長男誕生、NICUに入院して抱っこするまでの3ヶ月間
2023年8月29日、長男が誕生した。彼は出産直前の検診時に心臓が少し大きいことや先天性心室中隔欠損症であることが判明した。出生直後から、NICUに入院することになり、それから現在まで3ヶ月が経過した今も入院中だが、僕たちは3ヶ月目に念願の抱っこをすることができた。
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2023年12月1日時点でも入院中ですが、僕たちの状況を前置きした上でnoteに残すことにしました。このnoteは以下のような目的で書きました。
サンプルを届けるからには多少なりともプライベートな部分も公開するので躊躇いもありましたが、それ以上に自分たちが当時から情報の少なさによりどう過ごしたらいいのか手探りで大きな不安を抱えていました。
なので、読む方に出来る限りの配慮をしつつNICUでの息子の変化や妻と共に大事にした考え方を発信することを決意しました。
時系列で振り返っていこうと思います。
記録的で、かなり長くなっていますがご了承ください。
産前 | 予定日1ヶ月前から繰り返された再検査
前置きとして、僕はoviceというバーチャルオフィスを通して新しい働き方を世の中に提案する従業員100名程のスタートアップ企業で働いています。
有難いことに誕生後、3ヶ月間の育休を取得させてもらいました。
妻は第一子となる長男の出産へ向けて産休を取得し、現在は育休中。
2022年12月に妊娠が判明し、2023年9月3日が予定日でした。
3月には胎児ドッグを受診して発達に何も問題はなく、7月末までは順調に進んでいたから、元気に生まれてくることを心待ちにして過ごしていた。
しかし、予定日1ヶ月前の8月上旬に産婦人科の先生がエコーで心臓に小さな違和感があるとのことで、念の為と、紹介状によって県の赤十字病院で再検査することになった。再検査を経て、原因不明だが心臓が大きいことや4~6mm程の心室中隔欠損症であることが判明した。
赤十字病院で45~60分位、妻がお腹にエコー器具を当てられて先生が画面で慎重に確認している間の緊張感を今でも覚えている。そして、結果を別部屋で説明用別紙*という心臓の画像がプリントされている用紙を使って「心臓の正常な動き」「診断名のVSDとは」「出生後のリスク」など詳しく話をしてもらった。その間は頭が真っ白になるのに必死に抵抗しながら理解しようとしていた自分がいた。(専門的な用紙、初めて聞く病状、そういった情報量に心が追いついていませんでした。)
*どの先生も断定的な言葉は避けつつ、診断結果の事実に基づいて今後の可能性を話してくれました。
僕たち親初心者は最初からはそういうことには気付かず、当時からかなり繊細に受け止めていました。「こうなってしまったらどうしよう」「原因不明ってことは何か合併症もあるのかな」といった具合で何か予想外のことや最悪の事が起きた時に、心が壊れないように予め想像して備えようと悲観的な思考が止まらず、これは人間の本能なのか?とずっと思っていました。この心の反応に抗うのは無理だったなあと振り返って思います。
再検査後、出産直後から何かあればすぐに対応できるようにNICUがある小児医療センターも隣接している赤十字病院で出産すべきという判断で病院を移動することになった。(産婦人科の先生には違和感を見つけてくれて頭が上がらないほど感謝しています。)
長男誕生 | 夫としての無力さを痛感
心臓の事情もあり、妻は予定日前に入院して備えることになった。
予定日の9/3より早い8/27には陣痛が始まり、彼は母のお腹の中でドンドコと動いていたそうだが必死に妻は痛みに耐えていた。
そして8/28に破水。
そこから数分間隔で痛みに耐え続けていた。
僕は自宅待機だったので何もしてあげることができず途方に暮れていた。妻のお母さんと電話して「今は何かあったらすぐに動けるようにお互いに何か食べておこう」と励まされ、僕は近くのお店で泣きながら牛丼を食べた。
深夜に少しだけテレビ電話で妻と顔を合わせた。電話中も当然数分置きに痛みが襲い、呼吸で何とか耐えている姿を目の当たりにした。あんなに辛そうな妻は初めて見たが、痛みを訴える言葉に共感の言葉も「頑張れ」なんて言葉も口にできなかった。とにかく呼吸の合図をしてあげることしかできなかった。願うことしかできない無力さを痛感した。
だけど、入院前に手紙を交換し合ったことは本当に良かった。入院中、妻は手紙を読んでそれを支えの一つにしてくれたからそれだけは役に立てたと感じた。
8/28の深夜1時頃まで起きていたがまだまだ子宮口が開くのに時間が掛かるから今夜は寝てと言ってもらい、僕は寝ることにして4時間程眠った。
朝5時に起きてからは時折LINEで状況を教えてもらいつつ、待つしかなかったが午前11時にとうとう妻から息子とのツーショットの写真が届いた…。
待ちに待った瞬間だった。産声を上げてくれたと言われて、とても安堵した。
とにかく頑張ってくれた妻と息子への大きな感謝で胸が溢れていた。
2023年8月29日。
こうして、海督*は39週2日に3241gで産まれた。
*息子の名前は「海督」と書いて、カイトです。
予定日1ヶ月前の8/3まで本当に色々と考えた結果、インスピレーションで響きはカイトだなと思い、以下のような想いを込めました。
「海」のように寛大な人になってほしい
「Be water」「上善若水」という教訓から「水」を含む漢字を入れたい
中正で偏らない、という柔軟性を感じさせる「督」という漢字が良い
「カイト」という響きは「Kite(高く舞う、舞い上がる)」という英単語に近しく、意味も素晴らしい(海外でも呼ばれやすいことは要素の一つ)
そこまで気にしていなかったが、結果的に画数も良かった
産後 | NICUで初対面、説明される病状
本当に良かった!本当にありがとう!という気持ちも束の間、
午前に産まれて午後にはNICUの入院手続きと説明を聞きに向かった。
NICUに到着後、諸々の説明を受けて書類を受け取った。
面会時間まで2時間程空いていたため、病院のラウンジで手続きに必要な書類をいくつか記入し終えて、予定時間まで気持ちが落ち着かずラウンジの椅子でボーッとしていた。
時間になって緊張しながら初めてNICUに入室して先生からの説明を聞いた。
詳しく全ては書かないが心室中隔欠損症(VSD)以外に海督には呼吸障害が起きており、人工呼吸器管理下とのことだった。この時点では原因不明と前置きされつつ、可能性として3つの原因が考えられると説明を受けた。
状況の説明後に、NICU内で僕はやっと海督と初対面した。
海督が寝ているケージの周りには見たこともない機器ばかり。
手足は安全のために拘束されている。
人工呼吸器の青い管が口から挿管され、両手足すべてに様々な点滴の処置がされていた。その中に鎮静剤も含まれていたため、海督は深く眠っていた。
面会時間は1時間と決まっており、椅子に座って隣でずっと見つめていた。
産まれてきてくれた感謝と目の前の現実にショックを受け、言葉は出ず、頭の中で色々なことが巡るうちに静かに声を押し殺しながら号泣していた。
面会後に気持ちを切り替えて、妻のいる病棟へ移動。
海督の状態を話して、その日は帰宅。
二日後に妻と共に主治医の先生から再度、状況説明を受けることになった。
その時に、呼吸障害の原因として「肺高血圧症」「気管軟化症」が疑われた。
「回復のために必要な処置は数日したが、通常の経過と異なる部分が多く、先天的な病気に伴う状態の悪化の可能性がある」とのことで、追加で根本的な原因を探るために染色体検査と遺伝子検査を提案された。
センシティブなことであるため、2~3日、検査有無について妻と話してどうするか決めることになった。
起きている症状が「原因不明」ということは想像以上に辛く、将来のためにも検査をして原因を明確にしたいということで検査に受諾した。
妻は産後の回復のためにまだ入院してる期間で色々と病名をググり、僕とも物理的に離れていることも相まって大きく不安を膨らませていた。僕も同じく沢山の記事を読んでしまい、かなり精神的に落ち込んだ。
そうして、原因不明なことばかりで目の前が暗雲で覆われた状態のまま、NICU入院生活が進んでいった。
入院1ヶ月目 | " 一日 " に集中する
自宅から車で片道1時間15分位の場所に小児医療センターはあるので、午後に向かい、1時間面会をして夕方に帰るという日々が始まった。
病院に到着したらまずはパックに入れて冷凍した母乳を指定の冷凍室に運ぶ。
そして、NICUに入る前に入り口でインターホンを鳴らし海督の両親だと伝える。
ロックを解除しに看護師さんが迎えに来てくれたら、次はロッカーに指輪のような装飾品・貴重品等はすべて外して荷物と一緒に入れる必要がある。最後に、腕まで洗浄してアルコール除菌でようやく中に入れる。
唯一、デジカメだけは持ち込みOKなので面会のたびに写真と動画を残した。
基本的には人工呼吸器に表示されている数値の変化や体重の増減、海督自身の変化に一喜一憂する毎日が入院後3週間ほど続きました。
入院して4週間目の9月下旬に染色体検査・遺伝子検査の結果報告及び症状の経過について以下のような説明を受けました。
気管軟化症や心疾患の主因と考えられる異常が見つかった。(幸いにも命や発達に大きな影響は無さそうだが、この時も様々な可能性を説明され、自分たちでも調べてしまった。)
鎮痛・筋弛緩の点滴は終了できた。
肺高血圧に伴う一酸化窒素吸入療法は終了できた。
今後、人工呼吸器の抜管を試みるという話があった。
同時に、もしその時に抜管が難しければ将来的に在宅酸素や在宅人工呼吸器、または気管切開といった可能性もあるという話があった。
….. キャパオーバー
もちろん、嬉しいニュースもありましたが遺伝子の件や将来的に気管切開も視野に入れなくてはいけない事実を受け止めきれず、その日は特にメンタルにズシンと重みを感じた。人間に備わっている未来を予測しようとする能力を呪いたくなりました。勝手に親として未来を先取りして、落ち込んでしまう。どうなるかなんてわからないのに自分のことのように大きな衝撃に打ちのめされる感覚でした。
「ググる」→「情報によって必要以上に未来について考えてしまう」→「メンタルが落ち込む」の繰り返し。
精神的にマズイなと感じてからは「まだ何も決まったことはない。海督には海督の変化があるから、その日その日の彼の変化だけに目を向けて信じて過ごすしかない。」と何度も言い聞かせていました。
そうやって生後1ヶ月間は不確定な未来のことになるべく気持ちを引っ張られずに、その日をどう乗り越えるかに集中するようにしました。そうしないと悲観的なストーリーに支配されて心が保てなかった。
妻にもこのスタンスは早々に伝えた。
「今日は、何を食べようか」
「今日は、人工呼吸器の数値がこれだけ下がったね!前進したね」
「今日は、一回のミルクが20ccから25ccに増えたよ!」
「今日も、しっかりオシッコが出てた!」etc
そんな風に" その日の変化だけ " を見つめるように心掛けることで、
しんどい日を乗り越えていました。
1ヶ月間でも毎日、何かしら目を向けられる成長をしてくれた*ので僕らもそれに集中できたのだと思うと海督には感謝しかありません。(例えば、体重が少しづつ増えたり、ミルク量が増えたり、点滴量が減ったり。)
色々な事が判明していった1ヶ月間でもあり、着実に良い方向へ向かっていると感じた1ヶ月でした。
*先生から説明があったその帰り道。決まって近くのパンケーキを一緒に泣きじゃくりながら食べて、1~2時間経って落ち着いたら車で帰宅というルーティンが出来上がっていたなぁ。
どんな説明も毎回自分たちのキャパでは受け止めきれずに妻と一緒に泣いていた。これは避けられないことだったと思うし、そうやって支え合っていた。
*特に嬉しかったのは「鎮静剤が少なくなって、目を開けていた時」「初めてオムツを替えさせてくれた時」「点滴の種類が減った時」「洋服を着させてもらえた時」。
入院2ヶ月目 | 抜管ならず気管切開を覚悟する
前回の説明から2週間程経過し、10月に入った頃、先生から体重4000gを目安に人工呼吸器の抜管を試みると伝えられた。(その時の体重は3700g程)10~15g位の増減が毎日あったので順調に進めば10月末には4000gに到達する見込みだった。
退院時期はもちろん、GCUに移れる時期の目処も立っていなかった状態で日々を過ごしていた僕たちにとって、これは、大きな希望になった。
ただし、同時に抜管ができなければ在宅酸素や気管切開の覚悟を決めなくてはいけないなと思っていた。
(勿論、主治医の先生から何かを強く勧められたりといったことは一度もありません。文章にすると誤解を与えかねませんが主治医の先生は本当に優しく丁寧に気遣いながら可能性の話をしてくれる方です。)
10月中は体重が順調に増加し、身体が大きくなっていくにつれて気管支も良くなって、きっと抜管ができる!というシナリオを信じて過ごした。
引き続き、毎日の変化に集中して息子の成長を見守る*ということを妻と共通認識として持って2ヶ月目は過ぎていった。
そして、10月末に内視鏡検査をして気管の状態を確認した上で抜管を試す日が訪れた。
しかし、その日中に先生から説明があり、抜管できなかったことを告げられた。希望を持って過ごしてきた分、また目の前が暗くなるようだった。
この段階ではまだDying spellの危険性が残っていることから抜管しないことが海督にとってベストだった事実に目を向けた。
今後については、成長とともに良くなる可能性があるが呼吸や泣く力が強くなるので逆に悪くなる可能性の方が高いとのことだった。
そして、「ある程度」成長しても抜管できない場合はやはり気管切開を現実的に考えるべきだという話もあった。(状況を理解しつつも心は追いつかなかった)
今後どうなるかは経過次第だが、「ある程度」の期間には決まりはなく、1ヶ月後に抜管を再チャレンジすることになった。
抜管できることを信じながらも、容赦なく近づいてくる別の可能性を無視して過ごすことはできず、この時から自分たちが医療的ケア児の親になる覚悟を少しづつ固めなければいけないと思い始め、妻と様々な記事を読み漁るようになった。
海督のQOLにとって何がベストなのか、あくまでも冷静なジャッジをしなくてはいけないと思ってはいるが本当に受け止めきれるだろうか?という不安は拭えなかった。
そんな気持ちで3ヶ月目の11月に突入した。
入院3ヶ月目 | 人工呼吸器、抜管
11月は抜管までの経過観察の期間なので、変わらぬ面会の日常。
体重とミルクの増加量は増えていき、目に見えて身体が大きくなった。
同時に「この市は医ケア児に対する施策を積極的に取り組んでいるね」といった具体的な情報にアクセスするようになった。
僕個人としては11月末の抜管に希望を持って過ごしつつも、ふと現実を直視すると2ヶ月間も我が子を抱っこしてあげられていない状況にいとも簡単に苦しくなってしまうため、他のことにも目を向けるようになった。(ダンスを始めたり、コーヒーのテイスティングをしたり、フェルミ推定にハマっていった。気持ちが向くがままにやりたいことをやってみた。)
3ヶ月目の最も大きな変化として、海督は笑うようになった。
なんて可愛いのか。全てを浄化する笑顔を浮かべてくれるようになった。
どんな辛い日でも会って笑ってくれると心に水が流れてくるようだった。
どんどん表情豊かになる彼の姿に何度も夫婦で励まされた。
この時期も僕らは願うことしかできなかった。無力である。
だけど海督に対して出来ることは精一杯しようと思って、面会の1時間で起きてる時はずっと話しかけて、眠たそうならポンポンして眠らせてあげることを自然と二人で徹底していた。
体重は増え続け、いよいよ11月末に抜管を試みる日を先生から告げられた。
午前中に試みて、午後の面会時にはもしかしたら抜管しているかもしれない。
その日、緊張しながら会いに行くと口から挿管されていた人口呼吸器のチューブが抜管されて、cpapになっている海督がいた……..。
正直、その瞬間は感情がぐちゃぐちゃで表現が難しいがとにかく安心した。
つまりは、気管支に直接挿管していたチューブが抜けて外部からの呼吸補助に移行する事ができたということです。
なぜそれが喜ばしいことなのかというと、気管に直接チューブが挿管されていると定期的に看護師さんによってチューブを通して唾液等の吸引を行わなければならず、海督自身もそれは辛いはずだから。また、挿管されていると声が出せないし、チューブがズレたりして気管を傷つける恐れがあるため、抱っこもできない。
しかしこの日、抜管できたことで3ヶ月目にして念願の抱っこが叶った。
アウアウという声も聞けた。管が入っていたから凄くしゃがれた声だったけど、そんなことは気にならないくらい、可愛かった。
あとは、君の大きな泣き声が聞きたいよ。
これくらいは求めてもいいかなぁ。
こうして、結果的に現在はcpapになり経過観察です。
10月時点では気管は悪化する可能性が高いと言われていましたが少しづつ回復へ向けて成長してくれています。
抜管したばかりなので、今後どうなるかまだ分かりませんが、今の所は再挿管にはならなそうで安心しています。
あとは、肺高血圧症が引いていけば待ちに待った退院が現実味を帯びてきますがそれは12月中の経過次第。
僕は12月からは仕事復帰して平日の夜と土日を使って面会する予定です。
赤ちゃんの生命力は、本当に凄い。
ただ一心に彼はその日を生きている。
一歩一歩、毎日成長する姿が愛おしい。
ここまでの彼の成長に、心から感謝したいし、
支え合ってくれた妻にも感謝したい。
支えになった考え方や習慣
これからもGCUへ移り、退院する日を目指して面会が続きますが、
これまでの落ち込むことが多かった3ヶ月間で気持ちを保つためにやって良かったことをまとめ的に最後に残しておこうと思います。
目の前の変化に集中する。辛い時にこれが最も支えになりました。
先生から状況や病状を説明を受ける際の僕の一貫したスタンスですが、「先生は立場上、リスクや様々な可能性を網羅的に説明しておく必要があるのだろう」と捉えるようになりました。そうすると「これはあくまでも可能性」として受け止めやすくなりました。
ジャーナリングをしてとにかく吐き出す。具体的にはLINEに自分だけのトークを作って、何か辛い時やモヤモヤしたらすぐにそのトークに言葉にして吐き出していました。少し気持ちが楽になって僕の場合切り替えやすかった。
SNSを見ない。僕の場合、どうしても何もかもがキラキラして見えてしまったので落ち着くまでなるべく見ないようにしていました。経験上、比較しても何も良いことはないと心底思って生きてますが、こういう時は抗えない力で比較している自分がいました。特にインスタは嫌でも比較が生まれるので見ないというか精神衛生上、見れませんでした。
一つのサンプルとして何か参考になっていればとても嬉しいです。
お世話になっている方には長文での報告という形になってしまいましたが、
今は何が起きても対応できるよう前向きに過ごしています!
同じように仕事復帰後もやるべきことに集中して取り組みながら、
家族と世の中に貢献する力を磨いていきたいと思っています。
まだまだやらなくてはいけないことが山積み。
この経験を経て、やりたいことも山積み。
まずは仕事、がんばるぞ〜〜!
*昔から僕を支えてくれた言葉について考えることも多かった。
それらも最後に残しておきたいと思う。
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