イギリスの自由さを言語化してみた

イギリスに来て感じる自由さ。言葉にできなかった雰囲気を、Leedsフェスティバルを通じて言語化してみた。

それは個人が自分のやりたいことを臆せず実行する一方で、他を尊重するということかもしれない。

Lana Del Rayのファン3人が大きなカウボーイハットを被っている。当然後ろからの視界は遮られるんだけど、誰も何も言わない。
盛り上がると肩の上に乗るんだけど視界は遮られる。これは寧ろアーティスト側も煽っていた。
絶えず鼻に入ってくるベイピングやweedの香り。大胆なファッション。
こんなこともあった。
ショーの合間、床に座る人が多い。床に座ることで足場となり面積が減り、人の流れが途絶えるし、人が雪崩れてくる危険性があってもだ。ちょうど隣の女性3人が座り込み、人の流れが堰き止められ、周りは寿司詰め状態となり、何人かは身動き取れなくなった。数人が立てと注意したり、こいつら踏んでこっち来いよみたい煽るんだけど、彼女達は自分の意見を主張して一向に引かない。痺れをきらした男性が強い口調で怒鳴るも効果無し。一方で彼女達3人の前に立って身動きとれなくなっている人達は苦言を呈しながらも座っている人達の意見を尊重して、セルフィー撮るのを手伝ってあげたり、人波で倒れないように寧ろ大丈夫かと気遣ってあげたりさえしている。

周りを気にしない。自分の考えが大事。
それは夏に涼しげな着物を来て、周りの人達からの涼感を誘発することで完成する日本の意識とは真逆だ。
一方でそんな自己を貫く姿勢を否定しないとする寛大さもそこにはある。

妻がこの国は誰もが物語の主人公のようだと呟いた。
強い自己主張と同時に、他人を尊重する姿勢。これがこの国は自由だなと大雑把に感じるあの直感の背後にある何かなのかもしれない。
と同時に60年代、ビートルズの文脈から続く圧倒的な想像力の源泉なのかもしれない。


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