煩悩寺爆誕のお知らせ

この度、煩悩と向き合いながら仏教を伝えたい人と活かしたい人たちのバーチャル駆け込み寺、煩悩寺が爆誕しました。

そこで今回は、なぜ煩悩寺が爆誕したのか、ぼくが煩悩寺に込めた想いを、ご挨拶も兼ねてお話しします。


僧侶としてのスタンス

僧侶として活動していると、どうしてもいつのまにか「教える」という立場になっていることがあります。

実はこの道を歩み始めた頃に師匠から釘を刺されたことがあります。

それは、永平寺で二度目の法話発表会に向けて法話を作っていた時のこと。

恥ずかしげもなくいうと、ぼくは前年にこの発表会で優勝していて、二度目の挑戦でした。

この法話発表会は各部署から一人出ることになっていて、みんなが出たがるものではなく、あんなに前のめりだったのはぼくくらいでした。
実は僧侶にも人前で話すことに苦手意識がある方は多いんです。

話を戻すと、基本的に誰も出たがらないこの会ですから、二度目の挑戦をする人なんてまずいません。

その中でおそらく前例のない連覇をしてやろう、という邪な気持ちがあったからでしょうか、全然納得いく法話を思いつきません。

そこで師匠に相談してみると、
「勉強したら話せることが増えてテーマが決まらないことはある。ただその中で重要なのは、お前の歳で人に教えてやろうなんて気持ちにだけはならないことだ。若いうちは自分がどんなことに悩んでいて、仏教によってどんなことに気付かされたか、それだけで聞き手は学んでくれる。だから教えようなんて気にだけはなるな。」
と、全てを見透かしたようなことを言われてしまいました。

布教教化というのは、教えや知識を人に授けるようなものではなく、
「自分の悩みや苦しみという病」に
「お釈迦さまの教えという薬」がいかに効いたかという患者の証言でいいのだと、それ以来肝に銘じるようになりました。

それから時を経て、禅活として活動をし、それがある程度の規模になって、あとは仲間の亮道さんに任せても良い状態になった今、改めて視界に入ったのは、自分と同世代の僧侶たちでした。

どうやって教えを伝えていけばいいか、お寺をどう護っていくか、仏教の様々な教えをどう解釈したらいいのかーー。
そんな悩みを抱える僧侶の仲間がたくさんいます。

もっといえば、自分は仏教とは程遠い人間だと、悩むことを諦めて職業と割り切ってしまう人もいます。

実はぼくは、自分が普段発信していることに自信があるわけではありません。

経験や勉強を経て、来年は違う解釈や違う言い方をしているかもしれません。

そうやって試行錯誤したり悩んだりの繰り返しです。

そこでこれからはその悩みや試行錯誤をそのまま発信しようと思います。

煩悩と付き合う

そこで重要なキーワードとなるのが「煩悩」なのです。

よく、煩悩のことを有るか無いかで語られるところを見ます。

ぼくは、煩悩というのは有ったり無かったりするものではなく、表面に出ているか隠れているかだと捉えています。

口唇ヘルペスは、一度感染すると消滅することはなく、何かにつけて表面にブツブツとなって現れます。

煩悩も同様に、生きている限り常に表面に現れる機会を窺っていて、ちょっとしたきっかけで心身に現れるんです。

僧侶だから、修行したから煩悩がないとかでは決してなく、仏教を学ぶことは煩悩との向き合い方を学ぶことなのだと、ぼくは思っています。

その煩悩と向き合い、振り回されたり迷ったりしながら試行錯誤する姿から、何かを受け取ってくれる方もいるのではないか、というところに思い至りました。

今回、立ち上げのメンバーはぼくと後輩僧侶のゆうせいさんとしゅうけんさん、禅活でイベントレポートをしてくれていた一般社会人のなおえさんの4名です。

メンバーとかグループという形で囲いを立ててしまうつもりはなくて、悩みや疑問を抱えている人の心の駆け込み寺になれればいいなと思います。

この寺報はまだ外側のみで企画が決まっていないので、また随時更新していくので購読していただけると嬉しいです。

ということで煩悩寺とこの煩悩寺報を何卒よろしくお願いいたします。

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