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連休明けノスタルジア

先週末、友人と国立新美術館の佐藤可士和展を観に行くために久しぶりに六本木に行ってきた。六本木近辺は、以前住んでいたマンションから行きやすかったし、コロナ禍の前はたまに友人たちと遊びに行っていた場所なので懐かしく感じた。もしかしたら、懐かしく、と言う表現は的確かではないかもしれない。引っ越したのは、昨年の暮れだし、感染症が東京を覆ったのも一年程前の話だ。それでも六本木に遊びに来ていた頃がかなり前のような気がした。風景が少し違って見えたというのもあるが(コロナ禍で少し人が減っただけかもしれない)、視覚的なトリガーがあると言うよりも、直接心の中に色んな思いが湧き出ると言う感じだった。私が待ち合わせ時間より数分程遅れて美術館に着くころには、企画展の入り口には既にしっかりとした人の列が出来上がっていた。それを見た瞬間私と友人の顔に諦めの表情が浮かんだ。また、次の機会にしよう、とそのまま麻布十番の方に歩き、以前から友人が気になっていたレストランでブランチをした。

美術館からレストランまで歩く道のりも同じく懐かしく感じた。ただ、こちらも特別久しぶりに通る路地ではない。何故そのような感覚を覚えるのだろうと、友人とブランチを済ませ、帰路の寄り道ついで自宅近くにあるカフェでビールを飲みながら考えていた。何も、六本木そのものが懐かしいわけではない。未だに都内に住んでいるし、地下鉄に乗れば一本で行ける。どちらかと言うと、あの頃の自分の心境や境遇が懐かしかった。東京に住み始めた頃、日本の都会の生活全てが新鮮だったし、私生活、仕事に対して落胆することもあった。嬉しい出来事もあったし、それと同じくらいモヤモヤした気持ちにもなった。ビールを飲みながら、当時考えていたこと、感じていたことを辿っていると、その日の朝の六本木での感覚を少し思い出してきた。それは色んな思い出が凝縮した陰陽柄のこまがゆっくりくるくる回転しながら、自分の心の中にふと現れたような感覚だった。勿論、今でも普通の生活の中で新鮮に感じることもあるし落胆することもある。ただ、今のそれとあの頃のそれは性質が違う。自分より五つくらい若い友人の悩みを聞いているようなものだ。相談相手にアドバイスをしているつもりが、いつの間にかその言葉は自分に言い聞かせている。相談相手の悩みと自分の悩みの性質の違いに気付かないと、「俺が偉そうに言えた義理じゃないな」と途中で投げ出してしまう。私はその日運よく、またはビールのおかげでその性質の違いに気付くことが出来た。だから六本木が純粋に懐かしく、そして少し淡く感じたのだろう。

それまで「懐かしい」と感じていたのは、主に時間の経過が要因として強く働いていたため、今回みたいに比較的短期間の間で感じた自分に少し驚いた。その日「懐かしさ」を感じたのは、時間的な要因よりも、それまで同じだと考えていたあの頃の自分の心境や境遇が今のものとは性質の違うことに気付いたからであった。つまり、新生活に対しての不安と期待から派生する当時の初々しい心境と、今のその心境の層の上に積み重なった不安と期待の違いと言うことである。どこかその事実を受け入れると、自分が丸くなったと思うのが嫌で受け入れてこなかったのかもしれない。しかし、その日は、丸くなる、丸くならないなんてエゴを取り除いて、その「懐かしさ」を自然に受け入れることができた。そもそも、丸くなったと言うのは外部からの無責任な評価であって、自分に対して使う物差しであってはいけない。自分は少し客観的にあの頃の自分を見れるようになった。ただそれだけのことだし、もしかしたら少しだけ成長できたのかもしれない。それに気付けたとしても、これからも引き続きがむしゃらに生きるしかない。それは変わらない。その様な考えに落ち着くころには、二杯目のグラスは空になっていた。

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