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言い訳ではなく(言い訳や)、下高井戸シネマで見たナン・ゴールディンのドキュメンタリー映画「美と殺戮のすべて」の余韻に浸っていたらnoteの更新が遅れた。

先々月から会員になった下高井戸シネマは、スクリーンがひとつだけの小さな映画館で、1日に6本の映画を朝から晩まで1週間だけ上映する。見たいのがあっても行こうと思う時は終わっているから、ここは気合いを入れて仕事のつもりで通っていたら、会員証にスタンプがめちゃくちゃたまる。スタンプってこういう意識でいるときにたまるのかと知った。

この映画ではっきりしたことは、私の行動がどれだけ神秘主義的になろうとも、マインドはこの先も一生フェミニズムだということだった。疲れ果て、とにかく沈めたつもりの感情が映画の序盤で目を覚ましたのがわかった。人生に対する怒りと愛についての絶望と。しばらくの間はその余韻に言葉を失っていたので、トートバッグにFLOWERという文字を刷る作業がはかどって仕方なかった。

印刷の工程は完成し、昨日はアイロンをもう一回ずつかけたところで、土台の縫製があまいのは仕方ないけれど、あまりにほつれているものはかわちゃんに縫ってもらうのでよけてある。完全にできあがったものはまず店に並べるつもり。リーディングに来る人たちや、ワークショップの時に買ってくれたら嬉しい。STORESにも今月末には出せるだろう。今回こそは地味な色展開にしたかったのだけど白で5色、ピンク3色、カーキ3色、ベージュ3色、グリーン2色、店頭分しかないブラウンやグレーも入れるとなかなか)

white✖️Yello
white✖️silver
white✖️blue
white✖️green
white✖️black



“ 治療するためのアートを実践することを決意した時、私は自分のエゴの囲いから出て、世界の痛苦へと足を踏み入れたが、そこで家族の問題に直面することになった- 二、三、四あるいは五世代にわたる一つの病の反復だ。繰り返される癌、繰り返される名前、繰り返されるレイプ、繰り返される離婚、等々......。”
サイコマジック /アレハンドロ・ホドロフスキーより

「美と殺戮のすべて」の中で私の心をより鷲掴みにしたもの、より深く突き刺さったのは、大きな資本の製薬会社と戦う「P.A.I.N」の活動の方ではなくて、自分の家族に向けるナン・ゴールディンの大きな愛と静かな眼差しだった。子供を育てる段階にいなかった未熟な親とその親の犠牲になった娘たち。お母さんがナン・ゴールディンに今カメラを回してるのか確認するときのあの顔はずるい。完全に弱者の笑顔やんと思った瞬間、涙を止めるものが完全になくなって泣いた。お父さんとお母さんのダンスも号泣だった。つまり私は上映1分くらいの言葉で泣き始め、最後のシーンで号泣し、お腹がすいてヘロヘロと帰った。下高井戸シネマから家までは歩いて15分。

ナン・ゴールディンの人を許す力に憧れる。私は自分の闇や邪や悪をまだまだ許してないから映画を見て泣くのであって、愛することは許すことだと思うし、自分を許したときや、許そうと決めたときに湧いてくるものが癒しのパワーだとも思ってる。

“自己実現とは本来の自分となることである。そのためには自らの欲望を認め、それを制御することが必要になる。”これは「タロットの宇宙」15番の悪魔の言葉。「制御」の意味が知りたくて英語版を買った。
“The realization consists of being who one is. This presumes the acknowledgment and guidance of our desires.”
タロットカードの解釈って英語の方が腑に落ちる。

映画を見た帰り道でふと、もし時代が違っていたら、私もドリス・レッシングやマルグリット・デュラスのように共産党に入っていたかもしれないと思ったら、私が恐れているものの輪郭が見えてきた。活動家になる可能性への恐怖。怒りが全てを壊してしまう恐怖。また失望する恐怖。

タルコフスキーの「ノスタルジア 」もよかったが、タル・ベーラの「ヴェルクマイスター・ハーモニー」がめちゃくちゃよかった。シャワーを浴びてたおじいちゃんのしわしわの体や下半身も含めて、人間が持っていて欲しい愛の描き方がかっこよかった。この世界にはいろんな映画監督がいると思うと心に風が通る。


下高井戸シネマからの帰り道。
世田谷線の脇に咲く鬼百合がきれい。