廃駅の温泉で|#524D
そもそも九州旅の話題を書く気は全然なかったのだが、はからずもシリーズ化している。
このnoteには今思い浮かぶことを書くこと、「ナマ」を大切にしているため、必然的に1日の一部が話題にあがるからいたしかたないか。
というのと、朝から晩まで完全燃焼が続いていて、noteを書く夜には話題を考える力が残っておらず、何が今、印象的かな?という問いを持つと、もうそれは旅のひとネタになってしまう、という次第。
ということで今日も旅日記。
廃駅の温泉でChill
今日は宮崎から熊本の目的地に向かう途中に気になる標識を見かけて、予定を変えて立ち寄った。
それは「温泉駅」というもので、見かけたときは「温泉旅館の前に駅があるのかな?」など思ったが、駅自体に足湯ではなくちゃんとした源泉の温泉が併設されているというおもしろいものだった。
駅の方はもう廃駅となっていて、温泉だけは営業を続けているという形で、谷の合間にひっそりとある集落感もよく、さらにここが路線の終着点であるという点もエモみが増した。
終点にはもう動かない電車の車両が残っており、それを宿として提供もされているおもしろさ。訪れたのが夕方であったため、日が落ちてライトが灯るタイミングであり、地元のおばあちゃんたちが次々に訪れるタイミングだったのもよかった。
これが旅の醍醐味よな。と思いながら1時間ほどの寄り道。温泉の設備や泉質は非常に一般的な温泉だったが、それでも最高に気持ちがよかった。機能性よりも文脈に「よさ」は乗る。シンプルなサウナもあって久しぶり「ととのう」機会にもなり、廃駅の温泉でよきチルタイムをすごすことができた。
「旅行」と「旅」
私の単語のイメージでは、「旅行」というのは基本的には時刻表に沿うもの、「旅」というのは基本的には自由に動けるもの、という違いがある。旅行もいいが、やっぱり旅が最高だ。
そうして道中こういった予想もしないものに出会い、そこでたっぷり時間を取るこ時にはすこぶる「豊かさ」を感じる。
何をするにも、むしろ味わいというのは、あらかじめ狙ったものを達成するための本流に取り組んでいる時より、予想だにしない傍流にある。いや、傍流こそが流れ全体に味わいをもたらしてくれるのか。
明日もどんな日になるかわからない1日を楽しんでいく。
p.s.
TCCの話題を少し。こういう日、プランのフリーさと、洗練されたルーチンのセットが混合してTCC上にあるような日は、TCCが特にジューシーに感じる。私はこういう日でもタスクプールとしてのルーチンタスクを消さない。
やってもやらなくてもいいけれど、やれる時には最速で最高の質の行動セットが残っていること。これにより、ちょっとした時間で実行してしまえるのが気持ちがいい。
普通、習慣というのは何か他の行動習慣に紐付き、連携して実行開始される。これは無意識的にもそうだ。なので旅をしているような非日常では、なかなか普段のルーチンができなくなる。特に、リストなしに2桁手順のルーチンを行うことは難しい。それがTCCがあれば容易になる。
逆にそれらをやる時間や気持ちがなければやる必要なく、ただ楽しんだログを残していくだけだ。
この「自由に過ごしているのに、やることをやろうと思えば質高くやれる」という感じが、TCCを使っていて楽しさを感じられるシーンの1つだ。