軽やかに億り人|#691C

毎日投稿691日目。今日は知人が「資産1億いったよー」という話を受けて思ったことなど。いや稼いでるのは知っていたけれども!という驚きからのスタート。


「お金」にまつわる黒歴史

「億り人」。これはXでちらほら見かける言葉だ。金融資産が1億円以上になった人のことを言うのかなと勝手に思っているが、違ったら教えてほしい。

それで先日、知人がその「億り人」になったよという話を聞いた。今日はそこから感じた自分との違いや、できることなどを書きたい。

まず私は、そんな知人と違って資産なんてさっぱりない。そもそもお金に執着しない生き方をしてきたから、と言い訳をしたくなるが、それは言い訳にならないことをわかっている。その生き方はむしろ、強い執着的なもののあらわれであったのだ。

ここから、過去のnoteにも書いた私の半生を書くので、すでにご存知の方は次の段にスキップしてほしい。

私は小学生の頃に商売を始めて、10代の後半には毎月50万円くらい稼げるようになっていた。普通に生活するには充分なお金で、これでもう生きていけるじゃん、と思ったものだ。

そのためなぜ、人がお金稼ぎに熱中するのか、学歴やベンキョウを重視するのかなどがわからず、それを聞いても論理的に教えてくれる大人もおらず、先生は私より給料が低かったこともあってゴリ押しの「将来困るから勉強しなさい」に納得もできなかった。

かなり常識に外れた考え方や発想を持った子どもだった私は、自分の考えと社会の考えに折り合いをつけることができずに生きていって20代で鬱になった。当然そこで稼ぎはゼロ、人間関係もほぼなくなり。ひたすら布団とトイレの往復の期間も長かった。

そこからなんとか回復し、そして「今度はどう生きていくか?」を自分なりに考えて、「お金」というものから距離を取ろうと思った。

お金を稼ぐよりもその「稼ぎ方」こそ重要だというこだわりが手放せず、そこに色んな葛藤や悩みが生まれていき、結論として「お金を媒介せずに人と直接つながる方が絶対にいい」と考えるようになった。

我々は生産者(サービス提供者)の顔がわかる範囲で生き、お互いの顔を見て物々交換で生活する方が幸せであり、それならば世の中を歪ませることもないのではないか。※その当時の考えね

ならばもう、お金というものは飛び越えてしまう方が良いだろうと判断したのだ。貯金なんてもんがあるから世の中がおかしくなるんだ、なんてことを真面目に言っていた時もあった。

そうして、好きな人やお店のマーケティングなどをサポートする代わりに、お金でなく食事を通年タダにしてもらったり、どこかへ移動する代金を出してもらう代わりに仕事をしたり、会社の持っている不動産などの資源を使わせてもらう、などの約束をしながら、全国にそんなつながりを作っていって、好きな場所で好きな人と生きていこうと企んだ。生きる上での最低限の分だけは稼ぎ、貯金ゼロの生活を続けた。

しかしその状態を維持していくことは想像の100倍難しく、また冒頭に書いたようにその選択はお金に対する逃げでもあったため、活動は次第にうまくいかなくなった。

で、また失敗して死にそうになり、から再び復活しつつあるのが私の「なう」だ。

今では、お金の便利さ、大切さも身にしみているし、考え方も大人になった。"お金を稼がない"ことで自由になろうとした「弱さ」に向き合ってイチから出直そうとしている。

私にはこういったヒストリーがあり、そんなわけで今だに資産なんてないし、金銭的に厳しい状況が続いている中で、かたや年齢がいくつも違わない知人が1億持っているという真逆の状況に、大きなインパクトを感じたのだった。


正反対のような人だ

たくさんの失敗を経て、まがりなりにも今の私は「お金を稼ごう」という気持ちを持っている。そして気合い充分に日々がんばっている。しかし億なんて状況にはほど遠い。

そんな自分とは金銭的に対極にいるその知人は、その"生きる姿勢"すらも私の対極にあった。これが今日、書きたかった話のメインになる。(自分語りが長くなっちゃった)

その人は、まあーーー軽い。色々すっげえ軽い。なんという"てきとう"感。パッと思いつきで動く。考えや発言はかなり浅く聞こえるようなものが多い。行動に「志」とか「熱量」とか全然なさそうで、なんとなく今の自分によさそうなこと、利益がありそうなところに、ひょいひょいと移っていく。

いっつも「よりよく」だの「一所懸命生きる」だの「本質が大事」だのと叫んでいる私とは正反対だ。

てきとー、ゆるゆる、だいたいなんでもいい。脱力がきいていて、かろやか。それで全部ふわっとうまくいって、彼が仕事で関わっている人にも素敵な価値を提供して皆を助けているようだ。

そうしてどんどん本職でのポジションは上がり、手を出す副業はどれも売上爆裂、当選確率の低いレアバイトにも受かってみたりして。で、本業の収入は100%投資にまわしながら副収入でゆうゆう暮らし、堅実に資産が増えてついに大台に乗った、という次第だ。

知人いわく「ぼく努力なんて全然してないんよー」とのこと。

なんだこの勝ち組。勝ち組という言葉もまた苦手なワードであるが、こういう人間をして勝ち組というのであろうという絵に描いた感がある。これが優先遺伝子なのか。

いやいやこの軽やかさなのだ。私がほしいもの。ずっと手に入らないもの。これは先日noteに書いた、自分に欠如しているっぽい「センス」の生事例、的な話でもあるように思える。

どうしたらいいのか、、、なんて頭で考えている限りは手に入らないものなんだろうと思うが、なんとかならないもんか。


「軽やかさ」は身につけられるのか

「時代はどんどん軽やかさを必要としている」「これは我々個人にとって必須の要素だ」といったことを、私自身がこの数年かなり意識しているし、人にも話している。

性分として重苦しい私が、戒めとしても何度も口にしている「軽やかさ」。

このnoteでも何度も書いてきて、これについては自分の「変化度合い」や「そのための手数の多さ」をもって、私は軽やかになっていると思っていた。

しかし。先日話を聞いてから、「本当の軽やかさってのはこういうもんよ」といわんばかりの事例を見て、あららーと。こりゃ根本的に違うな、という気持ちになった。

このnoteでいつも書いているようなヘヴィなこと、シリアスなことを書いている限り、私に軽やかさは宿りそうにないなと感じたのだった。いっぺん死んで生まれ変わらないとダメそうなほどの違いだ。

私はかろやかになれと言っても、今進行中のものや挑戦中の物事をやめるとか、方向を変えるということも考えられない。

それでも、この話は物事に取り組む姿勢を調整するきっかけであり、新しい変化のための素材にもなる出来事だと思う。

この人を見ていると、本当になにも困ってない。人生に苦悩がない。何かをする時に壁なんてない。

私のようにやれ過去の傷がどうだの、トラウマだなんだ、能力が足りないだなんて思考はゼロオブゼロ。

できないことやピンとこないことはやらない。なんとなくいいと思ったことや自分にできることだけスルスルやる。「がんばって」何かをやろうなんて思っていないがしかし、がんばることはなくても「必要なことをやれるようになるための行動」はちゃんと着実に積み重ねている。

うーーん。この姿勢なんだよなー。私まじで、億よりほしいのその軽さ。


重い人間にも「工夫」はできる

全然そんな軽さには到達できそうにないが、そりゃーもう人種が違うんだから、ひとっとびにそんなふわふわしたものになれるわけはない。

それでもちょっとでも軽くなりたい、そのために何ができるか?

その答えを考えてみるに、それは「工夫」だ。工夫とその数にフォーカスすること。

「がんばるのをやめて適当に」「力を抜いて取り組もう」「うまくいかないことは捨てて別のことをやろう」なんてことが、すぐにできたらいいのだけど無理そうだ。

そんなヤツでも「がんばって工夫する」「真面目に工夫する」「固執しているものに対して工夫を続ける」といったことはできそうだし、それくらいはできるくらいの「軽やかさ」は磨いてきた。

軽さと重さの間をつなぐ中間に、工夫があるイメージ。

「軽く適当に行動するーーー工夫するーーー重く全力で行動する」

軽くやろう、力を抜こう、気にせず動こう、ということができないなら、だからがんばろう、ではなく工夫しよう、試してみよう、というこの意識を持つ。

そうすることで、だんだん軽く軽くなっていけるのではないだろうか。がんばるのでなく工夫する。そうすれば自然に楽しんでいるような状態にもなる。

今日はなんの工夫ができたか?を記録する。その数を数える。そんな行動はやっぱり「重い」と思うが、重い人間にとっての最良はそんな指標とその記録の積み上げである。


p.s.

今日の話のいいところは、テキストでは伝わりづらいと思う。

ポイントである「億稼ぐような軽さ」のニュアンスは、実際にその人の言葉、声色、抑揚、姿勢、といったものを感じなければ掴めないだろうから。

それでも書き残したかったのは自分のためで、軽さに向かってまた新しい一歩を刻みたかった。シリアスさは手放せなくてもヘヴィさは捨てていける方向に向かうための一歩にしたかった。

そんな記事を読んでくださってありがとう。これからも私なりの軽さを工夫して身につけていく、その過程も記事にしていきます。

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