(1)銀座百点


 深夜に部屋でTVを画面を見ずにつけっぱなしで、PCに向かっています。妻(母)を亡くした父娘が銀座を歩いて、今は見かけなくなった「銀座百点」を捜し歩きながら、亡き妻(母)との思い出を偲ぶドラマが流れています。TXってなかなか渋いですね。

 「銀座百点」。ご存知の方いらっしゃいますか。ブティックや画廊のレジ横や片隅にそっと置いてある横長の冊子。A5版くらいの大きさだったでしょうか。

1982年ごろのことです。というと、なんと40年前にもなるんですね。私はこの冊子にコラムを書く記者をやっていたことがあります。自分が書いた原稿がもはや手元にないもので、それがコラムと呼べる代物だったのかどうか、怪しいものです。まして況やフリーライターなんて自称はできません。振り返ると、原稿と写真を納品しては多少の金をいただけていた、というだけの幸運な者だったのです。
 今となってはそれが銀座のどこに在ったのか、全く記憶が無いのですが、どこかのビル。決して新しくはないビル。1階のその階段の下に壁を作っていただけの編集室がありました。部屋とも言えないその部屋は、当然窓はなく天井は斜め。天井と言っても階段の下側ですから三角です。そこそこの広さがあったのでしょうが、常駐している人は編集長一人。「俺は船長だ」と仰っていました。確かに船室のようなその部屋で、絶対権限を持っているのですから、たしかに『船長』だったのでしょう。
 当時私は大学生でした。説明を少し短縮すると、実家が裕福でなかったお陰で国に授業料を免除してもらい、その上月の家賃100円で学寮に住むことで始まった大学生活。アルバイトも大してせずに好きなことを続けた結果、体を壊して大量に吐血したあと100日ほど入院。闘病生活は父母の負担も然ることながら学友の皆さんの浄財、つまりカンパで賄わせてもらい退院しました。食べていくために学生課の貼紙を探して「ライター」の仕事を得たわけです。
 そのひとつが「銀座百点」の記者。もう一つが小中学生のお受験の塾講師でした。塾にも大変にお世話になり、収入どころか今に至るお付き合いをさせていただく友を得たのでした。


船長、すなわち編集長からの指示と取材についてのエピソードはまた明日以降書きましょう。

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