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こたえ
こたえは変わって当たり前だといいな、と常々思う。
人生は選択の連続だと言って、答えを出さなきゃいけないことが、日々山積みになっているようにわざわざ感じにいくことは、とても窮屈だとも思う。
自分は然り誰かの答えが変わった時も、素直にそのときの答えを受け取れる自分で居たい。前言ってたことと違うじゃん、なんて揚げ足を取ったりしたくなくて、ただ、あぁ今はそうなんだなと思いたい。
一度決めたら貫き通すとか、二言はない、というのはとても強い言葉だなとも改めて思う。二言あるある、というスタンスで居たいです。
ただ何かを決めたり、貫き通すことが必要なときは、自分の心に正直である為でありたい。一度決めたから、への義務感ではなくて、誰かへその姿勢を見せるためではなくて。結果的に貫いたことになったな、くらいの心持ちでありたい。
そして、自分の決断を自分で信じてあげられるわたしで常に居たい。信じるっていうのは、わたしが決めたんだからきっと大丈夫だよって自分自身に言ってあげられる力のことかなと思う。
生きていると、明確な返事をしなければいけない場面にしばしば会う。
その度になぜかわたしはとても緊張していて「こ、ここれがこたえです…!」というような、或いは「恐れ入りますがこちらがこたえでございます、何卒よろしくお願い申し上げます」というように、何かすごく大切なものを差し出す。
多分それは〝こたえ〟というものを大きく捉えすぎているせいで、総力を上げて排出する答案用紙みたいになってるからで。
多分もうすこし肩の力を抜いいいんだと思う。
どこかでこたえは変わっちゃいけないと思っているから、肩が凝り固まる。こころでは、反対のことを大切にしているはずなのに。一貫できない自分を恥じている部分が、拭い去れないんだと思う。
映画『ソラニン』の終わり方が好きだ。
観たことないひとにはネタバレもネタバレになってしまうので、ここで読むのをやめてほしいのだけど、映画は最後に暗転して、主人公の「今日は、そう思う。」というセリフで終わる。
わたしはそれが、どうしようもないくらいに好き。ふわっと肩の力が抜ける、長く息を吐ける、こころがじんわり軽くなる。
そうだね、きっとこたえなんてものは、いつでも、今だけのものに過ぎない。ずっと同じこたえっていうのは、そのこたえが出るってことが何度も続くってだけで、最初から、変わって当たり前だったんだなと思う。
誓いの言葉とか、永遠の約束とかは、とても強い言葉なのに、まるでそれが当たり前で、正義みたいだ。間違っちゃいけない、変わっちゃいけない、変わることは悪いことみたいな共通認識に、わたしはいっしょになりたくないなと思う。
もしそういう機会があるなら、ずっと一緒にいたいと、いま、わたし確かに思ってるよって、そしてそれが永遠に続くことを心の底から願ってる、そう思えることが、いまわたしとても幸せなんだよって、それだけ言いたい。
だれかとわたしの、こころのやさしいところを、いつでも大切にできますように。
記憶、こころの一句。
「笑わずに君の話を聞く 薬局の看板で笑う太ったリス」