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たやすい仕事 2/4


 何かされたような気がして、目が覚める。
 ベッドの上らしい。
「起きろよ」
 すでに着替えを済ませたフランキーが、からかうような表情でベッドの傍らに立っている。おれを起こそうとして指でつつくとか、何かいたずらをしたのかもしれない。
「時間だ」フランキーが優しく笑う。
 おれは何だか少しだけ甘ったるい気持ちになり、ベッドから起き上がる。軽い二日酔いみたいに頭がぼんやりする。それでいながら、新鮮ですっきりした気持ちでもある。おれは、清算しておくというフランキーに財布を渡し、バスルームに行く。
「大丈夫か」
 顔を洗ってるとフランキーが声をかけてくれる。
「あぁ」
 おれは、流れ出る水の音にかき消されないように声を大きくして答える。バスタオルで顔を拭き、鏡の中の自分に笑いかける。優しい感じで、さっきフランキーがして見せてくれたように。
 身支度を整えて、忘れ物がないか点検する。おれたちがここにいたことを示すようなものがあってはならない。最後に、シーツが乱れたままのベッドを一瞥する。何種類かの粘液がこびりついて、がびがびになったシーツ。それは特に証拠にはならないだろう。
 表に出ると、フランキーが車庫の厚いカーテンを開けてくれている。
 素晴らしい朝の光。快晴で、ちょうど正面に富士山が聳え立つのが見える。空気も澄んで、呼吸するだけで気分がよくなるほどだ。深く息を吸って、吐き出す。未だかつて、こんな気持ちのいい朝を迎えたことなんてなかったような気になる。
 フランキーが運転席に乗り込んだので、おれは助手席に回る。あちこちのポケットを探っているフランキーを見て少しおかしくなって、おれは自分の服の上着のポケットから車のキーを取り出す。
「そうだった」フランキーが苦笑いする。
 おれは黙って微笑み、シートベルトを締める。エンジンがかかると助手席の窓を開け、外気を感じながらもう一度深呼吸する。十分な休息を取ったあとのように、体に力がみなぎっているのを感じる。
「行くか」フランキーは車をバックで出す。
 流れる風景は昨日も見たはずのものだけど、おれには同じには見えない。何もかもが違って見える、何もかもが新しい、何もかもが活力に溢れている。まるで、世界が一変したかのように。
「近くにばあちゃんの家がある」フランキーが運転しながら言う。
 おれはフランキーの横顔を見る。
「三十分もかからないと思う」
「行くのか?」
「危篤なんだ。一人暮らしで親戚は誰も近寄らない」
 おれには言葉がない。
「かわいそうだよ」フランキーが言う。
 その通りだ。フランキーのおばあちゃんがかわいそうだ。そして、なんて優しい、おばあちゃん思いのフランキー。
「分かった」おばあちゃんに会いに行こう。
 だが、おれは何か変だと感じる。大切なことを忘れているような気がする。おれたちには、他にやらなきゃいけないことがあったような気がする。とても大事なことのはずだが、それが何なのか分からない、思い出せない。
「一緒に来てくれるなんて嬉しいよ」
 その言葉を聞いて、おれは胸がいっぱいになる。フランキーがそうしたいなら、おれもそうする。喜んでそうする。あるいは、すべてを投げ打ってでも。おれとフランキーは、運命を共有しているのだから。この広い世界で、おれたち二人だけで。
 道中、フランキーはおばあちゃんとの思い出を話してくれる。
 フランキーが子供の頃の、ドロシーおばあちゃんとの懐かしい思い出。おれは、ドロシーという名前に聞き覚えがある気がするが、どこで聞いたのかうまく思い出せない。
 フランキーが遊びに行くといつも焼いてくれた、硬くて噛めない、それでいて歯にくっつくクッキーのこと。真冬に、フランキーを裸同然の格好で家から締め出したこと。フランキーが学校で先生にほめられたことを話すと、何とも言えないイヤな顔をしたこと。フランキーに化粧をし、女の子の格好までさせて「醜い子だねぇ」と陰険に笑ったこと。
 おばあちゃんのクッキーを食べないでズボンのポケットに隠していたら、見つかってベルトで尻を打ちつけられたこと。そのときのベチッ、ベチッという音が、今も耳について離れないということ。
 フランキーは笑いながら話す。それで、おれもなんだかおかしいことのように思えて、一緒に笑う。フランキーが不意に黙り込む。それから唐突に言う。
「ぶっ殺してやればよかった」
 それを聞くと、おれもフランキーが本当にそうしていればよかったのに、と思いはじめる。だけど、同時にできないんだろうなと思う。ぶっ殺すなんて、そんなひどいことは。だからこそ、フランキーは今ここにいるのであり、おれと運命を共にしている。
 おれは、突然、フランキーのこれまでの人生がとてもつらいものだったのだと感じる。残酷で容赦のないものだったのだと。それなのに、フランキーがこんな素晴らしい人間に成長したなんて、奇跡としか言いようがない。
 車はいつしか人里離れた場所へ来ている。フランキーの話にじっと耳を傾けていたから、どの辺りなのか見当もつかない。そのとき、かけっぱなしにしていたラジオから古い曲が流れてくる。

 Must you dance every dance with the same fortunate man
 You have danced with him since the music began
 Won’t you change partners and dance with me

「聴いたことある」とフランキー。
 おれも知っている曲だ。歌詞の意味も分かっている。フランキーが知りたいかと思って、おれは曲名を教える。
「いい曲だな」

 Must you dance quite so close with your lips touching his face
 Can’t you see I’m longing to be in his place
 Won’t you change partners and dance with me

 おれが歌詞の内容や、作曲者、歌手について話そうとすると、フランキーは口の前で人差し指を立ててそれをさえぎる。純粋に音楽に耳を傾けているのだ。おれは恥じ入り、自分の間抜けな口を閉じる。
 おれとフランキーの間に音楽が流れる。音楽は、おれたちを満たし、包み込む。
 行く先に村が見えてくる。
 ドロシーおばあちゃんの村だ。
 村はひっそりと静まり返っている。中心となる道路の両側に、日用品店、床屋、食堂、クリーニング店、個人スーパー、郵便局、パン屋、スナックなど、昔ながらの店が点々と並んでいる。人は一人も見当たらない。店も、営業しているのかどうかいまいち判別できない。おれは、自分の居場所を割り出そうと周囲をぐるりと見渡す。高い杉の木に囲まれたその辺鄙な村からは、どの方角にも富士山は見えない。
 フランキーに聞いてみようと思うまもなく、車はある家の敷地に入っていく。ドロシーおばあちゃんの家だ。
 おばあちゃんの家は、平屋だが一人で暮らすには十分すぎるほど大きい。玄関も、縁側の窓も、トイレか何かの小窓も、目につくドアや窓はすべて開いている。
 おれは、なぜか家の中は空っぽで、誰もいないのではないかと感じる。しかし、すぐにそれが間違いだと分かる。おれたちが車を降りると同時に、中から人が出てくるからだ。白衣を着た男で、往診に来た医者らしい。続いて女性の看護師も出てくる。
 白衣の男は、おれとフランキーをいぶかしげに見る。
「身内のものです」フランキーが言う。
 白衣の男はじっとフランキーを見て、それからおれを見る。おれは黙っている。
「息子です」フランキーは言う。
 白衣の男はフランキーに視線を戻す。
 おれは孫じゃなかったと思うが、余計な口は挟まない。
 そうしている間、看護師は後ろに控えて成り行きを見守っている。切れ長の冷たい目をした女だ。
「容体はよくありません。私にできることはなさそうです」
 白衣の男はようやく口を開いたかと思うと、それだけ言って帰っていく。看護師もあとに続く。おれとフランキーは、二人の後姿を見送る。
「あとは死ぬだけか」フランキーが淡々と言う。
 おれは何とも答えようがない。
 家に上がると、ドロシーおばあちゃんは大広間の中央に敷かれた布団に寝かされている。そばには子盆に乗せられた水差しがある。
 二十畳もあろうかというその広い部屋は、隣の部屋との境になる襖も、縁側の廊下とを仕切る障子戸もすべて開け放たれている。隅に古めかしい箪笥が一つあり、座卓が床の間の柱に裏返しに立てかけられている。他にこれと言ったものはない、ほとんど何もないような部屋だ。
 フランキーはまっすぐ枕元には行かない。布団に寝ているおばあちゃんに視線を留めたまま、その周囲を歩く。右回りに。それから左回りに。また右回りに。居場所を決めかねるように、おばあちゃんとの距離を測りかねるように。
 その間、おれは隣部屋との境のところでじっと立ったまま、フランキーを見たり、おばあちゃんを見たりする。フランキーは、結局おばあちゃんから少し離れた場所で立ち止まり、しばらくそこに留まる。
 ドロシーおばあちゃんはじっと目を閉じている。フランキーが来たことに気づいたかどうかも分からない。何しろ医者も見離す危篤状態だから、いつ死んでもおかしくない。寝ているだけにも見えるが、すでに死んでいるようにも見える。奇跡は起こりそうにない。
 しかし、まだ死んではいない。おばあちゃんはときおり、弱々しく、苦しげに呼吸をする。
「何の病気?」おれは声を落として聞く。
 フランキーはおばあちゃんを見たまま答えない。もしかしたらそこまで知らないのかもしれない。ただ危篤だということを知っているだけで。
 何の病気か見当をつけられるかもしれないと思い、おれは布団にすり寄っておばあちゃんの顔を覗き込む。
 何も分かりはしない。
 だが、ちょっとした疑問を感じる。
 ドロシーおばあちゃんはそこまでの老人には見えないのだ。さっき、フランキーが医者に自分は息子だと言っていたこともあって、これがフランキーのおばあちゃんなのかどうか分からなくなる。本当は母親なのではないか。
 おれは単純に考えてみる。まず、フランキーがおれと同じ三十歳だと仮定する。次に、フランキーの親が二十歳のときにフランキーを産み、さらにそのまた親が二十歳のときにフランキーの親を生んだとする。そうするとおばあちゃんは七十歳ということになる。
 この臨終間際の人物はとてもそれほどの年齢に達しているとは思えない。四十代と聞いても驚かないくらいだ。やはり、この人物はフランキーの母親なのではないか。だとしたらなぜ、フランキーはおばあちゃんだなどと言ったのか。
 おれはドロシーおばあちゃんの寝顔をよく見る。フランキーには似ていない。似ても似つかない。顔の形が違うし、目鼻立ちにも共通するものが感じられない。どこにも血のつながりが感じられない。あるいは、肉親でさえないのではないか。
 だんだんと、色々なことが怪しくなってくる。
 だけど、おれにはフランキーがウソをついているようには思えない。現に迷うことなくこの家まで来たし、勝手知ったる様子で上がりこんでいる。だから、問い詰めようなんて思わない。そんなことはしたくない。
「誰でも死ぬんだ」
 フランキーが予言めいた口調で言う。
 おれはフランキーを見る。冷酷な言葉だが、おばあちゃんを見捨てる気でいるわけじゃないことは分かる。表情を見れば、ドロシーおばあちゃんが今まさに死のうとしているこの事態を、彼なりに受け入れようと必死なのが分かる。
 それでおれは思う。この人物が何者であれ、フランキーにとって大事な人であることに変わりはないと。血のつながりがどうとか、どうでもいいことだ。
 おれはつまらないことで疑った自分を恥じる。深く恥じ入る。ひどい奴だと思う。できるものなら、彼が感じているつらさを分け合いたい。そう思って胸が苦しくなる。
 フランキーのためなら、何でもしてやりたい。何でも言ってくれ、フランキー。どんなことでもするから。
 フランキーはようやくドロシーおばあちゃんの枕元に座り込む。手を伸ばしておばあちゃんの顔にそっと触れる。指の背で慈しむように頬を撫でる。
 おれはこんな美しい光景を見たことがない。
 そのまましばらく時間が流れる。何もかも静止したようになったまま、影の向きが変わるくらいの時間が過ぎる。そんな気がする。
 やがて、ドロシーおばあちゃんが目を覚ます。そもそも眠っていたのかどうかも分からないが、ともかく目を開く。おばあちゃんは、自分がどこにいるのか分かってないように見える。自分が生きているのか、死んでいるのかさえ分かっていないように。
 おばあちゃんは、虚空に視線をさ迷わせて、もしかしたらすでに目が見えなくなっているのかもしれないとおれたちを不安にさせたあと、おばあちゃんを覗き込むようにしていたフランキーの顔に焦点を合わせる。
 フランキーは、水差しに手を伸ばし、おばあちゃんの口に含ませようとする。おばあちゃんは嫌悪をあらわにして顔を背ける。
「いらない?」
 フランキーが水差しを引っ込めると、おばあちゃんはもう一度彼を見て顔を歪める。「お前なんか知らない」と言っているみたいな顔だ。
 それも当惑には及ばない。ドロシーおばあちゃんは死に瀕していて、すでに理性的な判断ができなくなっているんだから。現実と記憶が混ざり合って、その目に何が見えているのか誰にも分からないんだから。
 ドロシーおばあちゃんは苦しげにうめく。わずかに首を左右に振る。
「何?」
 おばあちゃんが何か言いたそうにするので、フランキーは口許に耳を寄せる。だが、おばあちゃんは口をもごもごさせるばかりで、言葉を発することができない。
 おれとフランキーは待つ。
 再び静止したような時間がやってくる。
 ドロシーおばあちゃんがまたしても苦しげにうめく。わずかに首を振り、口をもごもごさせて何か訴えようとする。フランキーは再び耳を寄せて聞き取ろうとする。しかし、言葉は発されない。
 そして、また静止したような時間が戻ってくる。
 二度か三度、同じようなことを繰り返す。
 ゆっくり、確実に、死は迫ってくる。しかし、まるでゼノンの逆説のように、いつまで経ってもそこに到達することはなさそうに見える。時間も空間も間延びして、あちらから近づいてくるのか、こちらから近づいていくのかも分からなくなる。
「何か言いたいことがあるの?」フランキーが言う。
 ドロシーおばあちゃんの目が、急に生気を帯びたようになる。それまでとは違った反応に、おれとフランキーははっとする。
 おばあちゃんが口をもごもごさせる。フランキーは慌てて耳を近寄せる。おばあちゃんが何かを言う。今度こそ、何か言葉の形になったものを発する。
「パン?」
 フランキーは耳を離しておばあちゃんの目を見る。
「パン?」
 フランキーが確かめると、おばあちゃんはうなずく。
「パンが食べたいの?」
 おばあちゃんはうなずいたように見える。あるいは、うなずいてはいないようにも。
「分かった」
 フランキーはおれを見る。おれはフランキーが何を言おうとしているか直感で分かる。
「買ってきてくれ」
 おれは黙ってうなずき、急いで部屋を出る。
 パン屋の場所は分かっている。おれは村の中心となる通りに出ると、来た道を戻って走る。ドロシーおばあちゃんの最後の望みを叶えるため。フランキーがそれを願っているから。
 パン屋は郵便局の隣に見つかる。ガラスのドアにOPENと書かれた札がぶら下がっている。おれは勢いのまま店に入る。
 何種類ものパンが壁沿いにぐるりと並べられている。おれはその真ん中で息を切らす。奥で誰かが作業している気配がする。
「パン、パンをください」
 おれは助けを求めるように呼びかける。こうしているうちにもドロシーおばあちゃんは息絶えてしまうかもしれないのだ。そんなことになったら、フランキーがどれだけ悲しむか分からない。そんなことになったら、おれも一生後悔することになるだろう。
 奥から出てきたパン屋を見て、おれは一瞬奇妙な感覚にとらわれる。すぐに一体何がおかしいのか分かり、思わず息を呑む。
 パン屋は、カウンターの上に頭がちょっと出るくらいの背丈で、子供そのものの身体つきをしている。それなのに顔だけは大人なのだ。くたびれて、やさぐれた感じの、こすからい目をした大人の男なのだ。まるで、ある子供の首から上だけを大人のものにすげ替えたような、首から上とその下とがひとつながりになっていないような奴なのだ。
「どんな」パン屋はかったるそうに言う。
 おれはパン屋に疎ましげに見られて戸惑い、店内に並ぶパンに目を走らせる。
「パンを」
「だから、どんな」パン屋はため息をつく。
 おれはうまく答えられない。ドロシーおばあちゃんの最後の食事として、どんな種類のパンがふさわしいのか分からない。好きなパンや、心に決めているパンがあるかもしれない。おれが勝手に決めていいようには思えない。パンのことなど何も知らないのだ。おれはしっかり確認してから来るべきだったと後悔する。
「うちにあるのはみんなパンだ」パン屋はまるで己の商売を嫌悪するかのように言う。
「おばあちゃんに」おれはすがるように言う。
「あ?」パン屋はにらみを利かせる。
「おばあちゃんに、食べてもらいたくて」
 パン屋はおれをじっと見据える。小さい体のわりに、威圧感がある。おれは居たたまれない気持ちになる。
「最後の食事なんです」おれは自分が何を言っているのか分からないまま言う。
 店内に気まずい沈黙が流れる。
「はっ」パン屋は短く鋭い笑いで沈黙を破る。
 そして、「いいのがある」と言っていったん奥に引っ込む。
 おれは、首から下が子供そのもののパン屋の後姿を見て、はっとする。どこかで見たことがあるような気がする。顔ははっきり見なかったかもしれないが、確かにごく最近どこかで見たような気がする。もしかしたらパンに関連して。
 もう少しで思い出しそうになるが、おれは記憶をうまく引き出せない。
 パン屋が再び出てくる。その顔は不敵に笑っている。
 カウンターの上にパンが放りあげるようにして置かれる。かなり大きい。カウンターを占領してしまうほどに。あまりに大きいので、それがパンなのかどうか一瞬分からないくらいだ。焼けた生地の色合いや、円形で中央が膨らんだ丸みを帯びた形から、パンらしいとようやく分かる。
「こいつがいい」
 声だけが聞こえる。巨大なパンに隠れてパン屋の姿が見えないのだ。
 おれはどう答えていいか分からない。本当にこのパンで大丈夫なのか、ドロシーおばあちゃんが最後に口にするのにふさわしいのか、確信が持てない。
 パン屋がパンの脇からひょいと顔を出す。
「最後と言えばこれしかない」パン屋は不気味な笑いを見せる。
「本当に?」おれは半信半疑で問う。
「保証する」パン屋は断言する。
 おれはだんだんその気になる。このパンならフランキーも喜んでくれるに違いない。
「やり方は分かるか?」
「え?」
「こいつを食わせようと思ったら、口に押し込んでやらなきゃダメだ」
「押し込む」
「押し倒して馬乗りになれ」パン屋は冷酷な目つきで畳みかける。「有無を言わせるな。口を開けさせろ。顔を押さえつけろ。ちゃんと食い終わるまで絶対に離すな」
 おれは気圧される。ドロシーおばあちゃんに食べさせるときのことを思いながら、緊張してうなずく。
「一五〇〇円」パン屋が言う。
 当然パンは買わなければならない。おれは慌てて財布を探る。持ち合わせがあるか心配になるが、ちょうどぴったりの金額を持っている。
「袋はない。その大きさだから」パン屋はレジに金をしまいながら素っ気なく言う。
 おれはうなずき、パンを裸のまま脇に抱えて店を出る。
 またしても村を駆け抜ける。通りには誰もいない。間に合ってほしいと願いながら、まっすぐドロシーおばあちゃんの家に戻る。せっかく申し分のないパンを手に入れたのに、手遅れになってしまっては元も子もない。
 おれは靴を脱ぎ捨て、玄関を駆けあがる。騒々しくならないように慎重に、しかしすばやく廊下を進む。おばあちゃんが寝ている大広間に入っていく。
 フランキーは、おばあちゃんから少し離れた畳の上に胡坐をかいて座り込んでいる。フランキーがこちらを見るので、おれは緊張する。巨大なパンは、わざわざ掲げて見せるまでもなく目に入るのだ。クッションのようにデカい、このパン。
 フランキーはぱあっと顔を輝かせる。それを見て、おれも緊張が解ける。これでよかったのだ、あのパン屋の言っていたことに間違いはなかったのだと安堵する。なんだか信用できない奴のような気も、どこかでしていたから。
 フランキーはドロシーおばあちゃんににじり寄り、おれはその反対側に膝をつく。二人でおばあちゃんを挟み込む格好だ。おれとフランキーは、お互いの顔をしっかり見てうなずき合う。まるで、これから奇跡を起こそうとしているみたいに。
 おや?
 何か聞こえないか?
 何かくぐもったような音がする、どこかすぐ近くから。
 おれはフランキーを見る。
 フランキーは目を伏せる。
 ……んごごごごごご。
 今度は確かに聞こえた。ドロシーおばあちゃんの鼻か喉の奥で鳴っている。やばそうな、くぐもった呼吸音。とてもやばそうな音。とてもとても、やばそうな音。
 おれは心配になってフランキーを見る。
「さっきからこうなんだ」
 もういつ迎えが来てもおかしくなさそうだ。急がなければ。
「パンを」
 おれはパンを差し出す。おばあちゃんに食べられるかどうか分からないが、やってみるしかない。
 おれとフランキーは気を取り直して、まるで生まれたての赤ん坊を見守る両親のように、ドロシーおばあちゃんを上から覗き込む。
「押し込むんだ」
 おれはパン屋から聞いた通りのことを教える。ドロシーおばあちゃんの下あごに掌底を当てがって、口をぐいと開け広げる。パンの端は何とか入るだろう。おばあちゃんはパンをかじることができるだろう。
「押し込む」フランキーはためらうように言う。
「押し込む」おれは繰り返す。
 フランキーは動けない。
 パン屋の言葉がおれの頭の中でこだまする。
「有無を言わせるな。口を開けさせろ。顔を押さえつけろ。ちゃんと食い終わるまで絶対に離すな。有無を言わせるな。口を開けさせろ。顔を押さえつけろ。ちゃんと食い終わるまで絶対に離すな。有無を言わせるな。口を開けさせろ。顔を押さえつけろ。ちゃんと食い終わるまで絶対に離すな」
 おれは誰かに喋らされるようにして、パン屋の言ったことを繰り返す。
「やれっ」おれは急き立てられたように言う。
 ……んごごごごごご。
 開いた口の中から、怖気をふるうような音がする。
 おれは、そのぽっかり開いたその穴が、まるですべてを呑み込んでしまうもののように思えて恐怖に駆られる。そこからは鼻をつく地獄の臭気も立ちのぼってくる。何としてでも塞がねばならない、今すぐ、このパンで。
 フランキーは、冷や汗をかいて開いた口をまじまじと見ている。
「やるんだ」おれは迫る。
 フランキーははっと我に返り、神妙な顔でうなずく。
 フランキーはおばあちゃんに馬乗りになってパンを構える。そいつをおばあちゃんの口にゆっくり近づけていき、端を口にあてがう。おれはおばあちゃんの口をさらに押し広げる。額も押さえつける。
「押し込め」おれは励ます。
 フランキーはぐっと前傾して体重をかける。パンはおばあちゃんの口を完全にふさぎ、顔面全体を覆う。おれの補助は必要なくなる。もう後戻りはできない。
「もっと」おれは鞭打つ。
 フランキーは全身の体重をパンに預ける。両足をしっかり踏ん張り、上半身の筋肉をフルに活用してパンを押し込む。そうしながら、泣いている。
「もっと!」おれは容赦しない。
 フランキーはさらに力を込める。泣くな。絶対に離しちゃダメだ。ここで離したら何もかもおしまいだ。
 おれはフランキーの後ろについて力を貸す。泣いていたら全力は出せない。フランキーの腰に自分の腰を重ね合わせるようにして、一緒にパンを押し込む。ごぎっという、くぐもった鈍い音がパンを通して伝わってくる。おばあちゃんの顎関節が砕けたのだ。顔は完全にパンに埋まっている。めちゃくちゃにしてやる。
「もっと!」おれは力の限り叫ぶ。
 フランキーは声をあげて泣く。
「泣くな!」
 おれは全力でフランキーごとパンを押す。おれのフォローを受けて、フランキーは最後の力を振り絞る。二人の力が合わさって、パンは限界を超えて押し込まれていく。
 ドロシーおばあちゃんが望んだことだ。おれたちは、おばあちゃんの最後の望みをかなえてやっているのだ。おれとフランキーにはそれができる。このままパンを押し込めば、すべてが終わる。おれとフランキーですべてを終わらせる。何としてでも。
 ついに、おれとフランキーは力尽き、畳に倒れ込む。呼吸は乱れ、全身から汗が吹き出して起きあがることもできない。
 パンはしばらくおばあちゃんの顔の上に直立しているが、やがてバランスを失って畳に転げ落ちる。おれは倒れこんだまま、ひっくり返ったパンを見る。片側をおばあちゃんの顔に押しつけられ、反対側をおれとフランキーに押されたパンは、もはや原形をとどめてない。圧縮され、方々で皮が破れている。
 おばあちゃんの顔に押しつけられた部分には、穴が穿たれている。デスマスクがきれいに取れるというわけにはいかなかったようだ。その穴の底に、かじり取った跡が申し訳程度に残っている。わずかに一口。おばあちゃんの最後の晩餐。
 おばあちゃんは安らかな顔をしている。もう息はしていない。完全に死んでいる。おれとフランキーが二人で成し遂げたこと。そうしなければならなかったこと。そうするより仕方なかったこと。
 フランキーがまた泣き出す。声をあげて、わざとらしいくらい大袈裟にしゃくりあげる。仕方なかったとはいえ、つらい話。これ以上ないほどつらい話。
 つらくてつらくて、おれも耐え切れない。何てかわいそうなフランキー。たった一人のおばあちゃんを亡くし、一人ぼっちになってしまったフランキー。おれの目からも涙が溢れる。枯れ果てたはずなのに、溢れて溢れてとまらない。おれもしゃくりあげる。こんな風に泣くことは、何て気持ちがいいんだろう。
 フランキー、フランキー、フランキー、こっちにおいで。
 抱きしめて、慰めてあげよう。
 フランキーは泣き崩れて動けないから、おれが彼に寄り添う。肩に手を回して抱きしめると、おれもフランキーもいっそう大きな声をあげて泣く。つらいときは思い切り泣けばいい。
 フランキーはおれの手を握ってくる。そう、おれがついている。おれはそんな気持ちになって握り返す。フランキーの手を通して、ぬくもりを感じる。一緒にドロシーおばあちゃんの息の根を止めたこの手。ぬくもりが体中に広がって、また涙が溢れる。
 フランキーにはおれがついている。
 おれにはフランキーしかいない。
 フランキーのためならおれは何でもする。フランキーのために何かしたい。
「手伝ってほしい」まだ落ち着ききらないフランキーが、顔をあげて言う。
 おれは黙ってうなずく。彼が先を言うのを待つ。
 フランキーが布団の上のドロシーおばあちゃんを見る。
 それにつられて、おれも布団の上のドロシーおばあちゃんを見る。
「埋葬しないと」フランキーが言って、おれを見る。
 おれもフランキーを見て、また黙ってうなずく。
 おれたちはしばらく動かないでいる。ときどき、フランキーが鼻をすする。また少し泣いて、また落ち着く。おばあちゃんを見ては、少し泣いて、また落ち着く。
 それから、おれとフランキーはようやく立ち上がる。ドロシーおばあちゃんの亡骸を葬るために。始末をつけるために。終わりの部分を放りっぱなしにしないで、きちんと締めくくるために。
 フランキーによると、村の裏手の山の中に、この村の人間を葬る場所があるという。この村では、いつとも分からない昔から、死者をそこに葬る風習があるのだ。そこへ行き、穴を掘って埋める。つまり土葬。
「最後に墓碑銘を立てる」
「墓碑銘?」
「何か一言書くんだ」
 そう言われて、おれにもそれがどんなものか分かる。ドロシーおばあちゃんを埋めたところに、板切れか何かを立てるのだ。一言書いたものを。
「愛する孫フランキーを、彼女なりのやり方で育てた」
 例えばそんなふうに。孫か息子か、よく分からないが。故人の尊厳を損なわないように。もしフランキーが書くんだったら、「彼女なりのやり方で」の一字一字の横に傍点を打って、何かほのめかすかもしれないが。
 フランキーは、おれに離れの納屋に行ってシャベルや他に必要そうな道具を揃えてほしいと頼む。彼自身は、おばあちゃんの亡骸を拭いたり、着替えさせたりといったことをするという。
 納屋は庭に出てすぐ目につくところにある。古い農家なんかにありそうな、薄っぺらい作りのやつだ。蹴れば簡単に穴が開きそうな土の壁。ボロいが、一人や二人暮らすのに十分なくらいの大きさ。建物の周りは草が伸び放題になっていて、まるで雑草の中に沈み込んでるみたいに見える。
 納屋に近づくと、何か奇妙な感じにとらわれる。それが何なのか分からない。分からないが何かおかしいと思って、近づくほど足取りが慎重になる。おれは、息を殺して横開きのドアのすぐ前に立つ。しばらく待つが何も起きない。気のせいかと思い直して引手に手をかける。
 ドアは、おれが開けるのとほとんど同時に、しかしずっと勢いよく、内側からも開かれる。おれは腕を持っていかれる。
「ひゃっ! きゃー!」
 女が一人、奇声をあげながら飛び出してきて、おれは脇に突き飛ばされる。
 すぐあとからもう一人、男が飛び出してくる。そいつらは追いかけっこをするみたいに、はしゃぎながら庭を跳ね回る。
 おれは呆気に取られて動けない。女は白いシャツを一枚だけ羽織っているが、ボタンは留めていない。合間から白い乳房がちらちらのぞく。どうやらさっきの看護師らしい。切れ長の冷たい目をしたあの女。もう一人の男は分からない。医者ではないようだ。分かるのは、二人が納屋の中でいちゃついていたらしいということだけだ。
「みつやす!」
 見ると、フランキーが縁側に立って怒ったように男を睨んでいる。
 みつやすと呼ばれた男は止まらない。フランキーの方を見もしない。そのまま女と一緒にどこかに行ってしまう。
 二人がいなくなると、辺りは静まり返る。
 おれは縁側のところにいるフランキーを見る、フランキーもおれを見返す。
 みつやすという名前になんだか聴き覚えがある。そう思ってみると、あの男にも見覚えがある気がしてくる。フランキーが何か手がかりを与えてくれるかもしれない。
 しかし、彼は何も言わず、今の騒ぎについて釈明をすることもなく、家の中に戻ってしまう。おれは仕方なく納屋に入り、おばあちゃんを葬るのに必要そうな道具を探す。
 シャベルは運良く二本見つかる。それからハンドライトが二本、軍手が二組、ビニールテープ、ナイフ、ロープ。そしてビニールシート。これはみつやすと呼ばれた男と看護師の女が床に敷いていたらしく、かすかにぬくもりが残っている。
 それらを表に運び出し、改めてフランキーの指示を仰ぐ。彼はおれが集めた道具を見て問題ないと考え、後部座席に詰め込んでおくように言う。トランクではなく後部座席に。おれは言われた通りにする。
 フランキーがおれを呼ぶ。大広間では、ドロシーおばあちゃんの旅立ちの準備が整っている。その変わり果てた姿に、おれは息を呑む。
 おばあちゃんは、すっかり裸にされている。そして、縛られている。背中に回された両手は肘を九十度に曲げられて、両足はM字に開かれた格好で、麻縄でがっちりと。
 裸にされ、縛られ、体のあちこちに落書きがされている。口紅か何かで。おれにはその落書きを読むことができる。メスブタ、変態、ヤリマン、肉便器、ごめんなさいもうしません、などなど。額には「肉」の文字。左の太ももに串刺しにされるようにして並んだ女性器のマーク。
 他にもまだイタズラがしてある。左右の乳首は大きな洗濯バサミで挟んであり、鼻にはフックが引っ掛けられて限界まで上に引っ張られている。髪の毛は虎刈りになっている。
 無残な姿で転がされたおばあちゃん。
 フランキーがおれを見て、わずかに微笑む。それで、おれはこれがフランキーのおばあちゃんに対する気持ちの表れなのだと理解する。おれは、わずかに微笑み返す。
 おれとフランキーは、おばあちゃんを車まで運ぶ。どう持ち上げるかあれこれ試して、両脇から挟むようにして抱えあげるのがいいということになる。それぞれが、背中に回された腕の肘のところと、折り曲げられた膝のところを持つようにするのだ。
 ドロシーおばあちゃんの痩せ細った体は、それでも重い。
「助手席に」フランキーが言う。
 おれは、うまいことおばあちゃんを支えながら、後ろ手に助手席のドアを開ける。そのまま後ろ向きに入り、狭い空間で四苦八苦して、何とかおばあちゃんをシートに乗せる。
 おれは運転席側のドアからいったん表に出る。
「お菓子と飲み物がある」フランキーが言う。
 おれはおやつ休憩を取ってから出かけるのかと思う。だが、そうではない。
「それを積んだら出発だ」
 おれは、みつやすと呼ばれた男のことを聞こうとするが、一瞬ためらう。フランキーは家の中に戻ってしまう。おれはその後姿を見送りながら考える。みつやすと呼ばれた男はやはり身内で、この家でおばあちゃんと一緒に暮らしていたのだろうか。それとも、ただの村人に過ぎないのか。フランキーとはどういう関係なのだろう。
 ドロシーおばあちゃんは親類から見離されて一人暮らしということだった。しかし、本当におばあちゃんなのか、実は母親なのか、もしかしたらそのどちらでもないのか、それさえよく分からない。とすると、一人暮らしだという話も頼りにならないのではないか。それに、フランキーがあの男を呼ぶ呼び方は、まるでどこか、そう、兄弟のような感じではなかったか。
 フランキーがお菓子や飲み物が入っているらしいリュックを持って戻ってくる。ぱんぱんに膨らんだそれを後部座席に積み込む。
「行くか」
 フランキーの声は沈んでいる。無理もない。おれは慰めたいと思うが、うまく言葉が出てこない。
 これはフランキーの旅になる。ドロシーおばあちゃんの旅というより、フランキーの旅だ。決して容易くない旅。過去を振り返る、しんどい旅。その過程で自分が何者なのかを思い知らされることになる、つらい旅。
 それが彼に課せられた仕事。だからおれはついていく。フランキーと一緒に、フランキーのそばで、彼を助ける。
「後ろでいいか?」フランキーが言う。
 おれはうなずく。助手席はドロシーおばあちゃんの席だ。運転するのは埋葬場所を知ってるフランキー。とするとおれの席は必然的に決まる。後部座席は埋葬に必要な道具でいっぱいだが、何とかスペースは作れるだろう。おれは後部ドアに手をかける。
「いや、こっちだ」
 おれはフランキーを見る。
 フランキーは車の後ろに回り込む。おれは彼についていく。
 おれたちはトランクの前に立つ。フランキーは、おれにそこに入ってほしいと考えているらしい。おれはかまわなかった。フランキーがそうしてほしいなら何だってする。
 急に、前にもこうしたことがあるような気がして、はっとなる。おれたち二人で一緒に車のトランクの前に立ったことがあるような気が。一瞬、目眩を覚える。
 フランキーの手がトランクに伸びる。おれは中に何か見たくないものが入っているような気がして、冷や汗をかく。開けてはいけないもののように感じて、身を硬くする。絶対にそれを見てはいけないような気がして。
 だが、フランキーがトランクを開けるのを止めることはできない。叫びそうになるが、声が出ない。おれは、これですべてご破算になってしまう覚悟で、ぎゅっと目を瞑る。
 何かが起きる。
 いや、何も起きない。
 あるいは、起きたことがおれには分からないのかもしれない、何もかもご破算になってしまって。ドロシーおばあちゃんには、何が起きたところでもう何も分からなくなっているというのと同じように。
「大丈夫そうだ」声が聞こえる。
 おれはそっと目を開く。
 フランキーがトランクの中を点検している。拾い上げたゴミ屑を地面に捨てる。トランクの中には何もない。おれは四隅を確かめる。そこは空だ。
 フランキーは改めておれを見る。
「問題ない」おれはうなずく。
「よし。じゃ」フランキーはそう言って促す。
 おれは縁に手をかけ、少しためらう。
「墓碑銘にはなんて書く?」
 ふと気になったのだ。フランキーが心に決めている言葉があるのか。それとも、ドロシーおばあちゃん本人がこう書いてほしいと決めたものがあるのか。
 フランキーは表情を曇らせて目を逸らす。答えたくないとでも言うように。
 お喋りはおしまいだった。おれは、何か気に触ることを言ってしまったかと気に病みながら、片足を中に突っ込む。それからもう片方の足で地面を蹴って身体を持ち上げる。横になってみると、おれの体はすっかりトランクに収まる。おれは今の質問を気にしないでほしいと言いかけるが、その前に蓋を閉められてしまう。
 一瞬にして中は闇となる。広さも上下も分からなくなる。
 混乱はしない。パニックは起こさない。おれは手と足で壁をなぞり、自分の居場所について知ろうとする。ここはトランクの中だ。それ以上でも以下でもない。蓋が閉められたから光は届かないが、酸素がなくなるわけではない。
 四方の壁は迫ってきていて天井も低いが、以前泊まったことがある一番小さなカプセルホテルよりましだ。足を伸ばせないのが難点だが、背中を丸めて膝を軽く曲げていれば何とかごまかせる。
 床が硬いから、そのうち背中が痛くなるかもしれない。クッションくらい用意すべきだったが、痛みを感じたら向きや姿勢を変えればいい。
 おれは色々考える。ふいにドアが開く音がして、思考は中断する。
 フランキーが車に乗ろうとしているに違いない。おれは耳を澄ませながら、今頼りになるのはこの器官だけだと知る。見れば見るほどおかしな形をした、おれの耳。位置関係上、自分で見るのは難しいが。
 フランキーはなかなか車に乗らないらしい。ドアは開いたきりで、閉める音が聞こえない。車はフランキーの体重を受け止めて揺れない。
 その代わり、おれの耳は何かしらの緊張を聞き取る。
 足音がする。フランキーのものではない。誰かが車に近づいてくる。フランキーは動かないでいる、らしい。両者の距離が縮まる。その足音は、車のすぐ近くまで来る。
「乗れ」フランキーの声。
 少しの間がある。
「後ろだな」何者かが応える。
 聞いたことのない声。助手席にはすでにドロシーおばあちゃんがいることを見てとっての発言だろう。助手席側の後部座席のドアが開けられ、道具類を押しやる音がする。後部座席を通して伝わってくる。
 みつやす。おれはそいつがみつやすと呼ばれた男ではないかと思う。フランキーが「乗れ」と命じるような言い方をしていたから。おれには、そうだとしか思えない。
 フランキーは運転席に乗り込みドアを閉める。エンジンがかかったかと思うと、後部ドアも閉まる。
 おれは車内のやりとりに注意深く耳を傾ける。何も聞こえない。エンジン音のせいや、小声で話しているからではない。何も話してないのだ。
 車が動く。一度切り返して、おばあちゃんの家を出て行く。
 おれは妙な心地で考える。というより、この状況が妙なものに思える。
 みつやすと呼ばれた男らしき人物が後部座席に座ることができたなら、おれでもできたはずではないか。そちらだって窮屈かもしれないが、トランクの中と比べればずっと居心地はよかっただろう。
 後部座席にスペースを作れるかどうか、試してみることはできた。しかし、フランキーはそれをさせなかった。その代わり、おれにトランクに入るよう勧めた。
 その提案を断ることなんてできない。なぜなら、彼はフランキーなんだから。だけど、こうなってみると、その提案はあとから別の人物が来ることを見越してのことだったようにも思える。フランキーには、みつやすが来ることが分かっていたのではないか。
 車は順調に走行しているらしい。真下でタイヤとアスファルトが激しく擦れ合う音がしている。間断なく。車が風を切る音。エンジン音。何か鳥の鳴き声。他には何も。別の車とはすれ違わない。フランキーは何も話さない、ようだ。みつやすと呼ばれた男らしき人物も何も話さない、ようだ。
 もう村を抜けたのかもしれない。どの方角に向かっているのかも分からない。おれは本当にこの中に入らなければならなかったのだろうか。トランクの中にいるべきなのは、おれではない、誰か別の人物なのではないか。
 フランキーは運転席に。
 ドロシーおばあちゃんは助手席に。
 みつやすと呼ばれた男らしき人物は、道具類とともに後部座席に。
 おれはトランクの中に。
 何かがこんがらがっているような気がする。正しい配置じゃないような気がする。正しい配置じゃなければ、与えられた役を演じられない。やはり、トランクの中にいるべきは誰か別の人物なのだ。というより、この中にはもともと誰か別の奴がいたのではないか。おれではなくて。
 ここでないとすれば、では、おれはどこにいるべきなのか。おれはどんな役割を演じることになっているのか。それとも役が変わってしまったのだろうか。知らされもせずに。
 配置とか、役とか、おれは何を言ってるんだろう。
 背中に痛みを感じて、思考が中断する。
 おれは苦労して体勢を変える。体の左側が下になるように、うんうんうなりながら動く。パニックは起こさない。ただ、自由を奪われていると感じ、そのことを苦痛に思う。その苦痛が、残り少ない自由も奪っていく。自由がさらに目減りして、それで苦痛がいや増す。自由はもはやない。苦痛だけがある。
 おれは、村人を葬ることになっているという特別な場所について思いを巡らす。そこにはこれまでに死んだ大勢の村人たちの墓碑銘が立てられているはずだ。整然と、あるいは雑然と。一体どんなことが書かれているのだろうか。
 死んで、一言残すこと。
 死んだ誰もが、一言残すこと。
 その一言が、そこらじゅうに立てられている。
 見ろ、読め、聞け、と主張する、誰も彼もが。
 すでにいない、しかし過去に確実にいた誰も彼もが、総決算として記した言葉。自分が生きたことの証として記した言葉。
 シラケる文句に、寒いギャグ。
 呪いの言葉、ときには。
 そうやって、生きた。
 そいつはなかなかの光景だろうと想像しながら、だんだん眠くなる。
 左にカーブしたあと、やおら車が小刻みに揺れはじめる。舗装されてない道に入ったのだと分かる。スピードが少し落ちる。枝葉が風に揺れる音が聞こえる。揺れはそれほどひどくない。むしろ、余計に眠気を誘われる。サイズの変わらない狭い闇の中で、おれは自分がどこにいるのかも忘れ、眠りに落ちる。

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十佐間つくお
いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。