朝ドラと上野千鶴子さんと
色々と発信していきたいことがある、と思いながらも、いざブログが全世界に公開されると思うと躊躇しすぎて、初回投稿からなかなか踏み出せずにいましたが、記念すべき2回目の投稿です。
ところでこの4月以降、私は初めて朝ドラ「虎に翼」にハマっています。そしてほぼ毎回、泣きながら観ています。朝リアルタイムで観た後はFacebookグループのみんなの投稿を見たりして、またアプリで見返したり。日々の原動力となりつつも、若干日常生活に支障をきたすくらいまでのハマりよう…。グループ内では基本的にファンが投稿するので前向きなコメントが大半なのですが、巷では一部フェミニズム偏重の朝ドラに批判的な意見もあるらしいですね。
私の仕事の原動力はいくつかありますが、虎に翼を見ていて改めて認識したのは、自分の経験した不公平、不公正さを、今の時代に同じような思いをする人がなくなるように、という反骨精神のようなものがあるんだな、ということ。特にやはり就活をするまでには「ほぼ」感じなかったジェンダーによる不公平感が大きい割合を占めています。これを何と呼ぶのか、私はフェミニストなのか?と何度もその言葉にたどり着きつつも敬遠してきてしまったのは、「フェミニスト」「フェミニズム」という言葉に対する、ある種私自身の中での偏見があるのでは?ということが理由のように思えます。
しかし、朝ドラをきっかけにジェンダー問題へのアンテナが超高感度になっている今、色んな情報から当時も話題になった、上野千鶴子さんの平成31年度東大入学式の祝辞に再度たどり着きました。
当時にも読んではいましたが、今回改めて一言一句読み進めてみて、自分はとても恵まれてきたんだな、と感じています。努力をすれば報われる、と思える今があるのは、幼少期から、女性だから勉強しなくていい、という類の言葉を「直接的に」掛けられた記憶が一切ないこと。私の時代ではもうそれは当たり前だったのでは、と思っていたのですが、最近同世代の友人(女性)が、自分の息子は勉強を頑張らないといけないが、娘はそこまでじゃなくてもいい、という発言をしているのを聞き、そういう価値観を持つ人がまだまだいるんだということに気づきました(だからといって娘さんの可能性を狭めるようなことはしてなさそうではあるのですが)。
親からも、学ぶことを止められたり否定的に言われたことはなかったですし、学校でも「もっとリーダーシップを発揮してみんなを引っ張っていってほしい」ということを言われたりすることがありました。だからこそ、大学に入ってからのジェンダーギャップ(特に就活での)にビックリしすぎて、なぜ誰も世の中はそんな不公平だと教えてくれなかったのか、と恨み節すら出てきましたが、教えてもらう機会がなかったからこそ今もそこに違和感を持ち続けられているのだろうと思います。ダイバーシティを専門としている私ですら、その違和感はある程度隠してやり過ごすほうが、社会生活がうまくいくことをいつの間にか習得してしまい、いわゆるスンとしてしまうことが日常になってしまっています。
そこにきて、朝ドラで寅子が躊躇なく「はて」と言い続ける学生時代にも、子どもを産んで挫折を経験して「スン」としてしまうことが日常になってしまった戦後時代にも、そこの葛藤を乗り越えて「はて」が復活した今にも毎日泣けて仕方がない状態なのです。
まだ「フェミニズム」を声高に掲げる勇気がないながらも、上野さんの祝辞にある、「フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。」という、ありのままに皆が受け入れられ尊重されるという社会を目指して、仕事に戻りたいと思った今日であります。