子ども心を復活させる|#586C

ひさしぶりにスペシャルな豆を購入した。部屋が香りで満たされて気分がいい。飲んで美味しく、置いておくだけでも幸福度を高めてくれる珈琲のすばらしさを感じている。

今日のお昼、ぼんやりしていてふと思ったのだけど、パフォーマンスが出ない時というのは自分が「退屈している」可能性が高い。

何かを我慢していたり、楽しませてくれるの待ちの姿勢になっていたり、とにかく"今"という時間にあって心が動いていない時、実は退屈を感じていて、そのため取り組んでいる事柄に対するパフォーマンスが出ないのだ。

だからアレコレ考えずにタスクに「即着手」して進めていけば、作業興奮が起こって一定のパフォーマンスが出るのだけど、それも難しいタイプの物事に関しては別の工夫が必要だなと。着手したって退屈な作業というのは、ようは受け取るものや味わうものがない作業だということだ。タスクをただ消費しているだけなのだ。

必要なのはワクワクであり、本来、自分の自由時間であるならいつでもワクワクしていられるはずだ。私のような生活の人間であればなおのこと、もっとパフォーマンスは青天井であっていいというか、そうあって然るべきというか、そうでありたい。

まあそれは極端な例だ。常識的に考えれば常時ワクワクしているなんてないよね。パフォーマンスが出ない時も、出る時もあるのが自然だよね。

と、以前の私なら考えて思考を手放しただろうが、最近はブチ切れているので「常時ハイパフォーマンス」への道を模索したいと思う。なのでもうひと押し考えてみよう。

やっぱり私の場合は、長年の「正解幻想」と「人の気持ちや評価を気にかける」癖が、あらゆることへの遊び心や挑戦心を衰退させている。「失敗できない」と思い込んでいるから試すことも味わうこともできず、だから退屈なのだ。そういう点に対する感性が死んでいる。ここを復活させる。

またイチから育んでいくには、くだらんことをやって試す、それも全力で試すという、謎の労力のかけかたがきっと有効だ。

効率も正解もAI様にまかせることで、人間は非効率な失敗を享受して生きる余裕を得る。大事なのは年を食って小利口になった大人の脳が「考える」前の、「衝動」の状態にいられることだと思う。

そこで泥まみれになって遊ぶような時間の過ごし方をしよう。それは日常の習慣的な振る舞いや行動をまるっきり変えるということだ。

もっと変なことをしよう。こうしたいなと思うことを、不完全なままやり散らかそう。

完成とか正解とか、誰かにとってどんな価値があるだとか、もう古いんだってたぶん。俺はこれがやりたい。だってやりたいんだもん。その声に耳を澄ませて、その声に正直に。どこまでも忠実に。

怒られたらごめん。といってまたやっていく。そういうことが今の人間には必要なんじゃないかね。と、最後は全体に拡張して道連れにするスタイルで締める。

とにかくもっと変なことをやっていきたいね。退屈は時間の、命の浪費だと決めてしまおう。人は時に偏りも必要であるから。

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