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マイトガイ・小林旭の軌跡 PART2 MIGHTY GUY ON MOVIES 1961〜1964


 昭和36(1961)年。アクション帝国日活を支えていたダイヤモンドラインに大きな変化が訪れる。前年12月、全国の映画館主の熱いリクエストに応えるかたちで宍戸錠のダイヤモンドライン入りが決定するが、1月には石原裕次郎のスキー骨折事故による降板、二月には赤木圭一郎の事故死という連続アクシデントに見舞われてしまう。その混乱の中で、変わらぬアクションとシリーズ映画で屋台骨を支えたのは、我らがマイトガイ小林旭。

 四月には「流れ者」第五作『風に逆らう流れ者』(4月9日)と「渡り鳥」第七作『大海原を行く渡り鳥』(4月29日)が連続公開されている。同工異曲とはいえ、好敵手・宍戸錠を欠いたマイナスを、様々なアイデアでリカバー。サービス精神旺盛のマイトガイのアクションもさらにパワーアップ。その底力は並々ならぬものではなかった。 

 しかし「流れ者」はこれが最終作となり、「渡り鳥」もしばらく作られなくなる。小林旭の活劇が、それまでの放浪者を主人公にしていたものから、『都会の空の非常線』(6月18日公開)のような、特殊な職業を持つ主人公へとシフト。『太陽、海を染めるとき』(7月15日公開)では二等航海士、『高原児』(8月13日公開)では工事現場監督、『大森林に向って立つ』(9月23日公開)では森林伐採とその輸送に携わる作業員と、いずれも定職を持つキャラクターとなっている。

 とはいえ「渡り鳥」「流れ者」で醸成されたイメージやパターンを踏襲しているので、それぞれがそのバリエーションにもなっている。殊に『高原児』(8月13日)は、『大草原の渡り鳥』(60年)を和製西部劇の頂点に高めた齋藤武市監督が、徹底的にこだわって作り上げた「渡り鳥」タイプの世界。助監督として小林旭をささえ、『都会の空〜』二部作で航空アクションを手掛けた野村孝監督による「流れ者」を意識した『大森林に向って立つ』は、前年に完成されているマイトガイ映画の世界を踏襲したものに他ならない。

 それは主題歌、挿入歌にもいえる。西部劇テイストの主題歌、コミカルなアキラ節の按配は、年少ファンや多くのアキラファンの期待に応えるものでもあった。「流れ者」第一作『海から来た流れ者』(60年)の「ダンチョネ節」からスタートした「アキラ節」路線は、民謡や俗謡とリズムの融合というコンセプトをふまえて様々なバリエーションを生み出していた。後に俗謡や近代歌謡史を編纂することになる作詞の西沢爽の見識、補作曲の遠藤実のメロディラインや、抜群のセンスでアレンジを手掛けた狛林正一らの才能があればこそのアキラ節だった。この昭和36年には、こうした「アキラ節」というジャンルの副産物で、植木等の「スーダラ節」が登場している。もちろん「スーダラ節」は、作詞・青島幸男、作曲・萩原哲晶といった異才による傑作だが、これが作られ、支持される土壌には「アキラ節」の定着があってのことと推察される。

 そういう意味ではこの昭和36年は「アキラ節」の全盛、「植木節」の登場と、まさに「節(ぶし)道」が本格的に撩乱した年ともいえるだろう。
 こうした職業アクションでも、「渡り鳥」同様、ヒロインを浅丘ルリ子が演じており、昭和34年の『南国土佐を後にして』からのマイトガイ映画黄金時代の快進撃がずっと続いている印象を受ける。昭和35年に製作準備なされながら、延期となっていた『嵐を突っ切るジェット機』(11月1日)で、『海から来た流れ者』から連続二十本続いた浅丘ルリ子との共演が途絶えることになる。

 スーパーマン的なマイトガイ映画の「哀愁」という要素は、「流れ者」の「さすらい」などの歌にあったが、そうした「哀愁ソング」をドラマ化したのが、昭和35年の『やくざの詩』の路線を継承している『黒い傷あとのブルース』(12月10日)だった。この年の四月に、コロムビアでリリースされた「黒い傷痕のブルース」は、アンリ・ド・パリ楽団のムーディーなインストゥルメンタルの日本語カバーとしてアキラが歌っていた。半年以上もチャートに入っていたこの曲の映画化を目論んだのが、日活撮影所企画部と児井英生プロデューサー。哀愁のヒット曲をベースに、過去を持つ男と少女の愛を描いたアクションドラマは、アキラの新境地ともなった。相手役はまだティーンだった吉永小百合。余談だが、新東宝系で同時期に同名映画が作られている。主演したのは『女を忘れろ』(59年)でアキラに怪我をさせられるボクサーを演じ、その後、日活を退社した牧真介だった。

 『黒い傷あとのブルース』の成功は、新たな「哀愁アクション」というジャンルを成立させ、続く『渡り鳥北へ帰る』(62年1月3日)も、これまでのコミカルなテイストを排除した情感あふれる哀愁ドラマとなった。そのコアとなったのが、歌声喫茶で流行していた「北帰行」。文語調で唄われる独特のロマンチシズムは、小林旭の歌の世界を広げた。実質的な「渡り鳥」最終作となった『渡り鳥北へ帰る』は、久々に浅丘ルリ子とコンビを組み、第一作の舞台・函館でシリーズは大団円を迎え、渡り鳥・滝伸次はスクリーンから去ることになる。 

 昭和37(1962)年は小林旭の転機の年でもあった。前年末からのハリウッド視察旅行、浅丘ルリ子とのゴールデンコンビの解消、雑誌の対談で知り合った美空ひばりとの結婚・・・。そうしたなか続いていたのが「暴れん坊」シリーズ。ルリ子との最後の共演となった『夢がいっぱい暴れん坊』(4月1日)は、アメリカ土産のツイストを全面的にフィチャー。シングル「アキラでツイスト」や同名10吋LPの発売と、アキラは新しいリズム「ツイスト」旋風の台風の目となった。このシリーズは翌昭和38(1963)年にも『銀座の次郎長』(6月2日)、『銀座の次郎長 天下の一大事』(9月29日)と、最終的に5作続き、松の湯の秀子役は笹森礼子、松原智恵子が演じることとなる。

  昭和37年、『嵐を呼ぶ友情』(59年)以来、久々にジャズマンに扮した『遥かなる国の歌』(7月15日)では、フィリピン民謡の「ダヒルサヨ」を山内賢とデュエット。哀愁のサーカスアクション第二弾『地獄の夜は真紅だぜ』(9月22日)などの職業アクションの他に、やくざ映画の萌芽的存在の『渡り鳥故郷へ帰る』(8月12日)が作られている。題名こそ「渡り鳥」であるが、下飯坂菊馬脚本、牛原陽一監督によるこのお盆映画は、現代任侠アクションのパターンを確立。それまでの放浪者のアクションから、組織の対立のなかで隠忍自重の挙げ句立ち上がる、義侠心に富んだヒーローへとシフトしている。もちろん日活映画のセオリーである「個」の回復というテーゼを守っている。

 この時期、職業アクションに加えて、ハードボイルド志向の強い『望郷の海』(10月21日)や、『カサブランカ』を下敷きにした『波止場の賭博師』(63年2月17日)、ハードボイルド探偵もの『夜の勲章』(63年3月31日)などが作られている。日活アクションもコミカルなものからハードなものへとシフトしていた。そんななか登場したのがアキラ初の任侠映画『関東遊侠伝』(8月11日)。宍戸錠が久々に共演し話題となった任侠路線は、日活アクションの中心的存在となる。その後、鈴木清順監督との『関東無宿』(63年11月23日)、『花と怒涛』(64年2月8日)などが連作されていく。和製西部劇のヒーローは、いつしか着流しの渡世人へとなっていった。

  昭和39(1964)年、美空ひばりと理解離婚をした小林旭は、10月に日本クラウンに移籍。映画界の斜陽が叫ばれるなか、サービス精神旺盛のマイトガイは、捨て身のアクションをさらにエスカレートさせ「賭博師」シリーズに主演していくことになる。

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