"失楽園”①
「この世界はきっと幸せなのだろう。これこそが人類が長らく求めてきた社会の究極の姿なのだろう。だとしたら、僕の心は何故こんなにも空っぽなのだろうか。」
22世紀、日本。人類はついに誕生以来ずっと追い求めてきた、永遠と幸福という2つの恵みを手にすることができた。人々の体内には”マンダラ”と呼ばれる人工細胞が移植され、この細胞が絶えず人体をリアルタイムでチェックし、がん細胞や細菌、ウイルスの増殖を防いでいる。また、年を経るたびに縮小するテロメアを再修復することで、不老不死を実現することが可能となった。この”マンダラ”は人々の生体情報を政府の中央コンピュータに転送し、中央コンピュータはAIによる並列コンピューティングによってそれらの情報を管理し、時として”マンダラ”では対応できない事態が発生した際、”マンダラ”を通して、個人の体内に働きかけている。
この”マンダラ”は人々に永遠だけを提供しているわけではない。彼らに幸福をも提供している。この”マンダラ”によって人々のオンライン・オフライン双方での言動や個人情報は記録され、各人の社会における信用度合いをスコア化している。このスコアの数値によって、受けられるサービスは異なっており、一”公民”として模範的だとされる行動をとればスコアは高まり、そうでない行動をとればスコアは逆に低くなる。さらに、網膜に埋め込まれた”プロビデンスの目”と呼ばれるARコンタクトレンズにより、人々は互いのスコアと個人情報を閲覧することが可能となり、太古の昔から人類が苛まれてきた、他者が信用できる相手かどうかを正確に判断することは、かなりの程度容易となった。さらに、この”マンダラ”はキャッシュレス決済機能やポイント機能を持ち合わせており、”物質としての通貨”は消滅し、今や一部の変わり者のコレクターの間でしか扱われないコレクションとなっている。
「涼宮くん、おはよう。」
「おはよう。牧村さん。」
「オッス!涼宮。今日も根暗な顔しているなあ。もっとシャキッとしたらどうだ?」
「おはよう。宮田。そうかなあ。いたって普通だけど。」
「いやいや、その表情のどこが普通なんだよ。今時お前の様に暗い顔した奴なんて、日本中探したってどこにもいやしないよ。歴史の教科書に出てくる”社畜”とかいう奴らと同じじゃないか。」
「ちょっと!宮田くん、それはひどいよ。でも、確かに今日は特に顔色が悪いよ。”マンダラ”の通告はないみたいだから問題はないと思うけど。そうだ。もし良かったら、明日の午前中、三人でジムでスポーツをした後、カフェに行かない?素敵なカフェを大学の裏通りに見つけたんだ。」
「ありがとう。でも、よしとくよ。気持ちだけ有難く受け取っておく。それと、体調の方は本当に大丈夫だから。二人とも心配させてごめんね。」
「そう.......。わかったわ。それなら良かった。」
「いいんだよ、茜音。こいつ、どうせ来ても楽しそうじゃないしな。こいつは今時”読書”を趣味としている変わり者だからな。どうせ俺達とは趣味が合わないよ。ということで、俺達はこの後講義があるから。じゃあな、涼宮。」
「すぐそういう言い方する!!本当にそういうとこ直したほうが良いよ。」
「良いんだよ、牧村さん。今度また誘ってよ。そのときはよろしく。じゃあね。」
「あ、じゃあね!涼宮くん!」
ようやく去っていったか。はー....。本当に疲れる。会話一つでここまで疲れる人間なんて、今時僕くらいだろうな。
いつも通り大学の図書館へ向かう。それにしても僕の顔はそこまで疲れ切っているのか?”社畜”なんて言葉、久しぶりに聞いたな。”仕事”というものが娯楽化した現代において、その言葉はもはや過去の遺物だ。そういえば、100年以上前のこの国の人々は、最低でも週50時間以上は働いていた。けれど、情報技術の革新や健康への関心が高まる中で、”モバイルワーク”や”在宅勤務”などの言葉が叫ばれるようになった。そして”テレイグジスタンス”や高度なAIによるロボットが普及すると、人々はより一層オフィスへ出向かなくなり、次第に”仕事”を疑似体験するようになった。そして極めつけは”ベーシックインカム”の導入だ。その結果、”仕事”は娯楽化した。ほとんどの仕事は、AIが搭載された非常に優れたロボットに代替されており、人間がする仕事などない。ただ、物好きな人々はランチタイムの2時間も含め、7時間だけ勤務をしている。しかも、仕事が娯楽化することで、人々にとってオフィスへ出向くこと自体が1つのエンターテイメントになっている。たった100年前の人間からしたら、驚異的な進化だろう。それどころか、人類史全体でみてもこんな時代はあり得ない。そんな風に、いつものように自分に関係のないことをあれこれ考えていると、”司書”さんが今日も本を片手にカウンターにいるのを見つけた。もっとも、全ての業務が自動化されているこの時代において、司書なんてのは必要なく、ただ何もせず読書をしていたり、たまに暇そうにしている利用者におススメの本を紹介するくらいだ。しかし、僕の大学図書館の司書は何もしないが、素敵な女性なのだ。細身だが、少し丸みを帯びた姿、昔のヨーロッパの画家が描いたような細く長い手。美しく整ったダークブラウンのポニーテール、色白だが健康的な肌。そして誰もがつい頬を緩ませてしまう穏やかな顔と、温かく包み込まれるようでいて、どこか哀しさを帯びた瞳。いたずらに派手なわけではなく、彼女の魅力はその癒されるような姿と雰囲気なのだろう。
「あら、涼宮くん。おはよう。新刊の本がたくさん入ってきているから、良かったら読んでみてね。」
「おはようございます、西田さん。そうですか。ぜひ読んでみます。それにしても、西田さんが今読んでいる本はオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」ですよね?」
「ええ、私はこの本を何回も読んでいてね。事あるごとに手に取って読んでいるの。涼宮くんは読んだことある?」
「はい、一度読んだことがあります。考えさせられる物語でした。ただ、正直に言うと少し退屈ではありました。当時の人間からすると、常識を覆される驚異的な本だったのでしょう。だからこそ多くの人に読まれたのだと思いますが、今となっては何も真新しくはない。今の読者からすると、現代の人間が書いたエッセイの様なものです。ただハクスリーの、今から200年近く先の未来を描くことができた想像力と先見性には驚きましたが。」
「”僕は不幸になる権利を要求しているんです。” 」
「えっ....」
「作中の登場人物であるジョンの言葉よ。この22世紀の日本の人々も、26世紀のロンドンの人々も、共に不幸になる権利を奪われたのかもしれないわね。果たしてそんな世界は、私達にとって本当に健全な世界なのかしら?」
「え......!」僕はとたんに身構えた!
しかし、何も起こらなかった。どうしてだ?この社会において、反社会的な発言や行動をとってしまった際、”マンダラ”を通して警告がなされる。警告がなされてから、1分以内に自分の過ちを認め、謝罪し、すぐに言動を改めれば信用スコアは低下せず、ペナルティーは課されなくなる。また、そのような事態が発生した際、警告を受けた人間から周囲の人間を守るため、その人間の半径20m以内に存在する全ての人間には通知が届き、”プロビデンスの目”でその者を確認することができるようになっている....。しかし、今僕が目にしている西田さんには何の警告表示もない。
「ふふふ、どうしたの?涼宮くん。安心して。”アラーム”はならないから。」
次章のnoteは以下の通りです。