出来ないだろうなという諦めと、息子がこんな小物に育って申し訳ないという気持ちが入り混じる。ただ、父が愛した趣味嗜好というものは、私の身体の中にしっかりと残っているのだなぁと、まとめてみた改めて思った
昔、この話を友人にしたら、周りに聞き取りをしてエピソードを集めるべきだと言われたが、叔父叔母も最近連絡をとっていないのでおそらくそれが行われることはないだろう。思い出と幻想を膨らませて、抱えて生きるのも悪くないと思う一方で、タイミングが合えば答え合わせもしてみたいものである
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