排泄小説 6
朝飯は台所にあったもので適当に済ませた。小分けになったヨーグルトのパックもあったし、クロワッサンもあった。カットしたフルーツのパックもあった。せっかくだから昨日ジジイが万引きしたコーンクリームスープもいただいた。まるでホテルのビュッフェだった。
ワイドショーを見て少し食休みをしたあと、おれは例の金を再び取り出した。一階のテーブルでしっかり数えてみると、万札は全部で六三一枚あった。これでおれも大金持ちだ。新しい彼女でもできるんじゃないかと思って心が弾んだ。
そうこうしているうちにトイレに行きたくなった。二階のやつを使うことにした。機能は何一つついてなかったが、おれにはそんなもの必要ないのだ。
ひんやりした便座に座ってちょっと踏ん張ると、異次元から来たようなどでかいやつが出た。こんなやつが体の中にあったなんて、ちょっと信じられないくらいの大きさだった。おれの不死身のケツの穴は無事だった。裂け目一つなかった。
おれときたら、トイレに関して心配事があるとすぐに下痢になるくせに、ゆっくり用が足せる環境に置かれると冗談みたいな快便になるのだ。くそは心身の健康のバロメーターだというが、おれほどその言葉を体現しているやつはいないだろう。
もちろんくそは流れなかった。おれは棒切れを探してそいつを切って流そうとした。すぐにそんなことをしても無駄だと思い直した。もう誰もこの家のトイレを使うやつなどいないのだ。放っておけばいい。おれはくそをそのままにしてジジイの家を出た。
その日もバイトが入っていたが、もういいやという気分だった。やめてやろう。黙ってばっくれるとしよう。あの職場では珍しくもないことだし、あんなパワハラが横行している場所にしがみつく理由などどこにもない。まとまった金が入ったんだから、生活を変えるいい機会だ。
そんなことをつらつら考えながらまた迅速に来た。迅速は今日も朝から近所のジジババたちの楽園となっていた。大金を持っていてもおれが頼むのは一番安いブレンドだった。それにスティックシュガーを三本、ポーションミルクを二つ。ちょっとやそっとのことで習慣は変えられなかった。
コーヒーを一口すすったあと、おれは今すぐ部屋から出ていってほしいという恵野茶子宛てのメールを打った。文章はすらすら出てきた。言いたいことを言えばよかったのだ。言いたいことを言うのは非常に気分がよかった。金を持ったらあいつが急に嫌な女に思えてきた。多分、最初からそうだったのだ。
「峰打さんですよね」
見ると、傍らに女が立ち、おれに笑いかけていた。
「隣、いいです?」
女はおれが答えるよりも前に、コーヒーの乗ったトレイを隣のテーブルに置いた。ようやく誰か分かった。万賀一の女だ。
「あぁ、万賀一の」
眼鏡をかけてなかったから分からなかったが、コンタクトなのだろう。おれは書きかけのメールをいったん保存して携帯を閉じた。
「ごめんなさい、分からなかったですよね。いつもカレから峰打さんのこと聞いてたんで、なんか知ってる気になっちゃって」
「あ、そう」
やつがおれのことをなんと言っているか知らないが、あちらからわざわざ話しかけて来たことを考えると悪くは言ってないのかもしれない。
「ここ、よく来るんですか? わたし、休みの日とか仕事帰りによく来るんですよ。本読んだりぼけっとしたり」
よく喋る女だった。おれは普段はバイトあがりによく来ると教えてやった。
「万賀一は今日仕事?」
女は笑ってうなずいた。
「最近アイツ働きすぎで」
万賀市は朝十時から午後六時までというのが基本のシフトだったが、おれや他の多くのバイトがあがる夜九時を過ぎても一人で残業していることがほとんどだった。ろくに休憩も取らせてもらえないままだ。
スーパーでは慢性的な人手不足だったが、万賀市一人をこき使うことでそれを解消しようというのが模糊山の基本的な考えだった。人手不足だろうが何だろうが社員や模糊山は定時であがり、やりきれない分はバイトに押しつけるというのがあの職場の基本的なやり方だ。
おれは、もしかしたらこの女は自分の恋人がパワハラにあっていることを知らないのではないかと思った。万賀市自身が自分の状況を客観的に見られてないのだから、恋人が知らないとしても不思議ではなかった。教えてやるべきかと思ったが、余計なことはしないことにした。あの職場とはもうおさらばなのだ。
「あ、南です」
「何が?」
「名前。わたしは知ってるけど、峰打さんは知らないかなって」
「下の名前?」
「名字です。名前の方は真南っていいます」
「まみなみ?」
「変な名前なんですよ」
「みなみ、まみなみ」
おれは口の中でつぶやいた。二度目をつぶやきかけたとき、その奇妙な名前がちょっとした回文になっていることに気がついた。しかも、文字を三種類しか使っていない。そんなことが可能なのかと、おれは驚くと同時に畏怖の念を抱いた。しかも、ひとたび口に出して言ってみれば分かるが、上唇と下唇がくっつく回数が多すぎるのだ。みなみまみなみ。
「峰打さんって結婚とか興味あります?」
「え?」
南真南は同棲中の恋人が結婚を考えていることに気がついているようだった。そして、そのことを手放しで喜んでいる風ではなかった。
「確かに一緒には暮らしてるけど、そこまで考えてなかったっていうか。家族とか、そういうのあんまり好きじゃないし」
南真南はいつの間にかタメ口になっていた。
「峰打さんもそんな感じする」
「そうかな」
おれは答えをはぐらかした。
「結婚してくれと言われたら断るのか?」
「分かんない」
「へぇ」
おれたちはにやにやしながら横目に見つめ合った。南真南の手がテーブルの下にだらりと垂らしたおれの手に絡んできた。おれは親指の腹で南真南の手を撫でた。普段、犬猫の毛を刈っているにしてはすべすべとした柔らかい肌だった。
そのあとも南真南は結婚や家族といったものへの抵抗感を喋り続けた。おれは適当にうなずき返してやった。そうしていながらおれたちが考えているのは同じことだというのは明らかだった。
公営団地を越えた先にある大通り沿いにホテルがあった。けばけばしさのない地味な外観で、主に車の連中が利用するところだ。おれと南真南は歩いてそこへ行き、脇についている勝手口のような目立たない出入口から中に入った。万賀市に気兼ねは無用だった。バイトをやめればもう顔を合わせることもないのだ。同じように南真南にも気兼ねはいらなかった。どうせ一度きりのことだからだ。
こんなことをしたら嫌われるんじゃないかと余計なことを考えなくてもいい相手というのは最高だった。南真南の方でも同じように感じているようだった。おれたちは互いに好きなようにやった。
壁や天井が鏡張りになっている部屋だった。おれは鏡越しに南真南が乱れ狂うのを見て楽しんだ。南真南の顎をつかんで鏡の方を向かせ、自分のあられもない肢体を見せてやった。南真南は「いやいや」と言いながら喜び、ますます興奮した。
南真南はいきなり積極的になったかと思うと、おれの両足をまとめて持ちあげ、後ろでんぐり返しの途中みたいな格好にさせた。自分の股の間に南真南のいたずらっぽい顔がぬっと覗いた。何かよからぬことを企んでいる顔だった。
南真南がひょいと顔をどけると、真上に鏡があった。そこにはおれが写っていた。恥知らずな格好をしたおれが写っていた。
「よせよ」おれは半笑いで言った。
「ダメ」
南真南はおれに体重を乗せてくると、両手でおれの太ももを押さえつけた。それからその手をケツの方に滑らせていった。おれのケツの穴を見てくすくす笑うと、口をすぼめて息を吹きかけた。
自分のケツの穴がきゅっと締まるのが分かった。そのあと勝手にひくひくした。おれのケツの穴はすっかり包囲されていた。おれは、次に起きることを期待して天井の鏡を見つめた。南真南がやったことを次におれがやり返してやろうと呑気に考えていた。
南真南は、おれのケツの穴の周りに何本か指を添えると力を込めてそれを押し広げた。それからすけべ女のようにふふっと笑った。そのときだった。おれは鏡越しに、自分のケツの穴から紫色の煙が立ちのぼるのを見た。ガスとは違うようだった。おれはその煙の広がりの中に、何か地獄のような恐ろしいイメージを見た。
「やめろ!」
おれは恐怖に駆られ、思わず南真南を蹴り飛ばした。南真南は後ろ向きにひっくり返ってベッドから落ちた。おれは急いで体を起こし、自分の指でケツの穴を確かめた。触った感触では異変はないようだった。紫の煙はすでに空気中にかき消えていた。ベッドの上の空気を嗅いでみたが、特におかしなことはなかった。指先の匂いを確かめてみると、かすかにくその臭いがした。それだけだった。
南真南がベッドの縁に手をかけて起きあがった。頬骨のところが赤く膨らんでいた。思った以上に強く蹴ってしまったらしい。
「なんで蹴るの」
「悪い。つい」
「いったー」
南真南はベッドに座り込んで頬を押さえた。そこそこ派手に腫れるかもしれなかった。
「何か見えなかったか?」
「え?」
「今、煙みたいな」
「煙?」
「その中に何か見えただろ」
「ごめん、分かんない」
南真南はへらへら笑った。蹴飛ばされたことで怒るわけでもなかった。興奮して痛みを感じていないのか、あるいは変わった趣味の持ち主なのかもしれない。
「する? 続き」
おれは天井を見上げた。鏡の中でもう一人のおれが見返していた。南真南が抱きついてきて、おれの体をまさぐりはじめた。その手が再びおれのケツに向かった。
「こっちはなしだ」
おれは南真南の手を掴んで言った。
「離して」
南真南はおれをベッドに仰向けに寝かせると、股間のものを口に含んだ。おれはじっと鏡の中のおれを見つめていた。六百万、万賀市の女、紫の煙。
南真南は何事もなかったかのような顔で帰っていった。今日おれたちの間にあったことは、なかったことなのだ。おれたちの間には何もなかった。それがおれたちの共通の了解だった。もう会うこともないし、会ったとしても知らん顔だ。
まだ昼時だった。体は疲れていたが気分ははつらつとしていた。朝のうちからあんなに励むなんてなかなかないことだ。本来なら慌てて飯をかっこんで仕事の準備をしなきゃならない頃だったが、もうそんな必要はなかった。おれはどこかでゆっくり昼を食べながら、これからどうするかじっくり考えてみることにした。
気分が落ち着くのは、結局知っている店だった。おれは大通り沿いにあるファミレスに入った。昨日の夜入ったのと同じチェーンだ。頼んだのも同じパンチェッタのピザ。好きだからだ。おれはピザを八つに均等に切り分ける作業もまた好きだった。ピザカッターについた油を舌で舐め取るあの瞬間がたまらなかった。他にサラダとドリンクバーも頼んだ。
ピザをカットしていると、バイト先のスーパーから携帯に着信があった。あの職場にしては早い対応だった。もちろん取らなかった。もう一度か二度無視してやれば、やつらもおれの真意を汲み取るだろう。ろくでもない職場ではバイトというのはそうやってやめていくのだ。
おれは書きかけのメールを仕上げてしまおうと携帯を取り出した。あれから一日半が経つが、ついに恵野茶子の方から連絡が来ることはなかった。このメールを送ればおれたちの関係が破綻することは間違いなかったが、それこそ望むところだった。あの女は今このときもおれの部屋を不当に占拠しているのだ。
いや待てよ。そうじゃない。あの女は今日は仕事だった。いつも通りなら朝九時には家を出ているはずだ。思わず笑みがこぼれた。このチャンスを無駄にする手はなかった。おれはピザをジンジャエールで流し込み、げっぷをしながら店を出た。
部屋までは歩いてたっぷり四十分かかった。玄関を開けた瞬間何か妙な感じがしたが、思った通り恵野茶子はいなかった。おれは室内をざっと見回したあと、トイレのドアを開けた。おれが出したくそがそのまま便器に残っていた。
それを見て、ようやく何がおかしいのかに気がついた。部屋からあの女の私物がなくなっていたのだ。そして、それ以外は何も変わっていなかった。何一つだ。便器の中ではおれのくそが溶けて水が茶色く濁っていた。
うんこは水際のところで半分に切れていたが、恵野茶子が例の棒切れで切断したのではなかった。水を吸ったことや、うんこ自体の重さによって自然にちぎれたのだ。陸に乗りあげたままのうんこは、斬り落とされたゾンビの腕のように臭気を放ちながら水分を失いつつあった。いつまでも見ていたい光景というわけにはいかなかった。これなら流せるだろうと思い、おれは少々の名残惜しさをかなぐり捨てて水洗した。グッドバイ。
大量の水によって陸のうんこは大地から引き剥がされ、便器の中に泥の渦ができた。その渦をじっと見ていると中に落ちそうになって、おれは壁に手をついて自分を支えた。やがて水面が落ち着くと、便器は再び白さを取り戻していた。
恵野茶子がいつ部屋を出たのか確かなことは分からなかった。だが、私物を持ち去ったということはもう戻ってくるつもりはないということだ。例の棒切れが三本ともなくなっているのを確かめると、おれはあの女の意地を感じた。まったくつまらない意地だったが、何がなんでもおれにあの棒切れを使わせたくないのだ。うんこを切る目的では絶対に。
トイレにあのどでかいうんこが置き去りになっていなかったら、あの女が出ていく決心をしてくれたかどうか分からなかった。あの女にしてみれば、くそを自分で処理するか、それとも出ていくかの二つに一つだったのだ。おれは自分のくそに感謝した。おとぎ話は終わり、おれはバイトをやめ、手元には六百万があった。何もかもくそのおかげだった。
おれは身辺がだいぶすっきりしたのを感じていた。これから何をすべきか分かっていたわけではなかったが、今夜はよく眠れそうだった。夜を待たずに今すぐ昼寝がしたいくらいだった。おれはそうすることにした。
換気のために窓を網戸にした。おれの部屋からは小さな川越しにこれまた小さな公園が見えた。そこには桜の木が一本だけあり、春にはそれなりに見応えのある感じになるのだ。その小さな公園から誰かがこちらを見ていた。知っているやつのような気がして、おれはよく見ようとベランダに出た。だが、足元のサンダルに目を落として次に顔を上げたときには、そこにはもう誰もいなかった。