何もかもわからなくなったのでちょっとまとめてみる。
お久しぶりです。といってもほっとんどの方にとっては「初めまして」ですね。
いつの間にかiPadにnoteが対応してくれていたんですね、ありがたいです。
今日は、何もかもわからなくなってしまったのでちょっとまとめてみたいと思います。ああ厨二病、という感じな気もするのですがまあ暖かな目でも冷ややかな目でも構いませんので読んでもらえると嬉しいです。超ネガティブな記事になりそうな予感がしてますが、よかったらコメントとかいただけると嬉しいと思います。まあちょっと脳内の情報をガバッとアウトプットしてみたいと思います。よろしくお願いします。ありのままをアウトプットしますので、文章としての見栄えはそんなに良くないかもしれないです。(早速次の段落から文体が混ざっちゃってますね笑)。ご了承くださいませ。もしかしたら今後、一部のトピックに絞ったりして再編集して改めて投稿、ということもあるかもしれないです。
前置きが長くなりましたが、次の段落から一応本文です、どうぞ。
まずは教育というものが良くわからんくなってしまった。特に教育学。教育なんて上の人のエゴの押し付けに過ぎないのではないか、と思います。で、教わる側がそのエゴに同調できて初めて、「先生-生徒/学生」の関係が成り立つんじゃないかなぁ、と。だから、社会的に役に立つとかは究極どうでもよくて、なんでも(ゲームとか)の先生が存在して、もっとちゃんと稼げるような社会になってもいいような気がするんですけどねぇ。まあ、一部習い事は「教育的にいい」ということで許容されてるみたいですけど、もっともーっっと幅広くていいんじゃないかな。ゲームずっとやってたって良くね?って正直思いますけどね。子供の目悪くなるのが嫌なんじゃなくて、「ずっとゲームしてるような子どもを持っている自分」が嫌なんだろうなぁ、と。弱いですね、以上の感想が出てこないです。
…いや、義務教育は要るかな。騙されないようになる必要あるけど、それを10歳いかないくらいの子に独習させるのは厳しいものがありますし、社会的にも損が大きいです。でも私は、公教育は今よりずうっと自由でいいと思います。その点で、フィンランドとかの教育は、私が思う理想にかなり近いです。分数ができない?まあそういう子がいたっていいじゃないですか。別に死にはしないですよ。分数はできないとしても、フィンランドの学力って世界的には高水準なんでしょ?何が悪いんでしょうかね。今できる人が、変わりゆく社会に対応するのが嫌で、分数できる自慢したいだけな気がするんすけど気のせいですかね。
というか、義務教育は「義務」である必要がないんじゃないかな、って思い始めています。人と比べられることがどうしても多いわけですから、そう言うのが苦手な子にとっては苦痛でしかないでしょうね。僕は小学校の頃から体育はまじで苦手だったのですが、(気のせいだとは思うのですが)周りからの目が気になって、さらに嫌になって…という負のスパイラルがありましたね。面白そうと思ったものだけ授業を取れて、嫌になったらやめる。小学校とかでも、退学も休学も留年も安易に許可していいと思うんですよ。だってその子の人生なんだもん。別にきまったレールの上を走る必要なんてどこにもないですよね。
あとは、他人のことってほとんどの場合「どうでもいい」に帰結するんだな、と思いましたね最近。自分自身、(リアルの)名前にも「優しさ」「思いやり」系の漢字が使われてるのもあってか、他人に優しく、というのはずっと意識してきたつもりです。
お金ってなんで存在するんでしょうね。まあ存在すること自体には問題ないのかもしれないですけど、どうやら稼ぐためにはクズになるのが手っ取り早い、というように感じます。優しい人が損するような仕組みになっているように思うんですよね。
お金を請求できるようになっちゃってるのがどうなんだろうって感じですよね。恩着せがましいというか。いや、それで社会システムが円滑になってる、という側面もあるんでしょうけど。なんか良くわからんです。
色々考えた結果、生きるだけでお金が必要なのが謎なんだな、って思うようになりました。政治的な主張は何かと面倒ですし極力避けたいところではありますが、生きるためのお金ぐらいは配ってもらえて当たり前なのではないかな、と思っています。スポ根が絶対的に正しいとは限らないことはもう十分証明されていると思います。いろんな人がいていいわけで、それぞれがそれぞれの主人公でいる権利があると思うのです。でも、生きることを目的にせざるを得ない層が一定数いるのはおかしいです。ベーシックインカム、もらえたらいいのにと思っていますね。
というか、生存権の定義から考えても、生きるためのお金は支給されないと憲法違反じゃないですか…?なんか社会一般的なスポ根理論で有耶無耶にされてきたんとちゃうか、と思ってますね。
社会にとっていいこと、というのが然も存在するように言われることがよくあると思うんですけど、そもそも社会って「結果として出来上がるもの」のはずですよね?例えば、人を統制しようとする流れがあればそれは結果として「統制社会」とか「監視社会」とか言われるわけですよね。人々が幸せそうにしていたら、社会も自ずと「幸せな社会」になるわけです。
だったら、「いい社会を作ろう」みたいな目標設定ってナンセンスと言わざるを得ないように思うのです。結果として社会が良くなった/悪くなった、というのはあるかもしれないです。でも、社会は結果なのだから、目標はあくまでも「自分たちの都合」でいいような気もしています。いい社会を作ることは究極的な目標であって、正直1つの企業とかでできることではないように思います。お金を稼ぐことを目的にしたって、お金が回っていること自体が社会が良い方向に回っている証拠なので、別にいいように思いますね。
何いってるかわからなくなってきましたが、個々がやりたいことやってたら勝手に社会は良くなると思うんですよね。自浄作用のような、といったら伝わりやすいでしょうか。そんな仕組みになっているんだから、わざわざ嫌なことを仕事にする必要もないのかな、と思います。就活しないといけないのにまだ何もしてないバカたれが言うんですけどね。
話を変えましょうか。こういうこと書くと、甘ったれるなと返されそうな気もしないでもないですけど、そもそも我々って働くことで自分らや後世の暮らしを楽にしてるんじゃないんですかね?科学技術って、めんどくさいことをなんとか楽に済ませるために発展してきたと思うんですよ。もしそうでないならただの自己満になっちゃうわけですけど、何か他人のためになってると考えた方がいいように思うんですけどね。
だから、「近頃の若者は…」現象は、人類が発展してきていることの現れなのではないでしょうか。自分たちのおかげで若者が楽できている、と思えればそれでいいように思うんですけど、そんなに自分らの功績を自慢したいんでしょうか。
さらに発展して、基本的に自分にも他人にも甘く生きていきたいと強く思います。自慢をする人は、人から褒められないと自己肯定することができないから自慢をするのだと思うのです。そういう人を褒められる余裕が周囲には求められるわけですが、そのためにはまず自己肯定が必要です。そんなことを考えた結果、みんなでゆるーい社会を作っていければいいなぁ、という結論に至りました。
なんか結論っぽいのが出ましたね。おおー。書き出すことには力があるんですねー、すごーい。では、締まるような感じでもなく、本当に「列挙」という感じになりましたが、今回はこの辺で。またの機会があればその時はまたよろしくお願いします。