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排泄小説 14
最も近いトイレは最寄りのコンビニにあった。帰りがけに立ち寄ろうかと思った店だ。家から急いで三分の、長くてきつい上り坂をあがったところだ。頼むからもってくれ。おれは心からそう願った。こんなに純粋な願いなど、世界中のどこを探しても見つからないだろう。たった三分でいいんだ。
コンビニのトイレが使用中だったら、もう打つ手はなかった。あとはその先にさらにしばらく行ったところにあるドラッグストアまで何もないのだ。走れメロス、くそのために。この間に南真南が逃げたって構わなかった。あのバカ女には恩赦を与えてやろう。戻ってきたときにまだトイレに閉じこもっていたら、そのときはそのときだ。それがあの女の運命だと思おう。
三分。歌うしかなかった。おれは競歩の選手みたいな歩き方で、ケツの穴になるべく震動が伝わらないようにして急ぎ足で水平移動しながら歌った。
この長い長い上り坂を、くそをケツの穴に目一杯詰め込んで、肛門きゅきゅっと引き締めて、急いで急いでのぼってく。
アンコール、アンコール。もっと声出だして!
この長い長い上り坂を、くそをケツの穴に目一杯詰め込んで、肛門きゅきゅっと引き締めて、急いで急いでのぼってく。
アンコール、アンコール。焦るな!
この長い長い上り坂を、くそをケツの穴に目一杯詰め込んで、肛門きゅきゅっと引き締めて、急いで急いでのぼってく。
見えてきたぞ! アンコール、アンコール。
この長い長い上り坂を、くそをケツの穴に目一杯詰め込んで、肛門きゅきゅっと引き締めて、急いで急いでのぼってく。
おれは手を目いっぱい前に伸ばして自動ドアを開けた。脇の下にジュースを一杯絞れそうなほどの脂汗をかいていた。体が熱く、同時に寒かった。雑誌コーナーをすり抜けるようにしてトイレを目指した。複合機の奥の暗い小道。万歳! トイレは空いていた。
おれはトイレに入ると、体をひねりながらズボンとパンツを同時に下げた。むき出しの尻を便座に着地させるやいなや――。
ばしゅるじゅじゅ!
ぼっ! ずどぼぼぼっ!
あぁ……、何もかもが、何もかもが……。
ぼっ! ぼっ!
じゅしゃ!
間一髪で間に合った。またしても歴史を作ってしまうことになるのかと思ったが、間に合ったのだ。
どうだこの野郎! 見たか! 見たのか! これがおれ、峰打イチロー様だ! ざまあみやがれ! 紙もちゃんとついてるぜ!
一人――。
腐れ便所で一人――。
死にたい。どうしてこんなことで一喜一憂しなきゃいけないんだ。うんこのことなんかで。どうしていつもこんな目に遭わなきゃならないんだ。おれは死ぬまでうんこから解放されないのか。
悩みに耽っている暇はなかった。感傷に浸っている暇はなかった。すぐに第二波がやってきた。腹が、まるで死にかけの犬みたいにきゅうきゅう鳴いた。体勢を取り直している余裕もなかった。
ずびずびずびーっ! ずびーーっ!
あのハム……。
ぐびっ。
あっ、いくっ。
じょ! じょびっ! じょびじょば!
はー、はー、はー。
くそ、くそ。
きゅうううう。
第三波がきた。
もっ。
あっ、出ちゃう。
ずもっ、ずももももももー、ぶっ!
あのハムが……。
ぶぶっ!
はー、はー、はー。
おれは壁に手をついて自分を支えた。呼吸が落ち着くのを待った。ばっ。ぶぷっ。トイレでの惨劇だった。股の間から覗くと、下にどす黒い湖ができていた。ばじゅっ。こうしている間にも、ケツの穴からは間断なく下痢が吹き出していた。べぺっ。まるでヤンキーが道端に唾を吐くような調子だった。誰かがケツの穴から腸を引っこ抜こうとしているような感じだった。何メートルもある腸を。おれは下唇を噛んで耐えた。
第四波。
第五波。
これが本物の下痢というものだ。おれは便座の上から一歩も動けないまま、自分自身に言った。これが本物の、これが本物の――。これが、これが――。
どうしようもなかった。生命エネルギーがすべて下から抜け出ていってしまったおれは、便座の上で枯れ果てた。だが、くその波状攻撃に虫の息になりながら、心のどこかでは満足していたのだ。精力を吸い尽くされてなぜそんな風に思うのか我ながらおかしかったが、くそのことで苦しめば苦しむほどおれがおれになっていくような気がしたのだ。どうしようもなく気の狂った、暗黒のうんこ帝王に。
おれはコンビニのトイレに長時間こもったあと、ようやくそこを出た。あまりに長い間閉じこもっていたので、出たときには違う時代に迷いこんでしまったような気分だった。おれは商品棚に掴まりながら生ける屍のように通路を歩き、なんとか表に出た。強い日射しに目がくらみ、崩れ落ちそうになった。よろけたおれは、駐車場に停まっていたハイエースに体ごともたれかかった。ふと顔をあげると、その車の運転席と助手席にいた作業員風の男たちがコンビニ飯を食いながらどんよりした目でおれを見ていた。
お前たちはくそというものをしたことがあるのか。
おれはそいつらに訊きたかった。それがおれのただ一つの関心事だった。お前たちは本物のくそをしたことがあるのか。お前は? お前は?
「うそつけ」
おれは吐き捨てるように独りごちた。中の男たちには聞こえなかっただろう。本物のくそなんて一度もしたことがないやつらには。
おれは部屋に向かって歩き出した。ハイエースから手を離して数歩行ったところで、足がもつれて転んだ。アスファルトで肘を強く打った。地面に這いつくばる気分は、ひどく惨めなものだった。うつ伏せで地面を間近に見ると、おれはそれを舐めたくなった。だから舐めた。惨めさを味わい尽くしたかった。舌に砂粒がつき、起き上がりながらぺっと唾を吐いた。バカげていた。何一つ面白くなかった。これが六百万を持つ男のすることか。金など何の役にも立たなかった。
帰りは下り坂だった。漫画みたいに転がり落ちることができれば楽だったが、そんなことはできなかった。おれは人の家の壁やフェンスを伝い歩くようにしてよろよろ進んだ。ふと、誰かに尾けられているような気がした。後ろを振り返ると、黒い影がさっと物陰に隠れた。その場所からすぐに誰かが出てきたと思ったら、見ず知らずのババアだった。他に怪しいやつは見当たらなかった。
またあいつが来たのかもしれない。滑石のジジイが。生きているはずのないやつが。おれは足を早めた。へろへろのおれにできる、最高の速度で部屋に急いだ。その間ずっと背中にいやな気配を感じ続けていた。
部屋に戻ると、おれは玄関に鍵をかけた。少し気を落ち着けて向き直ると、部屋の真ん中に南真南がいた。バカ女は鼻と口からだらだら血を垂らし、全裸で呆気に取られたみたいに突っ立っていた。今まさにトイレから出てきたところなのだ。あと一分か二分決断が早ければ逃げられたのに、つくづく運のない女だった。
「やろうとしてることを今すぐ――」
誰かの声が聞こえた気がした。おれは靴のまま部屋に上がり込み、バカ女が再びトイレに逃げ込もうとするところを捕まえた。どこからともなく力が沸いてきた。女が耳障りな甲高い声でぎゃあつく叫んだ。おれが一思いに首をひねってやると、その声はやみ、辺りは途端に静かになった。静かに。
……おや?
何かが聞こえたような気がした。誰かが動いたような気がした。誰かが何か言ったような気がした。南真南ではなかった。おれのケツの穴ではなかった。では誰が?
「みーねーうーちーくーん」
おれは部屋の真ん中で南真南の頭をラグビーボールみたいに抱えたまま、じっと耳を傾けた。
「みーねーうーちーくーん」
聞き覚えのある声だった。二回聞いて、それが誰かはっきり分かった。洟垂れデブのパワハラ契約社員、模糊山だった。
「いるの分かってるから。さっきコンビニのとこで見たんだ。ちょっと話そうよ、峰打くん。せっかくここまで来たんだし」
おれは完全に虚を突かれ、身動きが取れなかった。誰かに尾けられている気がしたのは、こいつだったのだ。
「相談したいことがあったから、店で峰打くんの履歴書ちょっと見てさ。住所調べたの。おれたち、もっと仲良くなった方がいいと思うんだよね。お互いのために」
模糊山は、おれが心の中で疑問に思ったことに答えるように一人で喋った。やつには個人情報の保護などどうでもいいことなのだ。ゲロのように胸糞悪い野郎だ。それだけで十分死に値した。だが、今ここでおれが手を下さなければならない理由はなかった。さっさとポリ介に引っ立てられればいいのだ。度重なるパワハラで従業員を自殺に追い込んだ罪で。
それとも、そんな間接的なやり方では不十分だろうか。そうかもしれない。こういうやつは結局どうにかして逃げおおせるのだ。自分で自分を裁くなんて高尚な思想とは無縁で、責任から逃れることだけを考えているような連中は。
おれは南真南をそっと床に下ろすと、窓のところに行った。ベランダから逃げようとしたのだ。窓を開けかけて、はっと手を止めた。下の通りにやつがいた。滑石のジジイだ。
「みーねーうーちーくーん」
前には模糊山、後ろには滑石のジジイだった。おれは挟み撃ちにあって逃げ道を失った。おまけに、部屋の中には南真南の死体が――。
……おや?
変だ。どこにもない。南真南の死体がどこにもない。
そんなはずはなかった。今そこの床に寝かせたばかりなのだ。
そのとき、背後で玄関の鍵が開く音が聞こえた。まさかと思って振り返ると南真南だった。あの女が立ちあがって玄関の鍵を開けていたのだ。そんなことができるはずがなかった。あの世行きのバスに乗ったバカ女に、そんなことができるはずがなかった。
「峰打くん!」
玄関が勢いよく開けられ、模糊山が上がり込んできた。血走った目で鼻息荒く、狂気じみた笑みを顔いっぱいに広げていた。
やつは南真南には目もくれず、おれに突進してきた。おれはほとんど反射的に殺るしかないと思った。どいつもこいつも、まるでおれに殺られるために近づいてくるみたいだった。そのせいでおれは次から次へと面倒を抱え込む羽目になるのだ。この流れをどこかで断ち切りたかった。こいつで最後にしたかった。
おれはやつがこのまま直進してきて、まるで喜びでも分かち合おうとするみたいに両手で肩を掴んでくるだろうと思った。そこを腹に一発食らわせてやるつもりだった。ところが、やつはおれのすぐ前まで来たところで突然勢いを殺し、ぱっと横に飛びのいた。
メタボ野郎とは思えない動きだった。おれは虚を突かれて反応できず、やつに後ろから腕ごと抱きすくめられた。と同時に、やつの手がおれの鼻と口を覆うように押さえつけてきた。その手には何か白い布きれが握られていた。直感的にやばいと分かった。抜け出そうともがいたが、すぐに体が重くなった。体から力が抜け、視界がぼやけた。蹴るんだと思ったときにはもう膝がきかなかった。模糊山が手を離すと、おれは崩れるようにして床に倒れた。
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