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イ・チャンドンと土曜日の午前中

ここ最近、イ・チャンドンの映画に浸っている。浸っていると言っても、まだ3本しか観ていないのだが、それぞれの作品のインパクトが強烈で短期間に詰め込んだだけあって、既に思い入れが強い。『バーニング』、『ペパーミントキャンディー』、『オアシス』の順で一週間に一本のペースで鑑賞した。時間が経った今でも、映像の美しさ、リアリズムを追求した演技、映像と調和するミニマルな音楽が鮮明に頭と心の中に残っている。また、『バーニング』の都会的な閉塞感と田舎のセンチメンタリズム、『ペパーミントキャンディー』の人生をかけても立ち向かうことができない不条理への怒り、『オアシス』の現実と妄想の狭間で揺れる恋愛は個人的に興味があるテーマである為、印象が強い。
その中でも、『ペパーミントキャンディー』は特に強烈で、心の中の感情のダイヤルを最大限に引き上げられたかのように見終わった後は涙が止まらなかった。現代社会を生き抜くことへのハードルの高さとそのハードルを作り上げる要因や試練が痛々しいほどリアルに描かれている。金持ちになり健康な家族がいるから順風満帆であるとは限らないし、金も家族もなくなった人生は解放感に満ち溢れているわけでもない。その八方ふさがりの様な状況で自分だけが頼りになるのだが、その唯一の理解者であるはずの自分と向き合えば向き合うほどやるせなくなってしまう。これは、自分の存在意義を執拗に探究する事によって生まれる症状の一種に思う。自分が存在する理由を追求し始めたところで答えに到達することのない問いが生まれるだけなのだが、その絶対的な答えを見つける道のりに執着してしまうと、その過程がいつの間にか人生の目的になってしまう。この「生きる理由」への寄り添い方で、人生観や個性が育まれる。
人生自体に意味などなく、存在すること自体に意義があると言う実存主義的な考えを持つか、絶対的な答えがあると信じてその追求を続けるか(多くの場合、属する宗教や企業にその道筋を作ってもらいながら)で人生観は全く異なる。『ペパーミントキャンディー』の主人公の生き方を観察すると、この大きく分けて二つの人生観を一人の男性の人生を通して見ることができる。また、彼の人生を通して、どちらかの人生観を選ぶという選択は、常に個人が積極的に選べられるわけではないことを再認識させられる。それは、政府や組織の方針(映画における徴兵制度)、それをも振り回すマクロ的な要因(1997年のアジア通貨危機)、またもや人間的理性と野性的本能の葛藤(暴力や不貞)など自分ではどうすることも出来ない外部や内部要因が翻弄する事も多々ある。自分で選んでいる様で、実は選ばされているというのは、よくある話だ。
不思議なのは、不条理に満ち満ちた人生を目の当たりにしても、それを自分に置き換えて考え直しても、人生は美しいと一片の迷いもなく思えることだ。不条理を頭の中でどう整理するかは、人それぞれだが、その事実が消え去ることはない。だったら、それを人生の一環、もしくは大部分として受け入れて、前に進むしかない。そうすれば、自分とはどの様な人物で、その自分が生きる世界はどんなものかをより一層理解できると考えている。この様に大口を叩いても、現に不条理によって心が折れそうになることはあるが、その度、これが生きると言うことかと現実を直視し、次に直面するであろう不条理な状況に備えることができれば、その経験も決して無駄ではないとポジティブに受け入れられる。土曜日の朝、イ・チャンドンの映画のシーンが頭をぼーっとさせる二日酔いの様にふわふわと残像を残している。

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