子供のころ、陽キャだったやつほどノスタルジックに浸る。
大阪府のV字型の市。
独特でちょっと冷めた雰囲気をもった街。
まぁ大阪は元々独特な街が多いわけだけども。
私は子供のころは、今で言う陽キャ。
まぁ、家に帰らず遊んでましたね。
秘密基地・冒険・戦い。
子供が思いつく遊びは全てやった。
バカをやってた小学生時代。
あれから約30年が経った。
現在は結婚し、子供にも恵まれ
V字型の市の隣町で暮らしている。
隣とはいうものの、地元を歩くことはほとんどないし
今住んでいる街は割と活気がある。
こんなに近いのに、ここまで雰囲気が変わるものか?
なんて思ってしまう。
さて、V字型の市を久々に冒険した。
公園で遊ばせる
細かく見ると街は変わった。
大きく見ると街は同じだ。
小学生の頃からある建物や公園の遊具を見ると、その時の思い出や
景色が蘇る。
遊具を遠目に、公園のベンチに座ってみる。
(危ない事してたよなぁ、走りまわってたなぁ)
なんて妄想の中で当時の自分を遊ばせてみる。
これが意外と楽しい。
そして泣きそうだ。
当時の自分の年齢と同じような年代の子供が遊んでいる。
自分よりもスマートに、大人しく。
恐らく親が"それ”をさせないのだろう。
当時の自分はしていたクセに。
ノスタルジックには友人の家
子供の頃の友達の家を巡るのには少し抵抗がある。
なぜって?
表札が変わっているとガッカリするから。
ガッカリと同時に思い出を消された気がする。
表札があるだけで、また”それ”は保存されている。
表札が消えていると”それ”は初めからなかったものになる。
元友人宅に着くと懐かしき友に会いたいと思う気持ちと
万が一、ばったりと出会った時の恥ずかしさで心が揺さぶられる。
会いたいけど会いたくない。
思い出は思い出で良いのだ。
現実の友人は大人なのだから。
私が会いたいのは”当時”の友人に”当時”の私が会いたいのだ。
なんでここにお前が?
なんて疑問を投げかけられても言葉に詰まってしまうだろう。
そんなこんなで現実を生きる
たまにはノスタルジック巡りも楽しい。
しかし現実には時が進む。
壮大な宇宙にポツンと浮かぶ地球。
その中でポツンと生きる自分。
壮大なものを見てしまうと
自分の悩みや生きた証など、あたかも大したものでは
無いように写る。
でもその”大したものでは無い”中で実際に生きている。
自分を下げた気持ちになる物を見るより
たまには生きてきた証を探しに行こう。