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たやすい仕事 1/4


 男は名を名乗らないし、おれも名を名乗らない。
 誰かと組んで仕事をすることはまれにしかないが、名前が分からなくても不都合はない。名乗りもせず、言われた仕事をこなし、報酬を受け取って、二度と会わない。
 それで何も問題はなかった。
 手配師に教えられたのは、緑道沿いの児童公園だった。そこにもう一人の男も来ることになっていた。容貌について何も聞かされなかったが、それらしい奴は一人しかいなかった。
 そいつは公園のベンチに脚を開いて座り、前屈みになって地面に唾を吐いていた。おれが近寄ると向こうも気づき、おれたちは互いの顔を見てうなずき合った。
「見ろよ」
 男がそう言って視線を向けた先に、おれも目をやる。
 すぐそこの緑道に、低学年くらいのガキが数人たむろしていた。その中で、地面に仰向けに倒れているやつに一人が馬乗りになっているのが目を引いた。他の連中は何をするでもなく周りに座り込んでいた。
 組み敷かれているやつは、手足を力なく投げ出して抵抗する様子もなかった。上になったやつは、戦意を喪失した相手を執拗に押さえつけ、解放してやる気もなさそうだった。
 心をかき乱す光景だった。
 下になってるやつは顔に何か押しつけられていた。パンのようだった。距離があってはっきりとは見分けられなかったが、そんな風に見えた。顔が覆い隠されてしまうほどだから、パンだとするならかなりデカい。どこで手に入れたのか知らないが、とんでもなく屈辱的なやり口だった。
「いじめか」
「多分な」
 おれたちが眺めている間も、事態に変化は起きなかった。
「行きますか」男がベンチから腰を上げた。
 おれは黙ってうなずいた。まったく、世の中は非情だ。
 合流したあとに向かう場所も指定されていた。公園からほど近いところにあるコインパーキングだ。手配師によれば、そこに一台の車が停まっているはずだった。おれと男とでその車のトランクに入っている荷物を処分するのだ。
 それが今回の仕事だった。
 報酬は一人十五万。悪くなかった。うまくやれば一日で終わるだろう。
 その荷物とやらが具体的に何なのかは、だいたい見当がついた。どこかへ運べとか誰かに渡せというのではなく、処分しろというのだから尚更だ。詮索すべきじゃない。他でもない自分のためだ。いずれにしろ、意見を言える立場ではないんだから。
 やるのか、やらないのか、それだけだ。やれば報酬がもらえる。きちんと成し遂げれば、次があるかもしれない。悪くない仕事がもらえるかもしれない。それを望むならつまらない詮索をしないこと。そして、絶対に誰にも喋らないこと。それが鉄則だ。
 コインパーキングは通りに面した大きなビルの裏手にあった。通りからは直接入れない、目立たない場所だ。
 おれは駐車されている車をすばやく見ていった。十台ちょっと停められていて、空きは三台分。どの車も無人だった。おれたちはその中の一台の前に立った。シルバーのセダン。おれは車種を見分けるのが苦手だったが、相方には苦もないことだった。
 相方が運転席のドアに手をかけると、それはすんなり開いた。ひとまず乗るかという仕草をするので、おれは助手席側に回った。車を見分けられたんだから、奴が運転席に座ってもかまわないだろう。
 キーは差し込んだままになっていた。ダッシュボードを開けると茶封筒が三つ。報酬は前払いだ。おれの十五万と相方の十五万。それからご丁寧に必要経費まで。
 おれたちはまず自分の金を取った。それから相方が必要経費の入った封筒を開いて中身を出した。万札が二枚。相方は一枚を自分に抜き取ると、もう一枚をおれによこした。仲良く分けっこだ。まぁそうしなきゃまずいだろう。
「一応見とくか」相方が言った。
 トランクの中にあるもののことだ。反対はしなかった。いずれは見なきゃならないのだ。おれたちは車を出て後方に回り込んだ。
 相方がゆっくりとトランクを開けた。
 そこには思った通りのものがあった。
 相方は両手でそっと、しかししっかりと、トランクを閉め直した。息がかすかに震えていた。まさか「死体を見るのは初めてだ」なんて言わないだろうなと思ったが、相方は何も言わなかった。おれも何も言わなかった。死体も何も言わなかった。うまくやれそうだ。
「行くか」と相方。
 精算機で駐車番号を入力すると料金は三百円と出た。そのパーキングは十五分ごとに百円加算される方式だったから、停めてからまだ三十分程度ということだ。荷物もまだ新鮮そうだったし、実に手際のいい仕事だ。
 誰かが死ぬ。遺体をどうするか相談し、すぐに手配師に話がいく。手配師が必要な人員を揃える。人が揃った頃にはすっかりお膳立てが整っている。あっという間だ。
 おれたちは後始末を引き受けたことになるわけだが、こんな手際のいい仕事をする連中には逆らわない方がいい。おっかない組織に決まってるからだ。おれは頼れる者のない独り身だし、おまけに頭もよろしくない。黙って言われたことをやるだけだ。
 そうだ、おれは賢くない。度胸だってない。せこい生き方しかできない。だけど、そのことは自分でもよく分かっているつもりだ。それが生き残れるかどうかの境目になるんだ。そういうことだ。身の程を知るってことだ。
 おれたちは車に乗った。
 運転は相方、おれは助手席。
 今回の仕事の条件は二つだった。依頼の電話から三十分以内に指定の場所まで来られること。それから運転ができること。というわけで、おれも一応運転はできる。この先、必要に応じて交代することになるだろう。
 路上に出てわりとすぐ、相方が車を路肩に寄せた。ちょうど地下鉄の出入り口付近だった。トランクにあんな荷物を積んでると、人がやたら多いように感じる。
「ちょっと金預けてくる」
 相方はさっと車を降りると、通り沿いにある大手銀行のATMに小走りで入っていった。この仕事の報酬をさっそく貯金するのだ。堅実な奴だ。現金を持ち歩きたくないのかもしれない。
 奴がそうするなら、おれも預けてしまった方がよさそうだった。あまり頭のよろしくない、中途半端に裏の世界に足を突っ込んだ男が二人いて、片方が現金を持っていてもう片方が持っていないとなれば、バランスがよくないからだ。同じだけ持っているか、同じだけ持ってないという状態でいる方が、余計な気苦労をしなくて済む。
「悪ぃ悪ぃ」
 相方は戻ってくるとすぐに車を出そうとする。そこでおれもドアに手をかけて言う。
「おれも行ってくる」
「そう?」と相方。「一緒に来ればよかったのに」
「二人とも車から離れるのはまずいだろ」
「あぁ」相方は納得したように言う。「頭いい」
 おれは、必要経費一万円を除く報酬十五万円を自分の口座に預け入れた。おそらく相方もそうしただろう。車に戻ると、相方が缶ジュースを飲んでいた。カルピスソーダだ。おれが金を預けているわずかな間に買ったらしい。自販機は車のすぐ斜め後ろにあった。
「お前も買う?」相方が聞いた。ジュースをという意味だ。
「いや」おれは首を振った。
 おれは、奴が「頭いい」などと言った舌の根も乾かぬうちに、ジュースなんかを買うために車から離れたことをあえて非難はしなかった。何も起こらなかったんだから、わざわざ咎めることもない。
 相方は再び車を出した。
 おれは、このどこか抜けたところのある男に名前を与えてやろうと考えながら、ぼんやり窓の外を眺めていた。そんな風に考えるってことは、ちょっとはこいつを気に入ったということらしい。
 名前を与えるなんていっても、実際にその名前で呼んだりはしない。おれが一人頭の中で言うだけだ。奴に「こんな名前をつけてやったぞ」と教えるつもりもない。なんにしても、「相方」じゃ漫才コンビみたいだし、「この男」だとまるで何の関係もない奴みたいだ。だからって「彼」じゃまるでオカマだ。
「ドライブスルー寄ればよかった」と相方。
 何を言っているのか分からなかったが、サイドミラーにマックの看板がちらりと映ったのを見て理解した。カルピスソーダだけでは足りなかったらしい。
 車はいつの間にか東名高速に乗っていた。一言断れよと思ったが、まぁ同意を取りつけるまでもないことだから、奴の運転したいようにさせておいた。まさか都心であのお荷物が処分できるわけもないんだから。
「いいよな」相方が言った。
 東名に乗ってかまわないよなという意味だ。おれがちらっと不服に思ったのを感じ取ったのかもしれない。いいも何も、もう引き返しようがないわけだし、おれは「あぁ」とだけ言った。
 フランキー。
 相方が運転をしながら手探りでホルダーの缶ジュースを取り、ぐびぐび喉を鳴らして飲むのを横目に見ていたとき、ひらめいた。
 こいつの名前はフランキーにしよう。
 悪くない。なかなかイケてる。絶対に口に出して呼びはしないが。
 フランキー、あんたは名づけえるものだ。だからフランキーという名前がついた。さぁ教えてくれ、あんたが何者なのか。どこから来たのか。どんな男なのか。
 フランキーは前科二犯のチンピラだ。妹を溺愛しているフランキーは、彼女を傷物にしたろくでなし野郎を半殺しにしたことがある。そいつは今も片目の視野を欠き、左手の指が三本曲がらなくなったままだ。
 一方で、フランキー本人は過去に二人の女に中絶手術を受けさせている。そして、そのことを少しも負い目に感じていない。学歴は多分中卒だろう。というか、高校中退。暴力沙汰を起こしたか、単純に学業不振。家庭に問題があったのかもしれない。多分、その全部だ。
 フランキーという名前はいかにも下層階級出身の不良という感じがする。それでいてワルになりきれないというような。日本名でいうとアキラとか、そんなところか。
 おれはこう見えて大学を卒業してるんだが、そのことは黙っていた方がよさそうだ。なぜなら、フランキーはもし大学に行っていたら今とは違う人生が待っていたはずだと考えているからだ。いい大学ほどいい人生が待っているはずだ、と。
 フランキーにとって、いい人生とは金と女だ。
 世の中には他にもっと楽しみがあるんだぞ、フランキー。例えば? 将棋なんかどうだ。温泉巡りも悪くない。ゲームとかスポーツ観戦。寺社仏閣巡りだってなかなか味わい深い。植物栽培なんかよさそうじゃないか。星を見るってのもいい。
 フランキー、おれは自分の星を持ってるんだぜ。勝手におれのものにしただけで、本当は木星っていうらしいがな。こんなところで、こんな仕事をしながら、木星のことを考えるなんて、悪くないじゃないか。
「あれはおれの星なんだ」
 あるときおれは言った。もちろん女相手にだ。
 そしたらその女がこう返した。
「木星が? なんで?」
「木星?」
「知らないの?」
「知るわけないだろ」
「私は知ってる」
「どうして」
「どうしてってことないけど」
 面白くなかったね。もうちょっと、こう、おれに敬意を払ってくれることを期待してたから。自分の星を持ってる男なんて素敵って。
 こう見えてもおれには長く付き合った女が二人いる。長くというのは、別にたいした根拠はないが一年以上というところだ。フランキーは女とは長続きしない。性格に問題があるからだ。もちろん、本人は自分の性格がどうとか、そんな難しいことはいちいち考えない。面白くないことがあれば不機嫌になる、それだけのことだ。
 フランキーはいつもふられる。それを言ったらおれもいつもふられる。何だかんだ言って、おれたちが根本的にはいい奴だからだ。いい奴にはいい人生は待っていない。これは名言かもしれないな。特に金と女をよしとするような人生は待っていない。ただそれを待望するだけ。それでおれとフランキーの今がある。
 トータルで考えてみると、フランキーはちょっと手に負えないところもなくはないが、憎めない奴だ。そういうわけだから、この珍道中の行く手には、いい人生は待ってなくても、ドロシー・ラムーアは待っているかもしれない。そうじゃなきゃいけない。何を言ってるのか分からない奴にいちいち解説してやる気はないが。
「あいつ、ぶっ殺してやればよかった」
 フランキーがいきなり物騒なことを言う。
 何の話かと思って、おれは奴の顔をちらりと見る。
「さっき公園にいたやつ」
 おれは話を掴んだ。さっきのガキどものことだ。
「どうやって」
「どうって?」
 フランキーはおれをまともに見る。
 おれは肩をすくめた。おれが聞いてるのは、ぶっ殺す方法のことだ。
「ぶっ殺すんだよ」
 フランキーは憤慨して言った。憤慨していたが、おれに対してではなかった。ここは大事なところだ。だからって、今ここで奴の臨界点がどの辺りにあるか見極めてやろうなんて、からかってみるべきじゃないだろうが。
 しかし、フランキー、いずれにしろそれじゃ答えになってない。おれは具体的な方法を聞いてるんだ。ちょっと飛躍した質問だったかもしれないが。
 だけど、ある意味では答えになっていた。フランキーがあのいじめっ子に対してどういう感情を抱いたかが分かるからだ。
「悪くないと思う」とおれ。
「何が」フランキーはおれの言った意味を掴み損ねたようだった。
「やってもいいと思う」
「そうか?」フランキーはやや意外そうだ。
「あぁ」おれは重ねて肯定してやる。
「マジで?」
「死んだ方がいい奴はいる」
 フランキーがちらりとおれを見た。おれは黙って前を見ている。
「怖いこと言うな」
 フランキーは少し嬉しそうに言うと、すぐに怒りが再燃したようだった。
「いるよな、そういう奴は」
「いる」おれは言葉少なにフランキーの地獄の炎に薪をくべた。
 今のおれやフランキーなら、小学生をぶっ殺すことくらい簡単にできる。首根っこを力いっぱい蹴飛ばしてやるだけで完了するだろう。
 おれの脳裏にさっき見た光景が蘇ってきた。すでに完全に戦意喪失しているのに、いつまでも地べたに押さえつけられていたあの子には、もう未来がない。未来がないというのは、可能性がないということだ。
 普通、可能性は年とともに潰れ、潰されていき、どっちにしろ誰にとっても未来はなくなる。だけど、あの子は顔面にパンか何かを押し当てられて一気にテンカウント奪取されたのだ。小学校低学年にして、生きてたって何もいいことはないという真実を知らしめられた。
 可能性ゼロで、ただ終わりに向かって旅をする。ひたすらに搾取され続ける、長すぎる旅を。ひどい話だ。なんてひどい話なんだ。とんでもなくひどい話だ。あぁ、くそ、世の中とんでもなくひどい話だらけだ。
 あの馬乗りになっていた方のガキがいい気になってへらへら笑うのが、耳の奥の方で聞こえるようだった。あのガキは相手がどうなろうと知ったこっちゃないのだ。
 おれの定義によれば、そういう笑いは笑いじゃない。物事を上下関係でしか考えられない奴が、自分の優位性を見せつけるための手段に過ぎない。連中には笑いが分からない。でも、上下関係でしか物事を把握できない奴らに、それ以外のものの見方をしろって言ったって無理なのさ。
 だけど、どういうからくりか、世の中というところはそういう連中の価値観を主軸として成り立っているらしい。それで、一方的に下と決められた連中には成す術がなくなる。ただただ下へ下へと追いやられていく。
 イヤな話だな、フランキー。だが、あんたが笑いの分かる奴でよかった。おれたちのような奴には結局それしかないんだから。いや、待てよ。どうしてフランキーに笑いが分かると分かる? よし、あとで試しに面白いことを言って奴の反応を見てみよう。
「今から引き返して、あのガキをボコボコにしてやりたいぜ」とフランキー。
 おれはわずかに口元を緩めて笑った。まぁ今ので合格にしてやってもいいだろう。
 現実というやつは、ただただどうにもならない。可能性ゼロの現在がひたすら続くその先に、未来は開けない。
 だからフランキーは、また断りもなくサービスエリアに寄る。そして売店で買ったアメリカンドッグを食べながら、ここでしか買えないというメロンパンをおれに見せびらかす。
 アメリカンドッグもメロンパンも、自分の分だけだ。どうしておれの分も買ってくれようとしないのか、ちょっとばかり理解に苦しむ。おれたちは仲間じゃないか、フランキー。多分、何も考えてないんだろう。「おれの分も頼む」と一言いえば、気安くOKしてくれるんだろう。おれが何も言わないんだから仕方ないのだ。
 そこでおれは自分のことは自分でするように決める。
「おれもいいか」
「ん?」
「コーヒー買ってくる」
「あいよ」フランキーはアメリカンドッグをかじりながら言った。
 おれはまず小便を済ませ、それから売店に向かった。正直、フランキーがアメリカンドッグを食べてるのを見たらおれも食べたくなったのだ。メロンパンには惹かれなかったが、アメリカンドッグはうまそうだった。最後に食べたのがいつだったかも覚えてないが、まさかこんな仕事の最中に食べることになるとは自分でも思わなかった。
「あいつに名前をつけてみた」
 サービスエリアを出て間もなく、フランキーが言った。あいつというのはトランクの例の荷物のことらしい。
「なんて?」
 おれは興味を惹かれた。おれもこいつにフランキーという名前をつけたわけだが、誰しも同じようなことを考えるのかと思ってちょっとおかしかった。
「みつやす」フランキーがほんの少し意気込んで発表した。
「みつやす」おれは復唱する。
 どうだろう、その名前。
「一言相談しろよ」おれはいったんはずして冗談に言う。
「へへっ」
「みつやすくんか」
「小学校の同級生に似てるんだ、目鼻の感じが」
 なるほど。トランクの中の荷物は裸にされていたが、ぱっと見に外傷はなかった。顔もきれいなもんだった。ただ寝てるだけにも見えたくらいだ。殺されたんだと思うけどな。案外、本当にそのみつやすくんなのかもしれないぞ、フランキー。
「面白い奴だったよ」フランキーは遠い昔を振り返って言う。
「そう呼ぼう」おれは提案を受け入れた。
 おれがアメリカンドッグを食べ終えたのを見ると、フランキーは肘掛けについているボタンを操作して助手席の窓をわずかに開けた。そこから串を捨てろというのだ。
 おれはためらった。ポイ捨ては主義じゃないからだ。フランキーはそれには気づかず、あごでしゃくって促す。奴にとってはいつものことなのだ。おれは仕方なしに串を投げ捨てた。フランキーは軽く微笑んで窓を閉めた。おれは何も言わなかった。
 フランキーが突然笑い出した。
「みつやすくんがさ」と語りだす。同級生のみつやすくんの方だ。「ドラクエの発売日に学校休んだんだけど、次の日カセット持ってきて自慢するわけ」
 おれは黙って話を聞く。
「それで誰かが先生にチクって、ズル休みもバレて、カセット没収。何日かして返してもらったら、先生の冒険の書が作ってあって、もうビアンカとフローラのどっちと結婚するかってところまで行ってたって。消して返せっていうんだよな」
 フランキーは自分で大笑いする。
 おれも合わせて笑う。ドラクエのことなら少しは分かる。5だな、それは。
 ファミコンはおれもやった。何しろ、おれの誕生日はファミコンと同じなんだから。切っても切れない関係なのさ。
 一九八三年、七月十五日。
 この運命的な、ろくでもない、史上最悪の日。おれが生まれ、ファミコンが生まれた。どっちも誕生しなかったら、世界はずいぶん変わっていただろう。そうなってたらよかったのに。おれもファミコンも、誕生しなければよかったのに。
 この一九八三年七月十五日を境にして、世界は「そうじゃなければよかったのに」の連続で成り立つようになった。
 そう思わない奴だっているだろうが、これはおれの話なんでね。気に入らないんだったら、あんたはあんたの話をしてればいいのさ。じゃなきゃ、あんたの気に入る話を探せばいい。違うか?
「山でいいよな」フランキーが仕事の話に戻る。
「埋めるか」おれは同意して言う。
 引き受けた仕事は、完璧にこなさなきゃならない。ミスったらどうなる。おれもフランキーも連中から制裁を受けるだろう。どんな制裁か。みつやすくんの仲間入りをしてしまうような制裁だろう。たっぷり苦しんだあとで。
 みつやすくんがなぜ死んだのかは知らない。ともかく奴は死んで、裸にされてトランクに積み込まれた。現場の処理はとっくに済んでいるだろう。みつやすくんの所持品もすべて処分済みだろう。証拠は何一つ残ってないだろう。
 何があったか誰も知らない。だから何もなかったということにできる。そう辻褄を合わせるためには、あとはこの処置に困る、厄介な、ただの物体と化したみつやすくんだけが邪魔というわけだ。最大の証拠が。
 末端にいるおれとフランキーがその処理を押しつけられたのだ。金に釣られて自ら志願したという側面もあるんだが。
 ミスるのはやばい。どう考えてもよくない。
 フランキーもそのことをよく分かってくれているといいんだが。
 みつやすくんはもう連中の手を離れているのだ。今や、何もかもおれとフランキーがしでかしたことになるだろう、もしことが明るみに出るようなことになれば。ここに一つの死体があるというところから遡って、犯してもいない罪をでっちあげられてしまうだろう。辻褄合わせのために。何かがあったということにするために。おれたち自身がそう自白したんだという形で。
 それもまた人生。中でも最悪のものだが。
 警察やら法律やらから逃れられたとしても、連中がいる。連中からは逃れられない。連中というのが一体どんな奴らなのか、本当のところ知らないが。笑って許してくれたりしないことだけははっきりしてる。連中は、「裏の世界版・初めてのおつかい」とかいって、この車に小型カメラを仕掛け、さらに後ろの車からおれたちを撮影して番組を作ってるわけでもない。本当にそんな番組を作ったら、かなりウケるだろうが。
 連中というからには組織なんだろう。正体はたった一人の人間だというのはありそうにない。それどころか、構成員は大勢いるに違いない。大勢いて、どこにでもいる。連絡はあっという間に行き渡り、どんな路地裏にも目が届く。考えてみれば極めて優秀な組織だ。連中はSNSなんかよりずっと昔から、仲良くつながってるってわけだ。
 だがしかし、おれは組織というのが嫌いなんだな。学校も会社も家族も、どんな組織も。そしておれは嘘も嫌いだ。嘘も嫌い、組織も嫌いとくれば、今のおれのあり方はこれ以上ないほど理に適っていると言えるんだろう。しかし、それでおれはハッピーか。フランキー、とてもじゃないがハッピーとは言えないね。あんたはどうだ。
 まぁ答えてくれなくてもいい。
 しばらく見ていれば、分かるかもしれないから。
 おれたちは終わりに向かって旅をしている。どっちみちそういうことだ。これまでの旅のどの時点を切り取ってみても、ただ終わりに向かっているという事実だけが共通している。終わりがあることだけが唯一はっきりしていることだ。
 だがしかし、今この仕事でミスるわけにはいかない。
 絶対に。
 絶対にだ。
 おれの言いたいことは分かるな、フランキー。アメリカンドッグを食って小さな幸せを感じている場合じゃないってことだ。引き受けてしまった以上、滞りなく完遂すること。それしか道はない。もし、ましなエンディングを期待するなら。
「海はありかな」フランキーが言う。
 おれはどっちつかずの生返事だ。やつも言ってみただけと肩をすくめる。
 海はあまりいいアイデアとは言えないだろう。崖から投げ捨てるにしろ、船で沖に出て捨てるにしろ、あとは潮の流れ任せになってしまうからだ。数日後にぶくぶくに膨らんだみつやすくんがどこかの海岸に打ち上げられたなんてニュースは聞きたくない。
 だいたい船をどこで借りるのか。おれたちにはすでに車があるんだ。
 定番だが、今向かっている方角を考えても青木ヶ原の樹海に捨てるのが一番だろう。ただ捨てるだけじゃまずい。穴を掘って埋めるのだ。骨になったあとでも見つからないように、地中深くにグッドバイ。おれとフランキーは汚れた服を払って、その場で別れ、どこへともなく消えていく。これがハッピー・エンディング。
「ひらめいた」またフランキーだ。
 奴のひらめきが当てになるかどうか、ひとまず拝聴しよう。
「福島に捨てる」
 なるほどと思ったね。
「あれだろ、放射能で入れなくなってるんだろ。原発の辺りは」
「らしいな」と言ってもよく知らないが。
「そこに行って捨てればいい」
 フランキーはそれでおしまいだというように、手で払う仕草をする。
「捨てるだけか」
「楽なもんだ」
「埋めたりしない?」
「だって誰も入っちゃいけないことになってるんだから」
 それで?
「たとえ入って見つけた奴がいたとしても何も言えないだろ」
「なるほど」
「頭よくないか、おれ」
「おれたちも放射能浴びるぞ」
「ちょっとぐらい平気だろ」
「多分な」と言ってもよく知らないが。
 フランキーは眉間にしわを寄せて考える。
「入ろうとすれば入れるんだよな?」
 まさか鉄条網でぐるりと囲ってあるわけじゃないだろう。そこらじゅうに監視カメラが設置してあるわけじゃないだろう。すべての道で通行証を要求されるわけじゃないだろう。
「入る前に見つかったら意味ないからな」
「大きな通りとかはまずいんじゃないか」
「そのくらいなら楽勝じゃねぇか」
 実際問題、悪くないアイデアかもしれない。見捨てられた土地は、無法地帯になる定めだ。すでに他殺体がごろごろ転がっている可能性だってある。他殺体や、何か不都合なものたちが。
 とはいえ、福島といったらまるきり逆方向だ。それに、少なくともおれにはそっちの土地勘はない。少しは通行を取り締まっているかもしれないし、車で侵入するのは簡単ではないかもしれない。色々考えるとちょっと現実味に乏しい。
 まぁひらめきというのはそういうものだ。
「引き返すか?」フランキーが言う。
 おれは奴の顔を見る。
 フランキーはにやりと笑って「冗談だよ」。
「分かってる」おれも笑う。
 おれもフランキーも死体の扱いに慣れているわけじゃない。樹海に埋めるってことでいいだろう。掘って埋める。とすると、当然道具が要ることになる。
「道具が要るな」とおれ。
 フランキーはうなずき、「ホームセンターか何かに寄るべきだ」
 おれは奴の頭がまともに回転していることが分かり、ちょっとばかり安心する。
 おれたちは御殿場で東名を下りた。高速料金は、買い物のときに改めて精算するということで、ひとまずおれが出した。
 通りをあてなく走っていると、ホームセンターはすんなり見つかった。だだっ広い駐車場の隅に車を停め、二人で買い物リストを作った。
 シャベルが二本、ハンドライトが二本、軍手が二組、粘着力のあるビニールテープ、ナイフ、ロープ、ビニールシート。その他役に立ちそうなものがあれば。
 ここまで運転を任せきりだったから、買い物はおれが行こうとした。すると、フランキーが待ったというように人差し指を立てた。
「おれ、ホームセンター好きなの」
 やってくれるなら断る理由はなかった。おれは、万が一の場合に備えて、運転席に移動してフランキーが戻るのを待つことにした。
 ここまで、おれはまだ仕事らしいことを何もやっていなかった。ぼろい仕事なんだと思うことにしよう。リスクはあるが、それを除けば楽ちんな仕事なんだと。今まで引き受けた仕事だって、どれもそんなもんだったんだから。
 おれはフランキーがサービスエリアで買っていたスナック菓子をつまみながら、フロントガラス越しに富士山を見た。上の方に少しだけ雪が残っていた。
 たいしたもんだ。
 だだっ広い駐車場。ものすごく太った女がカートを押して横切っていく。死体つきの車に乗っているおれ。
 実にたいしたもんだ。
 十五万の仕事を請け負い、経費もあちら持ち。
 あぁ、本当にたいしたもんだよ。十五万もあれば三ヶ月は暮らせるからな。
 日雇いの肉体労働の現場で、ある男に声をかけられたことがすべてのはじまりだった。
「金になる仕事がある」
 興味を示すと、そいつは連絡先を教えろと言った。おれは紙切れに携帯番号を書いて渡した。何日かして電話がかかってきた。出てみると、声をかけてきた奴とは違う男が「仕事がある」と言った。それが今おれが手配師と呼んでいる野郎だ。
そいつは仕事の簡単な内容と報酬を言った。
 ある男から鞄を受け取り、別の男に渡す。場所は新宿駅構内。
 それで八万。
 おれは引き受けた。はっきり言って怖かった。たったそれだけのことだからこそ、余計にやばいと分かった。だが、どうしても金が欲しかった。楽して得られるデカい金が。
 おれは新宿駅東口のある場所で指定された時間に待っていた。ある男がすっと近寄ってきて、何も言わずおれに鞄と紙切れを渡した。紙切れには西口に行くよう指示があった。おれは鞄を持って西口へ行き、新たに指定された場所で待った。
 まもなく、脇から男が現われて鞄を奪い取ろうとした。とっさのことで、おれは持ち手を離せなかった。こいつでいいのかどうか分からなかったし、うっかり別の奴に渡したりしたら殺されるんじゃないかとパニックになったのだ。
 すると、男がおれの手に何か握らせてきた。折りたたまれた万札だった。はっと手を離すと、男は鞄とともにあっという間にいなくなった。
 おれも急いでその場を立ち去った。意味もなく遠回りをして部屋に帰った。あとで数えてみると、万札はちゃんと八枚あった。
 それが最初の仕事だった。
 それからときどき連絡が来るようになった。
 今回の仕事で七度目か八度目になるはずだ。今まで本当の意味で危険な目に遭ったことはなかった。殴られたり、ナイフを突きつけられたりといったような目には。ちょっとは怖くなるが、それでも危なげなく仕事を遂行し、報酬を受け取っていた。報酬はいつだってよかった。だからやめられなかった。
 フランキーはなかなか戻ってこなかった。
 ちょっと時間がかかりすぎだった。
 まずいな。
 もし、フランキーが買い物に行くふりをしてトンズラをこいていたら。
 そしたら、どうする。
 考えてみれば、その気になればいくらでもやれることだ。おれたちは監視されているわけじゃない。連中はおれたちの間で揉めごとが起ころうが知ったこっちゃないのだ。連中が求めているのは結果だけだ。
 フランキーが逃げる。みつやすくんをおれの元に残して。すべてをおれに押しつけて。
 十分ありえることだ。
 そんなことになったらどうなる。どうにもならない。おれ一人でみつやすくんを処分しなければならなくなるだけだ。フランキーを卑怯者と罵ろうとどうしようと、仕事は一人でやる他ない。やらなければ制裁が待っているだけだ。
 仕事が遂行されたなら、連中は何も気にしない。おれがチクりでもしない限り、連中はフランキーが途中で仕事を投げ出したなんて知ることもないだろう。
 チクったところで連中が気にするとも限らない。そもそも、おれは手配師としか連絡を取れないのだ。もし奴に報告したところで、それより上に話が行くという保証もない。騒いでも、おれが何かあるとすぐチクるような、不満を抱きがちな奴だと印象づけてしまうだけかもしれない。
 逃げるが勝ち。
 何でもかんでも、逃げるが勝ちだ。
 留まった奴が負ける。
 面倒を押しつけられ、罪をきせられる。
 一度逃げ損ねると、次々に重石が増えてどんどん逃げにくくなる。
 かといって、状況には対処できない。
 もう重石が増えすぎているから。
 それで負ける。
 だから逃げる奴はとっとと逃げる。
 どこでも繰り返されている話が、ここでも繰り返されるのか。フランキー、お前はおれにそんな仕打ちをするつもりなのか。アメリカンドッグに満足げにかじりついていたのは、おれを油断させるための芝居だったのか。
 今度会ったら殺してやる。
 いや、必ず見つけ出して始末してやる。
 お前が仕事をしないで持ち逃げした十五万も、間違いなくいただく。
 おれはとてつもなく執念深い男だからな。
 ……くそっ、おれは何て間抜けなんだ。
 そのとき、フランキーがカートを押して店から出てくるのが見えた。間違いなく奴だった。かごからシャベルの柄が二本飛び出していた。
 ……なんだよ、早とちりか。
 フランキーは買ってきた道具類を後部座席に詰め込んだ。おれは運転席に座ったままだったが、やつは手伝えとも言わなかった。
「食うか」
 フランキーは何か投げてよこした。キットカットの大袋だ。
 お前はまた食い物を買ったのか、フランキー。そして、ちょっぴりダウナー気味のおれを慰めてくれるというわけだ。食い物で。
「今度はおれが運転する」とおれ。
 フランキーは、カートを所定の位置に戻してくると、助手席に乗り込んだ。
「早く開けようぜ」
 やつはおれの手元からキットカットを取り、封を開けた。上着のポケットからは新たな缶ジュースが出てきた。コーラのミニ缶。もう一つコーラのミニ缶。それからもう一つ、コーラのミニ缶。
「一個三〇円で売ってた」
 そう言っておれに一缶渡す。おれは黙って受け取る。歯を磨かないと虫歯になるぞと思いながら。そして、どうせ買うなら、買って分けてくれるなら、偶数個買ったっていいんじゃないかと思いながら。
「細かく計算するか?」
 フランキーがキットカットの縦半分を口に入れながら言う。精算のことだ。
「だいたいでいい」
「じゃ、高速の分と合わせて三千円な」
 おれは黙って千円札を三枚渡す。単純な好奇心からお菓子やジュースの分も入っているのかどうか気になったが、奴が買い物をしてくれたことを考えれば、おやつ代はおごってやってもいいくらいだった。
 おれは車を富士山麓へと走らせた。
 富士五湖を奥へ入っていくと、樹海は現れる。
 イヤな感じだ。
 実に何とも、いわく言いがたく、イヤな感じ。
 あまり近寄りたい場所じゃない。特にトランクに死体が入っているような場合には。トランクに死体が入っているからこそ、近寄らなければならないのだが。近寄るどころか、その中まで入っていかなければならないのだが。観光客が来ないような未踏のエリアへ。
 フランキーは何も言わない。奴なりにイヤなものを感じ取っているんだ。そこへ入っていく予定の者として。一体ここにどれだけ死体が転がっていることやら。他殺体に自殺体。そこにおれたちが新入りのみつやすくんを付け加えるってわけだ。
 まったく気分が重たくなる。空が少し曇ってるのがよくないのかもしれない。空模様で気分は変わるからな。こっちの気分で空模様が変わってくれることはそうそうないが。
「よさそうな場所があったら教えてくれ」おれは言う。
「あぁ」フランキーは答える。
 だけど、そんな場所は一向に見つからない。
 フランキーがラジオをつけたのは正解だった。おれがあまり好きじゃないお笑いコンビがパーソナリティの番組だったが、何もないよりましだ。
「こいつら好きなんだよ」とフランキー。
 おっと。ではおれの好みについては黙っていよう。
 おれたちはラジオを聞きながら森の中の道を走った。番組ではときどき音楽がかかった。いずれもリリース間もない日本のバンドやアイドルの新曲で、それなりに聴けるやつだった。というか、若くて元気でいいなってところか。若くて元気。ヤング・アンド・ファイン。おれについて言えば、どちらもいつの間にかなくしてしまっていたが。
「あいつ、ホントにぶっ殺してやればよかった」
 その話は二度目だぞ、フランキー。おれは心の中で咎める。
 だが、最初のときほど覇気がない。憎悪にエンジンがかかっていない。フランキーも若さと元気を失ってしまった自分を意識したのかもしれない。
 フランキーはいじめられたことがあるんだな。
 反応を見れば分かる。フランキーの心はまったくよろしくないものに蝕まれている。公園でのいじめを見て、奴の中で悪い菌がまた活性化しはじめたんだ。やつは、憎悪の矛先が定まらず、キットカットを貪り食った。
 いいね。
 悪くないぞ、フランキー。
 なんなら、このままみつやすくんもろとも湖に突っ込んでやろうか。三人で無理心中だ。もっとも、みつやすくんは一足先に死んでいるが。それだっていい。ありだと思うね。そんな派手なことをしたら、みつやすくんのことが公になって連中は困るだろうが、おれもフランキーもそのときにはすでにいないのだから構うことはない。
 しないけどな。
 告白するよ、フランキー。
 おれもいじめられたことがある。そう口に出して言うつもりはないが。
 まったく、おかしな巡り合わせじゃないか。二人の、どこから来てどこへ行くのか分からない、いじめられた経験を持つ、もう若くもないダメな男たちが出会って、一つの仕事を一緒にやるなんて。
 思うに、みつやすくんも、言ってみればいじめられたんだろうな。それであんな姿になったわけだ。ちょっとやりすぎじゃないかって気もするが。みつやすくんも仲間に入れてやろう、ろくでなしどもの仲間に。おれたち三人は奇妙な巡り合わせで出会ったのさ。
 おれもあのガキをぶっ殺してやりたいと思うね。
 そうしたくなってきた。
 考えつく限りの残忍なやり方でやってやるよ。
 フランキー、是非とも話しておきたいことがある。口に出しては言わないが。
 お前がフランキーというなら、後ろに乗っている奴がみつやすくんというなら、おれにだって名前がある。理解できるよな。そしたら知りたいと思うだろ、おれの名前を。
 教えてやる。
 宇宙人。
 それがおれの名前。
 ふざけてるわけじゃない。「宇宙人」と書いて「そらと」と読むんだ。「宇宙」で「そら」、「人」で「と」。それで合わせて「そらと」になる。
 漢字で書けば、宇宙人だ。
 うちゅうじん。
 おれの名前は、うちゅうじん。
 なんて悲劇だ。
 爆笑ものの悲劇だよ。
 とんでもない話だぜ、これは。
 なさそうで、ありそうで、本当にあるのさ。
 よりによって宇宙人とはね。だから言ったろ、おれの誕生した日は、運命的で、ろくでもない、史上最悪の日だって。その日を境に、世界は「そうじゃなければよかったのに」ということの連続で成り立つようになったって。
 おれの名前が宇宙人じゃなかったら、何もかも変わっていたさ。文字通り何もかもが。だから、マジな話、あの木星はおれの故郷かもしれないよな。かもしれないじゃない、おれは本気でそう思ってたんだ。あの星が自分のものだっていうのは、おれにとっては本気も本気だったわけさ。
 おれはどこか別の場所からやって来たに違いない。何か手違いがあって、間違ったときに間違った場所に来てしまったに違いない。どこかにきっと、おれが本来いるべき場所があるに違いないんだ。
 どうしておれが宇宙人なんだ。
 もちろん、誰かがそう名づけたからさ。おれが名づけえるものだから。おれがお前をフランキーと名づけたように。フランキーがトランクの中の荷物をみつやすくんと名づけたように。
 誰がおれを名づけたのか。
 あぁ、もちろんおれのオヤジだよ。
 ぼくのお父さん。
 ぼくの小説家のお父さん。
 悲惨だよ、父親が小説家だとはね。
 小説家! まったくエラそうなことを言ったもんだ。人をバカにしてるとしか思えない、この巡り合わせ。
 フランキー、あいつが何を思ってこんなふざけた名前をつけたと思う。
 宇宙ほどにもスケールのデカい男になれという意味でつけたと言っているのを聞いたことがあるが、冗談じゃない。おれには分かってる。面白半分でつけたんだ。絶対に間違いない。あの野郎の顔にそう書いてある。
 宇宙人はどうだ、「宇宙」に「人」と書いて「そらと」、「うちゅうじん」とも読める、こいつはイケますわい、なっはっは!
 それで何もかも台無し。
 それとも、これはこういう風になるはずのものなのか? おれの人生は。
 そうは思わないね。まさか。台無しになったから、こういうことになってるのさ。おれ自身によらない、おれ自身が無力と化さざるをえないような、何か大きくて邪悪な力のせいで。
 人生と言ったか? うっかり抵抗のある言葉を使ってしまったな。先が思いやられるよ、まだまだ長くかかるっていうのに。
 フランキー、名前っていうのは呪いだよ。このおれ、宇宙人は、生れ落ちたそのときから呪われてるのさ。出だしからのこのずっこけ。おれには爆笑ものの悲劇を生きるように、呪いがかけられている。
 とんでもない話だぜ、これは。
 一息つこう。
 おれだって小説くらい読んだことはある。何しろ小説家の息子だからな。昔、ある小説を読んでいたら、メイジャー・メイジャー・メイジャーというバカみたいな名前をつけられた奴が出てきやがった。大笑いしたね、大笑いして、そして泣いたね。なんてふざけた、なんて惨めな、なんて不吉な、なんて悲惨な、なんて呪われた、爆笑ものの悲劇。
 未だかつて、おれがメイジャー・メイジャー・メイジャーほど親近感を覚えた人間は一人もいないぜ。架空のキャラクターではあるがな。しかも、こいつは少佐なんだ。少佐っていうのは英語でいうとメイジャーだ。つまり、メイジャー・メイジャー・メイジャー少佐(メイジャー)ってわけだ。なんてダメ押し。これが笑わずにいられるか?
 おれがもう一人親近感を抱いた奴といえば、かぐや姫だ。分かるだろ? おれと同じ宇宙人さ。でも、あの女は恵まれてたんだ。正体は月に住む宇宙人といったって、何しろ姫だ。醜いアヒルの子だってそうだ。何だかんだ言って白鳥だ。
 おれはなんだ。おれの正体は別の何かなんかじゃない。何の取柄もない、肩書きもない、ただのチンピラ。金もない、頭もない、もはや若さもない、宇宙人という名前をつけられた、ただのダメ男。
 フランキー、宇宙人なんて名前のガキを、他のガキどもが放っておくと思うか。
 答えはノーだ。完全にノー。百パーセント、ノー。
 学校っていうのは、ひどいところだよ。
 同意してくれると嬉しいんだがね、フランキー。
 おれの名前は宇宙人で、しかも父親は小説家だ。こいつは他のガキどもに複雑な思いを抱かせるぜ。複雑っていうのは、ガキ自身で処理しきれないってことで、それでどうなるのかって言えば、とにかく面白くないって思うわけだ、おれのことを。なんだか知らないが面白くない、お前のことが気に食わない。それも立派な感情さ。
 そう思ってどうするか。
 いじめるのさ。寄ってたかって、毎日毎日。処理しきれない面倒なものをそういう形で吐き出すんだ。楽だからな、その方が。
 牢獄だよ、学校っていうのは。
 生徒も教師も、教育っていうシステムも、クソくらえだ。
 おっと、汚い言葉が口をついて出てしまった。
 クラスに知恵遅れの子が一人いた。女だ。もっとも、特別学級みたいなところには入らないで済んだ程度だから、知恵遅れなんて言ったら嫌がられるだろうけどな。
 ある日のこと、そいつが何を思ったか、突然、ペンケースでおれの頭を叩きやがった。授業中、何の前触れもなしにだ。そいつはおれの後ろの席に座ってたんだ。
 ペンケース、あれはいい音が鳴るぜ。
 あんまり突拍子もなかったんで、教室はどっと沸いた。
 本人も面白がってけらけら笑ってたぜ。
 一回こっきりじゃ済まなかった。そいつは、いったんそれが気に入ったとなると、それから毎日おれの頭を叩いたんだ。
 それは授業中いきなり来る。甲高い、いい音が鳴る。教室がどっと沸く。教師も笑う。叩いた本人も笑う、周りが笑うから余計得意になってな。
 おれは痛いんだ。あっちは手加減しないから。加減とか、そういうことが分からないから。不意打ちだから。ペンケースは硬いから。だけど、教室は笑っている。おれ以外の全員が。
 おれに何ができる。
 何もできやしない。
 もちろん不愉快さ。だが、やり返せるか? 知恵遅れの、しかも女の子に。本気で怒れるか? 教室はみんな笑って朗らかムードになってるのに。おれも仕方なく笑ったね。面白くも何ともないのに。
 世の中はとんでもなく非情だよ。そこらじゅうに罠が張り巡らされてる。おれはまるでそれらすべてに引っかかるよう誘導されているみたいな気分だよ。罠が作動するところを見てみたいからという、ただそれだけの理由で。
 フランキー、一番の問題は何だと思う。
 考えろよ。
 分かるか?
 教えてやる。一番の問題は、オヤジの小説には、おれみたいな奴は何があっても絶対に出てこないってことさ。フランキー、お前も是非読んでみてくれ。お前みたいな奴も何があっても絶対に出てこないから。
 そこでは、やたらすかした連中が出てきて、やたらすかした真似をするんだ。本音では自分のことだけが大事なのをひた隠しにして、どこまでも真面目ヅラでエラそうなことを抜かしやがるのさ。息子に宇宙人なんて名前をつけるブタのケツ野郎が、嘘八百を並べて、世の中をだまくらかして、調子ぶっこいてやがるんだ。
 おれやお前みたいな人間は、連中にとっては存在しないことになってるのさ。大嘘だぜ、こんなもの。大嘘もいいところだ、そんな話は。
 そして、みんながそれを読む。
 みんなって言ったって、五、六人だろうけどな。
 どうせ五、六人しか読まないんだったら、ホントのことを書けよ。真実を。せめてもうちょっと面白いことを。メイジャー・メイジャー・メイジャー少佐のことを。
 茶番。茶番、茶番。
 茶番ですよ。
 どう思うね、フランキー。
 おれは言いたい。
 よし、おれは新人賞をとって小説家になるぞ、と。クソったれのオヤジを見返してやる、と。
 って、アホか。
 そんなことを思うかよ。おれが思ったのはそんなことじゃないね。
 あるとき親父が言ったのさ。
「自分が悪いのを他人のせいにするな」
 刺す、そう思った。
 おれが思ったのは、それさ。
 一回じゃないな、少なくとも五回は言ってる。間違いなく五回だ。ここだけの話、指折り数えてたからな。ああいうのを恫喝っていうんだろう。五回ともそういう言い方でだよ、フランキー。
 おれもかなりの程度で自分の不幸を他人のせいにしてたことは認めるよ。あるいは世の中のせいに。だけど、実際それはある程度他人のせいであり、世の中のせいだろ? おれの名前が宇宙人なのはおれのせいか? いじめっ子は無罪放免か? それなのに「自分が悪いのを他人のせいにするな」とくる。
 刺す、そう思った。
 面倒は人に押しつけて、逃げるが勝ちなのさ。あのブタのケツ野郎の小説には、間違ってもそんなことは書いてないがな。
 逃げるが勝ちを実践しといて、痛いところを突かれれば「他人のせいにするな」と言う。逆切れっていうんじゃないのか、それは。
 逃げる奴は口も達者だよ。捨てゼリフを言って、言ってやったって自己満足に浸るのさ、安全圏で。だから、逃げられないように、刺す、そう思った。
 しつこいか?
 でも、そうしなきゃおれはおれの道を行けないからな。結局、他人のせいにしないっていうのは、そういうことだろ。おれはおれの道を行くってことだろ。
 だけど、牢獄に閉じ込められてたらどこにも行けない。
 だから、刺す。
 やるしかなかった。
 かねがね殺ってやろうとは思ってたよ、フランキー。お前にもこういう気持ちは分かると思うけどね。そして、あるとき本当に、おれがまだ若くて元気だった頃に、本気も本気で殺ってやろうとしたわけだ、あのクソブタ野郎を。
 父親殺しは別に珍しいテーマじゃないぜ、よく知らないが。やむにやまれずそこに向かっていく奴は多いってことだ。望まない誕生をさせられた生物は、自分を作った奴を恨むのさ。フランケンシュタイン博士と彼が作り出した怪物を見てみろよ。
 おやおや、そんな話になぞらえるとはね。
 だけど、誕生っていうのは誕生する当の本人が望んだり望まなかったりするようなもんじゃないだろ。当たってるだろ、おれの言ってることは。それはいつだってさせられるの受け身なんだ。
 フランキー、暗い話を聞かせてやる。
 おれにはできなかったぜ。
 何がって、刺すことが。
 それがおれにはできなかった。
 それでよく分かった、自分には何もできないってことが。おれは例の運命的な日のそのはじまりからずっこけて、立ち上がらせてももらえず、ただ地べたを這いつくばるだけなんだってことが。虫ケラみたいにな。この牢獄から出られないで、冷たい床を這い回ってるのがせいぜいなのさ。
 フランキー、おれには何もできない。本当だ。そのことは痛感したよ、それこそ全身で。おれに分かったのはそのことだ。ちゃんと計画を立てて準備したのにな。イメージは完璧だったんだ。
 怖いというのとは違うぜ。
 怖かったんじゃない。
 いざってときに、ストップがかかったんだ。どう言えば分かってくれる? 心の声? 内なる声に呼び覚まされたって?
 は。そんな穏やかなもんじゃなかったぜ。
 言ってみれば全身の細胞が叫んだって感じだ。「よせ!」って。
 大袈裟か、これは。だけど、だいたいそんな感じだったね。だからおれは動けなかった。金縛りにあったみたいに。
 あんなのは初めてだったよ。それではっきり分かった、あぁおれにはできないんだって。
 自分で言うのもなんだが、フランキー、おれってなんて人間的なんだろう。倫理的な奴なんだよ、おれは。すこぶる倫理的なもんで、だから損ばかりするようになってるってわけだ。この説明は当たってそうじゃないか?
 ほんとにやっちまう奴っていうのは、だからイカれてるんだろうな。野蛮で、程度が低いのさ。異論はあるかもしれないが、そう思うね。あるいはただ実際的なだけかもしれないがな、おれなんかよりずっと。
 とにかく、おれには何もできないって事実は変わらない。何もできないところには、何も起こらない。そこには何もない。どんでん返しなんかない。宇宙人はやってこないし、月からお迎えも来ない。実は白鳥だったなんてこともない。
 だから、おれは頭を使って生きることにしたのさ。切り替えたと言ってもいい。何しろおれはドン詰まりにいるわけだから、そうするしかないだろ。
 それでこの様かって? 使うっていっても、所詮よろしくない頭だからな。それを思えばうまくやってるよ、おれなりに。誰の助けも借りず、一人で。
 他に何ができるんだよ。どうしろっていうんだ。
 また一つ自分のことが分かった分だけ賢くなったと思ってくれ。
 フランキー、冗談抜きで言うが、自分のことが分かるっていうのはいいもんだぜ。分からないままでいるよりは、はるかにいい。それがどんなにろくでもないものか思い知る羽目になるのでも。一人合点のつまらない思い込みや幻想に振り回されて、精根尽き果てることにならないで済むからな。
 生きるっていうのは強制労働みたいなもんだ、無期懲役の。おれたちは、って勝手にあんたのことも含めるけどな、そこで全身麻痺を起こしてるんだ。
 ここは牢獄だよ。
 家族も牢獄、学校も牢獄、世の中も牢獄。その中で麻痺して何もできない。外には出られない。出ようがない。出たところで、そこもまた別の牢獄の中だ。何しろ、自分自身が牢獄なんだから、言ってみれば。どんな名前を与えてみても、それはただの別の牢獄だというだけ。その名前を与える特権的な地位にいる奴にしたって同じだ。
 何度新しい朝に目覚めてみても、そいつは必ずそこにいる。目覚めるたびに別の朝を期待してみたって、絶対にそこに戻ってきてしまう、同じ朝に。そいつのところへ。どんなに違う一日を生きようとしたって、絶対にそこから出られない。
 朝なんていうのがウソなのさ。ウソというのが言いすぎだったら、ただの飾りみたいなものとでも言い直そうか。
 フランキー、あんたの人生は焼け野原だ。
 勝手に決めさせてもらうが、「ぶっ殺してやればよかった」と口にするあんたを見てると分かるぜ。あんたにはこの世のすべてが焼け野原に見えていて、内も外も、どこに行っても焼け野原しかないってことが。
 まぁ、おれと同じで牢獄と言ってやってもいいんだが、せっかく二人いるんだからここは対比を楽しもうじゃないか。いずれにしろ、あんたがそこで全身麻痺を起こしていて、何一つできないろくでなしだっていう点はおれと同じだ。
 結局、全身麻痺なんだとしたら、使えるところは頭しかないのさ。喩えがうまくはまったな。だが、その頭ときたら、本当の話、たいして頼りにならない代物ときてる。
 頭っていうのは、健気に論理的であろうとしながら、脱線しまくるし、あるものと別のものとを取り違えまくるし、自分のものではないものを平気で自分のものだと主張するし、それでいてすべての辻褄があってるつもりになって平然としていられる器官だからな、おれの知ってる限り、おれの知ってることが信頼できるとすれば。この中が一体どういう構造になってるのか、まるきり分かってないが。
 まったく、何の話をしてるんだ。
 えらい無駄口を叩いたもんだ。
 フランキー、どうしておれたちがこんな話をしてるのか、本当は分かってるよ。あるいは話してるのはおれだけかもしれないが、あんたはそれを邪魔しないことでやはり参加してるんだ。厄介なことに巻き込んでるようで申し訳ないがね。
 このだらだらと続く無駄話が何なのかといえば、おれたちがどうしてこんなことをしてるのかといえば、それはみつやすくんに触れたくないからさ。
 仕事にとりかかるのが億劫なんだ。試験勉強をはじめる前につい部屋の片づけをしてしまうみたいなもんだな。分かりやすいだろ。やりたくないことは、できるだけやるのを先延ばしにしたいのさ。やらなきゃいけないと分かっていても。
 しまった、買い物リストに消毒薬も入れとくべきだったな。みつやすくんに触ったら、臭いがつくかもしれないから。
 これも先延ばしの一つのバリエーションだ。
 フランキー、ちょっと薄暗くなってきたな。無理もない。仕事をはじめたときにはもう午後になっていたんだから。
「もう暗いな」とフランキー。
「あぁ」とおれ。
 仕事にとりかかるのがますますイヤになったってことだ。ライトは買ってある。でも、おれたちはまだ場所さえ見つけていない。
 場所を見つけることが大事なんだ。二時間か三時間、誰にも邪魔されず、じっくり仕事に集中できる場所を見つけることが。それがこの仕事の最も肝心なところと言ってもいい。それなのに、おれたちときたら車に乗って辺りをうろつき回ってるだけ。これじゃあ、とても仕事のできる奴らとは言えないだろう。
 そのとき、道路が伸びていく先の上空で稲妻が走った。
「光った」とフランキー。
「光ったな」とおれ。
 おれたちはどこかに宿をとることにした。
 まもなく、雨がぽつぽつと降り出した。明日まで長引くようだったら困ると思っていると、ちょうどラジオで天気予報がはじまった。
 気象予報士は雨が降っているなんて一言も言わなかった。山の天気は変わりやすいという、それだけのことなのかもしれない。予報では明日は晴れだという。それでも、念のため雨合羽も買っておけばよかった。
 こうやって先延ばしにして、健気に論理的であろうとしてさらに脱線し、本来の目的からさらに離れていく。いずれにしろ戻ってこなければならないが、すぐまた明日、万全の体勢で。
 番組が変わって古い曲が流れた。

 Must you dance every dance with the same fortunate man
 You have danced with him since the music began

 知ってる曲だった。おれは何気に教養があるから。何しろ、ほら、小説家の息子だから。
 もちろん歌詞の意味だって分かる。「きみはすべてのダンスをその同じ幸運な男と踊らないといけないの? 音楽がはじまってからずっとそいつと踊ってるじゃないか」

 Won`t you change partners and dance with me

「パートナーを替えて、ぼくと踊ってくれないか?」
 いい曲だ。
「かったるいな」フランキーは言う。

 Must you dance quite so close with your lips touching his face
 Can`t you see I`m longing to be in his place

 フランキーが別の番組に変えたくてじりじりしているのが分かる。おれはそれに気づきながらも無言でプレッシャーをかける。おれが聴いてるんだから変えるんじゃないと。「相手の頬に唇が触れそうなほど近づいて踊らなきゃいけないの? ぼくが替わりたがってるって気づいてるんだろ?」

 Won`t you change partners and dance with me

「パートナーを替えて、ぼくと踊ってくれないか?」
 男二人で浸るような曲じゃないことは確かだったが、もし、おれはこの曲を知っていて、歌詞の意味も分かっていて、作曲者もこのバージョンの歌い手も知っていると言ったら――作曲者はアーヴィング・バーリン、歌い手は五〇歳を超えたフレッド・アステアだ――おまけにおれはこの曲が好きだと言ったら、フランキーはどんな顔をするだろう。
「さっきラブホがあったろ」フランキーが音楽をさえぎって言う。
 おれは答えなかった。そんなものがあったかどうか覚えてなかった。自分の話に夢中になりすぎていたのかもしれない。
「ちょっと戻ったところに」
 そこに泊まることにしようという提案だった。
 ラブホね、このメンバーで。そんなところに入るのは久しぶりだというのに。まぁ、ヘタに車中泊なんかするより安全かもしれないが。いや、だがこのメンバーだぞ。
「おれたちだけだ」
 フランキーはおれの言いたいことが理解できないようだった。おれは、男だけでそんなところに入ったら怪しまれるんじゃないかと言いたいのだった。
「男だけで行く奴だっているだろ」フランキーはあっさりと言ってのけた。
 どういうことだ。
 つまり。そうか。考えてみればそうだ。そういうケースはありえる。目から鱗が落ちる思いだった。
「あそこで晩飯買おう」
 フランキーが前方に現われたコンビニを指した。
 おれは駐車場に車を入れた。広い駐車場だった。ラジオの音楽はすでに終わっていた。食い物がからむと常に先手を取るフランキーが、「行ってくる」とさっさと表に出た。
 おれは車の中で待機した。エンジンは切らないでおいた。
 ラジオでは眠たげな声の男性パーソナリティがもそもそ喋っていた。やがてゲストの若い女性歌手が紹介され、そいつの普段の生活だとか、新曲ができるまでの経緯だとか、つまらない話題になった。結局、エンジンを切ることにした。
 フランキーは弁当二つにサンドイッチ二つ、ペットボトルのお茶二つ、それから百円のスナック菓子を二種類と、プリンとゼリーを一つずつ買ってきた。
「おれ、プリンな」フランキーはおれが何を言うよりも先に主張した。
「好きにしろ」
 清算はまたしても大雑把な計算で千円。早くも経費が半分を切った。
「ホテル代、足りるか?」おれは少し心配になった。
「平日の宿泊が七千円」
 そんなところまでチェック済みとは目ざとい奴だな、お前は。
「あそこだ」
 少し行ったところで、フランキーが反対車線の路肩を指した。
 小さな看板が出ており、脇道があった。看板はあまりにも目立たないので、言われなければ気づかないほどだった。さっき一度通った道だったが、おれなど脇道があることにさえ気がつかなかった。
 他に車はなかったが、おれは律儀にウィンカーを出して脇道に入った。舗装されてない小道を少し奥へ行くと、すぐに幅が広くなった。真ん中が樹木で分離され、片方が入り口専用、もう片方が出口専用の一方通行になっていた。真っすぐホテルに入る以外、どこに行くこともできない道だった。
 ちょうど入れ違いに一台の車が出てきた。少し警戒したが、分離帯となっている木のおかげでお互いに相手に見られずに済んだ。おれもフランキーも、男二人でホテルに入るところをわざわざ見られたくはなかった。仕事の性質上からいっても、その方が都合がよかった。
 まもなく、開かれた空間に出た。
 森の中に突如小さな集落が現れた。コテージがいくつも点在していて、車のままぐるりと周回することができた。それがホテルだった。敷地内には小川が流れていて、水車まであり、植物も豊富だった。コテージ自体も花やら蔓やらで彩られていた。小さな看板からはとても予想できない規模で、そこは道を抜ければ別世界という体のテーマパークじみたホテルだった。
 各コテージには車庫がついていて、分厚いカーテンを締めれば車ごと隠れることができた。おれたちには最も助かる形式だった。カーテンには植物が描かれていて、全体のトーンを崩さないようになっていた。
 おれたちは奥まったところにある一室に決め、前向きで車を入れた。その方が、出るときにも入るときにも顔を見られにくいからだ。せっかちなフランキーがまたしてもおれがエンジンを切るより前に車を降り、カーテンを締めに行った。おれはキーを抜いて上着のポケットに入れた。早く一息つきたかった。
 コテージに上がりこんで弁当を食べてしまうと、もうやることはなかった。部屋の中も表に合わせていくらか凝った作りになっていたが、所詮ラブホテルだ。ここでやることがある連中は飽きるも何もないかもしれないが、おれとフランキーには何もないのだ。
 あとはテレビを垂れ流しておくしかなかった。おれはソファに埋もれて、フランキーはベッドに横になって。
 リモコンはフランキーが持っていた。チャンネルを何巡しても面白い番組は見つからなかった。せめてゲームがあればと思った。対戦型ゲームは仲間割れのもとだが、RPGをやって夜を明かしたっていい。何なら恋愛シミュレーションでもかまわない。
 だが、ここには何もなかった。テレビを垂れ流したまま、おれたちはただぼけっとするしかできなかった。チャンネルはなぜかアダルト番組に合っていた。ただし音量は抑えてあって、女のあえぎ声が高まったときだけ聞き取れるような具合だ。
 おれは、あえぎ声につられるようにして、ときどき画面に目をやった。出演している黒ギャルにまったく魅力を感じなかった。こんな女でも十分だと思うときもあるが、これでも仕事中だという意識があるせいか、おれの中のもう一人のおれはこれといった反応を示さなかった。
 こいつは発見だ。そんな節度があったとはな、おれの中のもう一人のおれに。
「なぁ」
 アダルト番組を見ていたフランキーが、姿勢を正してこちらを見る。
「どうだ?」とおれに言う。
 どうだとは、つまり、そういうことだ。誘いかけているんだ。
 おれは、最初から気づいていたようにも思うフランキーの企みを、このときになってようやくはっきりと知った。
「よせよ」おれは眉間にしわを寄せ、嫌悪感を露わにする。
 論外だった。
 まったく、全然、そんなつもりはなかった。ありえないことだった。
 くそっ、よしてくれ。
「だよな。いいんだ」
 フランキーはあっさりと引き下がって、またベッドに寝転がった。
 まったく、お前はいけない奴だな、フランキー。そんな欲望を隠し持っていたなんて。どうりで、野郎だけでこういうところを利用することもあるなんて知ってるはずだ。奴自身、利用したことがあるんだ。
 言われてみれば、確かにフランキーって名前は男にも女にも使うな。あんたがそういうときにどんな役回りを演じるのか知らないが。まぁ、ここはおれに先見の明があったとしておこう。
 とはいえ、えらくあっさり引き下がったもんだな、フランキー。明日の仕事に差し障りがないように、体力を温存しておくために、ってわけでもないだろうに。
 おれはうまいこと連れ込まれたのかもしれない。口車に乗せられて。こいつは、そんなことばっかり考えてたから、あの小さな看板も見逃さなかったんじゃないか?
 おれは警戒する。奴は引き下がったふりをしてるだけかもしれない。寝込みを襲われるなんてこともありえる。おれのあしらい方が邪険すぎて、フランキーの哀れな、さ迷える魂に火がついて、何が何でもやってやるって暴挙に出ないとも限らない。
 そんなことになったら、おれがブタのケツ野郎になっちまう。おっかねえ。
 おれはフランキーの様子を盗み見る。フランキーは頭の後ろで手を組んで、あらぬ方を見ている。わざとらしくはないか。よく見ろ。そうでもないか。どうだろうな。
 まぁ大丈夫そうか。
 やれやれ、冗談じゃない。
 奴がまた変な気を起こさないように、チャンネルも変えておくか、何気ないふりで。
 幸い、リモコンはベッドの隅に投げ出されている。
 他で面白い番組がはじまってないか確かめるふりをして、ニュース番組か何かに合わせよう。おれは社会情勢とかそういったものに興味があるんだから。それに天気予報。あの、何回見てもわくわくするやつ。
 おれはうまいことリモコンを手にして、チャンネルをあちこち変えた。
 そのとき不意に。
「みつやすくんはどうかな」フランキーが言った。
 おれはフランキーを見た。
 フランキーはおれを見てなかったが、おれが奴を見たので、それに合わせて奴もこっちを見た。おれはフランキーの言ってる意味が分からなかったが、奴がおれを見るその目を見て、言った意味が分かったような気がした。
「どう思う?」
 どうもこうもあるか。
 みつやすくんとどうするって?
 お前は、あのお荷物と、アレをしたいと言ってるのか?
 おれは理解した。分かったぞ。そうか、そっちがお前の本当の狙いだな、フランキー。だからさっきはあっさり引き下がったのか、フランキー。一度でいいから死体とやってみたかったってことか、フランキー。
 おいおい、フランキー。
 フランキー、フランキー、フランキー。おれは頭の中で歌うように言った。
 なんていけない子なんだ、お前は。
 見境がないんだな。
 おれの鼻から、気の抜けたような笑い混じりの息がふっと洩れた。おれはこう言った。
「いいんじゃないか」
 フランキーはすかさず身を乗り出して言った。
「みみ、見ててくれるかっ!」
 おれは思わず後ずさった。
 待てよ。落ち着けって。見ててくれるかとは、なんだ。おれに見てろっていうのか? お前とみつやすくんがいたしてるのを?
 おいおい、勝手にしてくれという形で許可が下りたからって、何を調子に乗ってるんだ、フランキー。そんなに息せき切るみたいにして。言葉をつっかえさせて。ウケる奴だなお前は。
 おれの鼻から、気の抜けたような笑い混じりの息がふっと洩れた。おれはこう言った。
「まぁいいんじゃないか」
 それでおれは、フランキーとみつやすくんがするのを、いや、フランキーがみつやすくんにするのを、もしくは、みつやすくんがフランキーにされるのを、見ていることになった。見られてると分かるのは二人のうち一人だけ、という状況の中で。
 だが、分かってる方の奴は、見られてると興奮するんだ。
 きっとそうだ。
 フランキーはいそいそと表に出ると、まもなく戻ってきておれに手伝ってほしいと言った。みつやすくんに触るのは気が進まなかったが、いいんじゃないかなどと言ってしまった手前、断るわけにもいかなかった。
 これからケツの穴を犯されることになる奴を、これから犯そうとしている奴と一緒に運ぶときの気持ちを説明するのは、何とも難しい。こいつは変な状況だぜ。これから犯される奴が、もう何が起きたところで何も分からない状態になってしまっているということを加味すると、さらにだ。
 表に出ると、みつやすくんはトランクから出されて地べたに仰向けに転がっていた。フランキー一人でそこまではやったらしい。
 フランキーが頭の方から両脇に手を差し込み、おれは言われるままに両足を持った。そのとき「あっ」と気がついた。おれは手を放し、上をきょろきょろ見た。
「何?」フランキーが声を潜めて言う。
 教えてやるまでもなく奴もすぐに気づいた。カメラだ。フランキーも慌てて上方の隅を見回す。厚いカーテンで仕切られた車庫の内側には、カメラは設置されていなかった。コテージの玄関口にも。どこにも。
 おれは安堵する。正直、ちょっとひやっとした。
 カメラは、あるとすればこの仕切りの外だろう。
「そうか」
 フランキーは胸を撫で下ろしたように言う。自分のうかつさを認めたかどうか、微妙なところだ。お前の忌むべき、後ろ暗い楽しみのために、ゲームオーバーになるところだったんだぞ。おれは黙って咎める。
 みつやすくんは完全に裸だった。だいぶ冷たくなっていたが、まだ柔らかさが残っていた。おれが両足を持つと、股の間に縮こまった粗チンが垂れ下がっているのが見えた。でかいわけでもない、小さいわけでもない、普通サイズの代物だ。
 見た目には、死んでいるのか、寝ているだけなのか、いまいち区別がつかなかった。よっぽどうまい殺され方をしたんだろうか。毒か何かで。
 おれは人間の死体のことなんてほとんど何も知らなかった。死ねば、やがて冷たくなり、硬くなる。もっと長い目で見れば、肉が朽ち、やがて骨と化す。焼かれるのでなければ、そういう風になるらしい。それ以上、おれに死体のことなんか分かるはずがなかった。フランキーにだってだ。
 分からない、だからやってみたい。そういうことなのか、奴にしてみれば。
 まったく、筋が通ってるんだか通ってないんだか分からないが、とにかくフランキーには気持ちだけはあるんだ。哀れな、さ迷える魂に宿った、暗黒の欲望。
 さぁ、クレイジー・フランキー、当たって砕けるお前を見せてくれ。
 おれとフランキーはみつやすくんをベッドに寝かせた。単に、置いた、と言うべきか。まぁどっちでもいいさ。
 フランキーはあっという間に裸になった。部屋が少し暗くなったと思ったら、裸になった奴が壁面のパネルで明度を調節していた。腰にタオルも巻かず、こちらにケツを向けて。
 フランキーの裸については、あまりいいコメントはできそうにない。待望されているかもしれないが、妙な興味を持った連中に。だが、ジャンクフードとスナック菓子ばかり食べて、炭酸飲料をがばがば飲んでる奴の裸をいったいどう美化できる? たるんだ中年の肉体がそこにあるだけだ。
それでもフランキーの準備はすっかり整っている。おれの言ってる意味、分かるよな。メイクラブの準備ができているということが、奴がこちらを向いた途端目に入ったってことだ。へそよりもう少し下のところのやつが。
「こういうの、あれだろ、ネクロなんとか」おれは奴の一物を視界から外して言った。
「ネクロフィリア」フランキーはすばやく反応した。
「知ってるねぇ」おれは感心して言った。
 お喋りもそこそこに、フランキーは取りかかった。
 おれはベッドの端に遠慮がちに腰を下ろし、成り行きを見守った。まぁやることはだいたい同じだよ。生きていて、性別が女のやつを相手にするときと。
 フランキーは時間をかけて楽しむ。またとないチャンスをゲットしたんだからな。問題なのは、それをどこに突っ込むかだ。奴の獰猛なアナコンダを。
 まぁ、答えは一つなんだろう、フランキーがとうとうみつやすくんをうつ伏せにひっくり返したところをみると。
 みつやすくんの背中には痣のようなものがいくつかあった。殴られてできたものじゃない。死斑ってやつだ。死んでるから、できるんだ。フランキーにとってはそれも問題にならないようだった。奴は相手が死んでることを歓迎してるんだから。
 突っ込むべきか、突っ込まないべきか、それが問題だ。
 コーモン様に。
 開けゴマッ、開けゴマッ、開けゴマッ。
 クレイジー・フランキーはあれこれ手を尽くしてがんばるが、コーモン様は関所を十分に開いてくれない。
 おれはフランキーを見る。
 焦ってはいないようだ。
 というのも、奴はまだ奥の手を隠していたからだ。
 どこで、いつの間に手に入れたのか、フランキーはローションを取り出した。奴の必殺の印籠。関所を通してもらうには、これがなきゃね。
 そんなものが用意されていたとは、ちっとも気がつかなかった。全然目に入ってなかった、その印籠が。夢中になってたからじゃないのかなんて勘繰らないでくれ。もともと、おれはちょっとぼけっとしたところのある奴なんだから。
 フランキーは印籠を使った。
 奴のアナコンダが押し入ろうとしている米印に、そのねっとりした蜜液を垂らした。
 大匙一杯。
 もっと要るんじゃないかと思っていると、フランキーはローションの入ったボトルをおれにずいと突きつけた。
「頼む」フランキーは米印から目を逸らさないまま言う。
 おれは、その印籠が目に入ってしまったので、頼まれるままに引き受けてしまった。どうすればいいのか、教えてくれなくても分かった。手を貸してやるよ。
 おれは口を米印の真上辺りに持っていって、ボトルの腹をゆっくり押した。ローションがぬもっと溢れ出た。
 それが目標地点に垂れ落ちるまでの、スローモーション。
 蜜液は、米印とフランキーのアナコンダの両方をたっぷり濡らした。フランキーは自分の暴れん棒将軍に手を添えて、腰を回すようにしながら、ローションを米印の周辺に塗りたくる。
「ぉう」
 フランキーが気分たっぷりにうめく。
 どうだ、地獄門は開いたか? 地獄門はお前を迎え入れたか?
 どれどれ。見てみよう。
 まだのようだ。
「全体に」フランキーが手の平でみつやすくんの背中全体を撫でるようにして言う。
 おれはみつやすくんの尻に、背中に、ローションを垂らしていく。おいしいハチミツをたっぷりかけて、さぁ召し上がれ。
 おれが垂らしたそばから、フランキーが手で伸ばしていく。フランキーはみつやすくんの背中に覆いかぶさるようにして、ぬめった肌に密着する。ねぷっ、にちゃ。他所じゃなかなか聞けない音がする。奴は手を差し入れて、胸や腹も撫でまわす。
 ねぷっ、にちゃ。ねぷっ、にちゃ。
 ねぷっ、にちゃ。ねぷっ、にちゃ。
 今、実現不可能に思えたフランキーの夢が、かなっている。さっきからずっと、みつやすくんはされるがままだ。
 見てみよう。
 間違いない、ただの屍のようだ。
 なんだよ、けっこう楽しいじゃないか。
 気がついたんだが、これは参加者が三人いるという、例のパターンじゃないのか。そのうちの一人は死んでて、一人は基本見てるだけという、ちょっとイレギュラーな形ではあるが。そして、三人とも性別は男だが。
 こりゃ相当キテる状況だな。
 まったく、おれたちときたら、なんて罰当たりで悲惨な連中なんだ。救いようがなくて、泣けてくる。思わず同情を誘わずにはいられないはずだ。
 だからって、こんなところを見つかったら一生の恥だけどな。
 だが、一つ問題を出してやろう。
 難しいぞ。
 問題。この中で、おっ立っているのは何人でしょう?
 さぁ考えて。
 ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ。
 ここで時間切れ。
 正解は、二人です。
 どの二人かって? それはおれには言えないな。嫌われたくないから。おれはみんなから「あんたはOKだ」って言われたいから。「あんたの番組はいつも見てる、面白い奴だよな、あんたって」って言われたいから。おれは番組なんかやっちゃいないが。
 おれに言えるのは、こんな経験をして心に傷を負ってしまいそうだということくらいだ。
 悪夢だよ、けっこう楽しいが。
「ひゃっ」
 突然、フランキーが竦みあがったみたいにして言うと、みつやすくんから離れた。
 おれもびっくりして思わず身を引いた。
「動いた」とフランキー。
 おれは眉間にしわを寄せた。動いた? そんなわけがないだろう。みつやすくんが動く? フランキー、お前はそれほどバカテクか? 気持ちよすぎて、死者も思わず地獄の淵から蘇るって?
 だが、フランキーは本気だ。奴のビッグガンは、純情無垢な白ウサギさえ仕留められないほど軟弱なぶよぶよ肉に変化していった。それを見て、おれはやつがウソを言ってるわけではないと感じた。パーティーはお開きなのか?
「動いたぞ」
 フランキーは、さっきまで身体を擦りつけていた相手のことを、手で曖昧に示した。まるで、動いたことが罪であるみたいに。
 フランキーはこう言ってるが、どうなんだ、みつやすくん。おれは黙って見下ろした。みつやすくんは、ローションで背中と尻をぬるぬるにして、じっとうつ伏せになっていた。
 返事がない、ただの屍のようだ。
「ひっくり返してみろ」
 フランキーは自説を曲げようとしなかった。その上、その証明をおれに手伝わせようというのだった。
 まぁいいさ。
 おれはみつやすくんを仰向けにひっくり返す。
 みつやすくんはされるがままだ。
 死んでるからだ。
 これで満足か、フランキー?
「何だこれは!」フランキーが岡本太郎のように言った。
 おれはフランキーの視線を追った。
 何だこれは!
 おれは見た。みつやすくんが、おっ立っていた。
 威風堂々、凛々と屹立している。
 ウケてしまうが、さっき言った正解を訂正しないと。正解は、三人だ。いや、だが、今やフランキーはおっ立っていない。おれの方はといえば、何とも言えない、としておこう。どちらとも言えない、と。そうすると、現状ではおっ立ってるのは一人とも言える。細かいことにこだわらないで、時間のズレなんか気にしないで、みんなで仲良くおっ立ったってことにしていいだろうか。
 それは大雑把すぎるかもしれない。都合よくまとめすぎかもしれない。惜しかったな、みんなで仲良く同時におっ立ってれば、ハッピーエンドになったのに。
 おや? 何か聞こえないか? 何かくぐもったような音がする、どこか、すぐ近くから。
 おれはフランキーを見る。奴にも聞こえたらしい。
 おれたちは耳を澄ます。
 空気が張り詰める。
 確かに何か聞こえた。
 ……んごごごごごご。
 おれとフランキーはみつやすくんを見た。音の出所は、みつやすくんの鼻だ。あるいは喉の奥。一種の、鼾のような音。
 おれとフランキーは互いを見合わせる。これは、呼吸音なんじゃないのか。こいつ、呼吸をしてるんじゃないのか。するか? 死んでる奴が、呼吸を。
「何もしてないぞ」
 フランキーがあわてて否認する。浮気の現場を見つかった奴は、みんなそう言うらしいな、この期に及んで。
 お前は何かはしたさ、フランキー。そのせいで白雪姫がお目覚めだ。
「どこ刺激したんだよ」おれは面白くなって言う。
「ど、どこも」
 フランキーは言い訳がましい。地獄門の奥の、秘密のスイッチをつついたんじゃないのか、お前の赤紫亀で。
 ……んごごごごごご。
 まただ。
 おれとフランキーは、まるで生まれたての赤ん坊を見守る両親のように、みつやすくんの顔を覗き込んだ。しかし、素っ裸で、背中はぬるぬる、尻の穴はむずむずっていうんじゃ、とてもいい目覚めとは言えないだろう。しかも、目を開けてみたら、そこにいるのはおれとフランキーだ。ショックでまた死んでもおかしくない。
「みつやすくん」フランキーが声をかける。
 何が、みつやすくん、だ。お前、ノリやすい奴だな。
 じっと様子を伺っていると、また、……んごごごごごご、とくぐもったような小さな音がみつやすくんの喉の奥で鳴った。
 こいつ、本当に蘇生したとでもいうのか。だが、それでどうなる? おれとフランキーはどうしたらいい?
「おい」
 おれはフランキーに促されてみつやすくんの下半身を見る。屹立した一物が、萎んでいく。おれは、何となく、切ない気持ちになる。多分、フランキーも。
 束の間の夢よ、さらば。
 それは完璧に縮こまる。もう二度と起き上がることはなさそうに見える。
 それでも例の呼吸音は収まらない。
 おれとフランキーは気を揉んだ。単に、何らかの自然現象で、こういう音がしてるだけかもしれない。そう思って、みつやすくんの胸に耳を当てて心音を確かめる。心臓は動いていない。まぶたを押し開いて、瞳孔も確かめてみる。もはや何も映さなくなったガラス玉としか思えない。
「脳死とかってのもあるからな」とフランキー。
 だからって肝心の心臓が停まってたら、他のどの器官も活動することなど不可能だ。
 死んでいるのか?
 生きているのか?
 死んでいたのに、生き返ったのか?
 大部分は死んで、一部分だけ生きているのか?
「ま、死んでるようなもんだな」
 そうとも、フランキー。だが、死んでるようなもんってのと、本当に完全に死んでるのとじゃ、えらい違いだぞ。
「さっきは絶対死んでた」
 おれはとやかく言うつもりはなかった。ただ、この状況をどう理解したらいいか分からなかった。しばらく放っておけばこの音もやむだろうと思って、おれたちはみつやすくんから離れて様子を見ることにした。もちろん、フランキーは服を着て。
 やまない。
 やみそうにない。
 何十秒も無音状態が続いて、いよいよ止まったかな、と思うと。
 ……んごごごごごご。
 くそっ、中途半端な奴。
 このままいつまでとも知れず待ってるわけにはいかなかった。時間は有限だ。おれたちに与えられた時間はそう多くない。むしろ少ないと言っていい。おれたちは決断しなければならなかった。
「やるか」ついにフランキーが口を開く。
「それしかないと思う」おれが同意する。
 詳しく言わなくても何をやるかは分かっていた、おれたちは相棒だから。
 みつやすくんの、止めを刺す。
 文字通り、息の根を止める。
 それが今やるべきことだ。このまま朝まで放っておいて、もし本格的に生き返りでもしたら、今よりずっと厄介になる。今ここで止めを刺すしかない。これはおれとフランキーが引き受けた仕事なんだから。
 おれとフランキーは立ち上がる。みつやすくんのそばに集まる。目を見て、お互いの覚悟のほどを読み取る。
「これは人殺しか?」
 おれはちょっとばかり気になっていたことを口に出す。
「こいつは死んでた」フランキーが真面目な顔で解説する。「おれたちは息の根を止めてやるだけだ」
 おれはあいまいにうなずく。その理屈は「一物は挿入する、だけどこれはセックスじゃない」って言ってるみたいなもんじゃないかと思いながら。
 フランキーは、さっきの肉弾戦でベッドの隅に押しやられていた枕を手に取る。奴が自ら手を下してくれるらしい。おれとしても、そうしてくれると助かった。こうなったのもフランキーのせいみたいなもんなんだから。
 みつやすくんは、ベッドの上で仰向けになって、忘れた頃に、……んごごごごごご、とかすかな音を立てている、寝息のような。
 フランキーは、ベッドの上に乗りあがって、みつやすくんの脇に膝立ちになる。それから、思い直してみつやすくんの胸の上をまたぐ体勢になる。
 張り詰めた空気の中で行われる、一連の動作。
 おれはじっと成り行きを見守る。
 フランキーは、みつやすくんの口と鼻を塞ぐように枕を押し当てると、体重を乗せてぐっと押さえつける。
 フランキーがぐーっといくと、おれの全身の毛が逆立つ。否応なく。
 手足をだらりと投げ出してまったく抵抗しないみつやすくんに、フランキーが馬乗りになって顔に枕を押し当てている。
 おれはその非情な光景を見ている。
 指先が震える。
 身体に力が入らない。
 いきなり、フランキーが涙ぐむ。片手を離して目を覆うようにしたかと思うと、もう片方の手も離してしまう。そして、よろけるようにして、みつやすくんの上からどく。枕がみつやすくんの顔の上に残される。
 フランキーはみつやすくんに背を向けて、ベッドの端にうずくまるようにして座る。
「なんだよ」おれは不服を申し立てる。
 フランキーはベソをかく。
 泣いてちゃ分からないぞ、フランキー。
 しかし、奴はみつやすくんをまともに見ることもできないらしい。指の間からみつやすくんをちらっと振り返り、顔に枕が乗ったままになってるのを見てまた泣く。確かに、今のみつやすくんは、哀れみをもよおす格好になっているが。
「大丈夫か」おれはちょっとだけ優しいトーンになる。
 フランキーは泣きながら首を振る。
 こいつ。
 フランキーが何か言おうとする。もう一度みつやすくんを振り返る。
「さっき、おれたちは……」
 そこから先は言葉にならないらしい。
 だが、おれには言いたいことは分かった。「おれたち」というのは、フランキーとみつやすくんのことだ。その二人がさっきどうしたか。一発やってたのさ。「一度は寝た相手だからできない、そんなことができるもんか、おれはそんなひどい男じゃない、みつやすくんがかわいそうだ」そう言いたいんだな、フランキー。
 くそっ、張り倒すぞ。
 ……んごごごごごご。
 枕の下で、みつやすくんがまた音を立てる。まだ呼吸をしている、何か呼吸のようなものを。おれは、自分の中で何かが冷たく張り詰めるのを感じる。
「おれがやる」
 フランキーが涙を滲ませた目でおれを見る。それからみつやすくんを見る。みつやすくんから目を逸らす。もう一度おれを見る。おれからも目を逸らす。そうするより仕方ないと了解したのだ。
一思いにやってやる。言ってみれば、これは手助けみたいなもんなんだから。やるんだという声がおれには聞こえるから。どうせ生きていたっていいことなんか何もないんだから。
 おれはベッドに乗る。
 仰向けのみつやすくんをまたいで、膝をつく。
「待ってくれ」フランキーがかすれた声で言う。
「何だよ」おれは中断されてやや機嫌を損ねる。
 フランキーはおれをいったんみつやすくんの上からどかせる。それから顔に乗った枕をどける。そしてみつやすくんを覗き込む、真顔で。
「何か、言い残すことはないか」
 おれは黙って突っ立っていた。
 返事がない、ただの屍のようだ。
 フランキーは気が済んだらしく、おれに枕を渡す。おれは改めてみつやすくんをまたぎ、顔に枕を当てて、鼻と口を塞ぐようにして押さえる。それからぐーっと体重をかける。
 息の根を止めてやる。
 今度こそ完全に。
 おれは、たっぷり二十秒もそのままの姿勢でいる。
 そこからさらに一分。一分半。二分にも達して。
「おい」
 フランキーが声をかけるのが聞こえる。まだだ。おれは濃密な時間の中でゆっくり十秒数える。
「もういいだろ」
 フランキーが耐え切れなくなったように言う。
 おれはもう十分だという声を聞いたように思う。おれはみつやすくんから離れ、ベッドを降りる。そしてソファに座り込む。
 おれとフランキーはしばらく待つ。
 例の音は、もう聞こえない。
 みつやすくんは沈黙の世界に帰っていった。
 おれとフランキーはしばらくじっとしている。本来の仕事の前に、もう一つ余計な仕事を済ませたみたいな気分で。疲労困憊で。
「戻した方がいい」おれが口を開く。
 おれとフランキーは今夜ここで眠る。同じ部屋にみつやすくんがいるのは、いい考えとは思えない。完全に死んだみつやすくんがいるのは。
「そうだな」フランキーが同意する。
 さらにもうひと仕事だ。おれとフランキーはみつやすくんを担いで表に出る。冷えた空気が心地いい。おれは深く息を吸い込む。見上げると、空はすっかり晴れ渡り、星が出ている。
 部屋に戻ると、おれもフランキーも本当に疲れきってしまう。
 長い一日だった。
 色々あった。本当に大変だった。
 おれはベッドに身を投げ出す。フランキーもゆっくりとベッドに倒れかかる。空いている部分に。ベッドはデカいから、二人寝るスペースは十分ある。真ん中に寝転がったおれは、少し動いてスペースを空けてやる。
 おれとフランキーは、互いに背を向けるようにして横になる。部屋は薄暗いまま、テレビは無音で映像を垂れ流している。まぶたがどうしようもなく重くなってきて、おれは目を閉じる。
 すぐあとに、うっすらと目を開く。何かに起こされたような気がして。
「ん?」おれは少し身をよじる。
「眠れない」とフランキー。
「ん」おれは不快げに言う。
「怖いんだ」
「あぁ」おれはもう眠くて奴の言うことがよく分からない。
「つないでもいいか」
「ん」
「手」
「んん」おれはよく分からないまま何かうめく。
「怖いんだ」
 おれは再び目を閉じる。まぶたがどうしようもなく重い。フランキーが手をつないできたらしい。おれの頭はぼうっとしている。何かがおれに寄り添ってきて、背中に温かさを感じる。その温もりが眠気を倍増させる。おれは少し気分がよくなったようになって、半分眠ったまま「んん」とうめく。温かさが、おれの身体を包む。
 少しずつ、気分がよくなっていく。
 少しずつ、少しずつ、気持ちがよくなっていく。
 とても気持ちがよくなっていく。
 そして、いつの間にか、眠りに落ちる。

いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。