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No.21

この2週間の私の内側に起きた変化が細か過ぎて、うまく思い出せないでいる。しかも日々薄くなって消えていくから焦る。
まずは今もまだはっきり覚えている感動を書くことが過去の記憶を思い出すきっかけになるのならこれ。11番から順を追ってnoteを書いてきたことが、私にとってここ数年のうちで最大級のサイコマジックになるなんて思ってなかった。

ワークショップをするとき、私は最初にタロットカードを引き、出たカードの数字によって募集する人数をそのつど決める。今回はなぜか22枚でシャッフルしてしまい「愚者」が出た。お客さんが一人もいないワークショップ….。ありかもしれないが、わくわくしないのでもう一枚引くと20番が出た。椅子がないし、20人相手にやる気も起きない気がした。

結局そのままインスタを使って募集した。初日に一人お申し込みがあった。それ以降お申し込みはまったくなかった。人気がないみたいで恥ずかしいと思う自我に負けずに宣伝し続けた。(この展開の渦中にいた時のわくわく感を思い出そうとして書いているけど、エゴによるショックもあったからだろう、うまく思い出せない)

愚者のカードを引いた時、今回は一人の人と深く向き合いたいと思ったこと。瞬時に浮かぶ願いが現実になる奇跡は子供の頃からあったし、誰にでもあることだ。11番について書くことでnoteを再開した時に、その後急にダイエットを始めた時に、プロテインの嘘に体が気づいて買ったサプリも含めて全部捨てたときに、しーちゃんとアリラン・ラプソディについてラインした時に、タロットやれば?とかわちゃんに言ってもらったあの日に、タロットを無料にすると決めたあの時に、自分で映画を撮りたいと思ったあの夜に、それぞれのカウントダウンが始まっていたのだ。私がなぜ乾癬になり、ホドロフスキーの映画と出会い、花屋を引退して引きこもったかの理由に自分でちゃんと気づくための、生まれ変わりへの。

下高井戸シネマで見た「アリラン・ラプソディ」は前の日の夜、急に思い立って見に行った。全く期待していなかった。そもそもあの底抜けに明るいはんめたちの衣装と笑顔のチラシが好きじゃなかった。私が嫌いなタイプの思想や理想がくっついていそうだなと思っていた。だけどもうひとつ別の直観を信じることにして、一人で朝早くから見に行った。
散々泣いて、帰りのカウンターで前作の「花はんめ」のDVD4枚買って、それはつまりぜんぶ買い占めてしまったらしく、カウンターの人たちがざわついていて、監督には笑顔で「強烈〜!」と言っていただくという結末に自分でびっくりしていた。このドキュメンタリー映画を見ている間、涙が止まらなかったのは、まずひとつに私が拒否して拒否して拒否し続けた在日の風景、馴染みのあり過ぎる風景がそこにあったからで、汚いアパート、はんめたちの柔らかい体、無邪気な笑顔、キムチをつける手、唐辛子まみれで、太くて、しわだらけで、日に焼けた手を、めちゃくちゃ美しいと思った。心から懐かしく、自分の受け取り方の変化の全てに泣けてしまった。
監督への感謝も大きかった。面倒くさいことの最たるものだった在日の起源を知る探究の旅を、自分の親が死ぬ前に向き合わないと後悔しそうだと思ってドキドキしていた私の代わりにしてくれた気がして泣いた。今は亡き、私のはんめに会いたくて、小さい頃にたくさん抱きしめてもらったことも思い出して、涙は止まらなかった。日本語が実はあやふやなままだったかもしれない父への感謝も、人生のすべてを捧げて私たちを育ててくれた母への感謝も、ぜんぶがぐるぐる、とまらなくて、大粒の涙になって、いつまでも止まらなかった。ちょっとあのおばちゃん大丈夫?なくらい泣いていたと思う(笑)。

「私は感じすぎ、意識しすぎ、もっとも単純な会話のあとでさえ、その反響でくたくたになった。しかし深いぶつかりあいは実はいつも、生まれ変われていない私、人を苦しめつつみずからも苦しんでいる私自身とのあいだに起こっていたのだ。」独り居の日記 /メイサートン

私たちは一度の人生で、実は何度も生まれ変わっている。古い信念や思い込みを手放して、変化に身を委ねる道を歩くとき、この世界が奇跡に満ちているとわかってくる。奇跡が視界に入ってくる感じ。だからその変化の兆しを受け入れるかどうか、選択するかどうかだけが面白い遊びに、興奮になるのだ。

私はたぶん、ホドロフスキーの「宇宙の法則」を100信じているわけじゃない。たぶん50くらいは常に疑っている。それはその疑いの分だけ自分のことを疑っているということだろうと思う。自分を100は信じていない。100までは愛していないのだ。それはとてもかわいそうなことじゃないだろうか?

たった二日前の夜、たった一人のお客さんに話かけながらも、まるでそれは私の自我と話している感覚になり、少しずつ蓋が開き、抑圧していた抗えない欲望が恥ずかしそうに顔を出しはじめた。私の古い方の軸がぐらついていく感覚があって、それはものすごく重い扉を開ける前の不安のようなもの、とにかく私の自我が全力で抵抗してるのがわかった。でも負けなかったのは私にエネルギーが戻ってきていたからだ。ホドロフスキーの世界に、タロット哲学に、この二年半の間思う存分集中した結果だと思った。

Bed Room


朝起きてすぐに聞こえる自己否定の声や恐れの感覚、将来の不安でいっぱいになるときこそ勝負。ただただ今に集中することを私は学んだ。目に入る景色の細部に意識を向ける。ピンク色のトートバックを干している。かわいいなと思う、そのたった1秒だけの真剣勝負なのだ。美に意識を向ける。肥大化した自我に負けないように、すべてのエネルギーを細部に注ぐ。それはピンク色のトートと白黒のポスターの調和を愛おしい気持ちで見つめる1秒だったりするのだ。
秩序ある静かな生活が、その繰り返しが、私の鬱を消し去ってくれた。その気づきに今こそ光を当てること。私が抵抗し、隠してきた欲望に光を当てる。何度も何度も生まれ変わることに対しての許可を、今もう一回降ろすために。
47歳の最後に、来週48歳になる前に、内側に起きた目に見えない大きな変化が嬉しくて、もう一度頑張ってみようと思ってる。

(次回からはインスタにアップする感覚で、忘れないように書き留めておきたい気づきを少ない文字数でも気にせずにアップしていこうと思っています。不定期更新なのに読んでくれてありがとうございます。これからもよろしくお願いします!)