たやすい仕事 3/4
1 2 3 4
3
何かされたような気がして、目が覚める。
ベッドの上らしい。
確かなことは分からない。
これは、誰だ。何も分からない。これ。これとは何だ。これがあるということしか分からない。これ、というのが何を指すか、うまく説明するのは難しい。それに、そんな場合じゃないような気がする。おれ。おれか。これと言ってるのはおれのことか。怪しいもんだ。イコールでは結べないだろう。これは、おれにとっては、そのおれというもの自体より馴染みがあるような気がする。いや、それほどでもないかもしれない。いつも裏側に潜んでるから。裏側。奥。下。恥ずかしがり屋なのかもしれない、とんでもなく厚かましいくせに。業突く張りのくせに。あいつはすべてをコントロールしていると思っている。あいつ? あいつと呼んでもいいかもしれない。それは、あるいは張りついている。ほとんど一体化している。すべての種類のおれに裏張りされている。それ? さっそくの寄り道。それはあいつで、あいつはこれで。とすると、これとはそれのことか。論理的に考えるとそういうことらしい。論理的とは恐れ入るじゃないか。同じもののことを言ってるようでいて、話がどんどん逸れていく。これとは何かと言って、その、これ、というのが何を指すのか、そんなことは分かりきっている、そんな風に感じるときもある。ただ、そのこれは、うまく対象化できないとだけ言っておこう。どうやらできないらしい、あまりにも身近すぎるらしくて。拒絶もできない。そして、同一のものかどうかは、これも分からない、これとおれが。共通点はたくさんあるらしいが。今の話を難しく感じないでもらえるといいんだが。また出だしからずっこけたらしい。いつもそうだ。切り出し方を間違える。それで間違った道を進む。そして間違った終わりにたどり着く。重要なのは、正しい疑問を提出することだ。そうしないと、すべては空騒ぎに終わる。でも今回は仕方ない。なぜなら何も見えないから。またいつものようにおれが登場したと思ったら、目が塞がれているから。お馴染みの、みんなの嫌われ者であるおれが。ベッドの上らしい、と言ったっけ。そのことが、多分ちょっとばかり意外だったからだろう。もとはどこか別の場所にいたような気がしたからだろう、かすかに。例えば、暗くて、床の硬い、狭苦しい場所とか。そう思ったとしてもおかしくないような気がして。何かの勘違いじゃなければ。目は見えないわけじゃない。それは塞がれている、多分、頭に何か被せるか巻きつけるかすることによって。そんな感じがする。光を通さないように。身体が重い。最初に触れるべきだったのはそのことかもしれない。全身がだるくて重い。体が動かせないくらいに。というか、実際にそれは動かせないらしい。ただ目が開くだけだ、塞がれていて何も見えないとはいえ。金縛りにあったときのような感じ、とでも言えばいいか。誰にでもその経験があるといいんだが。動かそうとしても動かない。麻痺してるみたいに力が出ない。ひどく酔っているか、薬漬けにされたみたいに、だるくて重い。最後にひどく酔ったのがいつのことかも思い出せないが。あるいはそんな経験をしたことはなかったんじゃないか。薬漬けにされたことだって一度もないが。とすると、おれはまたでたらめを言ってることになるな。誠意を尽くすというのは思いのほか難しいもんだ。自分のものじゃないみたいに感じる、自分の体を。どうやら、意識もはっきりしているわけではないらしい、こんなにべらべら喋ってるのに、そんなことがありえるのかどうか分からないが。だけど、本当はおれはものすごく時間をかけて喋ってるのかもしれない。例えば、一分間で十文字がやっとのスピードでとか。そうでないとは言えないはずだ。そんな調子でちゃんと辻褄が合ったことを喋れるのかどうか怪しいもんだが。おれは、これまでのところ、自分の言ってることの辻褄が合っていると考えているらしい。知っている場所にいる気がする。少なくとも一度は来たことのある場所に。湿度の感じや匂いに覚えがある。何も見えなくても空間の広がりを感じる。たいして広くはないようだ、音の反響具合からすると。かすかにモーター音が聞こえる。ここは、外界から閉ざされた、何らかの部屋らしい。秘密めいたところがあるのは気のせいか。確かなことは分からない。何一つ断言できない。そんな気がするというだけで。おれは相当へばっているらしい。しっかりしてないと、また眠りに戻ってしまいそうになる。油断していると、ひょっとしたら気を失ってしまうかもしれない。あまりいい状態だとは思えない。だんだんと力が弱っていくような感じがする。どんどん衰弱していっているらしい。そう思って、自分が妙な姿勢でいるらしいことが分かってくる。無理な体勢をとらされていることに。自分からはとりそうもない姿勢みたいだから、そう言うんだが。それでおれは、自分が意思や健康状態の問題で動けないというのではなく、外部から何らかの制約を受けて、動かそうにも動かせないのではないかと疑う。もしかしたら、頭が下向きになっている。思い違いでなければ。そのせいで頭に血が上ってくらくらして、余計に考えがおぼつかない、らしい。よし、これでうっかりおかしなことを口走ってしまったときの言い訳ができたな。こんなに辻褄のことばかり気にするのも、何だかおかしなことのように思うが。ともかく、おかしな姿勢をとらされて、その姿勢のまま固定されているのは本当らしい。そうやって自由を奪われているらしい。自分が自由を奪われているのではないかと疑うなんて、たやすいことだ。おれはいつだって自由を奪われてきたんだから。いつもそうだから今回もそうじゃないかと疑うなんて、こういうのを疑心暗鬼に陥るというのかな。少しずつ分かってきた。おれの腕は二本とも背中に回されている。足も膝を折り曲げられて股を開くようにされている。腕も足も、そうやって縛られている、きつく。とてもきつく。何か毛羽立った縄で。扱い慣れた様子で、手際よく、完璧に。おれにはもがく気力もない、こんな職人技を発揮されたら、もがいても無駄に違いないから。何も見えなくても自分の姿を思い描くことはできる。というのも、つい最近どこかで似たようなものを見た気がするから。あまり人に威張れる格好とは言えないだろうな、おれの得たイメージが正確だとするなら。しかも、頭が下向きになってると言わなかったっけ。ということは、上には何があるか。おれのケツがあるということになる。多分、その通りなんだろう。おれはケツの穴を天井に向けているらしい。こんなことは初めてだ。常に下を向いていたはずのおれのケツの穴。これでも自由を奪われてないなんて言えるだろうか。自由を奪われている本人が、自分は自由を奪われていると主張することは、多くの場合困難を伴う。その主張を周囲に納得させることができるかどうかとなると、さらに。なぜなら、その周囲こそが自由を奪っている真犯人だから。それで、放っておくと自由は奪われる一方になる。おれは弱っていく一方で、そうなると自由はもっと奪いやすくなる。おれは不穏さを肌で感じ取る。正しく言えば、ケツの穴で感じ取る。なぜなら、ケツの穴が白日の下にさらされているらしいから。白日の下というのは言葉のあやかもしれないが。おれは最初に立ち返る。何かされたんじゃなかったっけ。不穏さとともにそう思う。おれとおれのケツの穴でそう思う。フランキーのことを思い出す。そう名付けられた男。フランキーはどこだろうと周囲の気配を探る。分からない。感じ取れない。いつも一緒にいるはずなのに。おれが言う。正しくは、おれのケツの穴が言う。より正しくは、おれのケツの穴がそう言ったようにおれは感じる。おれは知ってるぜ、と。すべてはおれのケツの穴がご存知らしい。そう言われてみると、おれのケツの穴に、フランキーの名残りをかすかに感じることができる気がする。どうしてこんなところで彼を感じるのかしら? これは愚問だろうか。おれのケツの穴はウソをつかない。フランキーはおれを助けに来てくれたのではないらしい。あるいは、やはり助けに来てくれたのかもしれない。それとも、助けるつもりで来たが、途中で気が変わったのかもしれない。おれのケツの穴を見たら、ということなのかもしれない。知らなかったな、自分のケツの穴にそれだけの魅力があるなんて。やはり、助けるつもりなんて最初から全然なかったのかもしれない。今のおれは助かってるとは言えないのだから。おれは、今のおれの助かっていない状態に、フランキーが何らかの関わりを持ってるような気がする。やはり何かされたらしい。おれは無理な体勢に縛りつけられて、上下逆さまにされている。背中がベトベトなのにも気がつく。こんな不快感に気がつくのに、これほど時間がかかるなんて我ながらウソみたいだ。左右のケツもベトベトする。関節は痛いし、全身がしびれるようだ。髪の毛を束にして引っこ抜かれたような感覚が残っているし、どうも鼻からは出血もしているらしい。ケツの穴は、少しひりひりする。こういう風には絶対になりたくないと昔から思っていたような情けない格好をさせられているらしい。なんてバツの悪い格好だ。変だな、わざわざそんな風に思うなんて、まるで本当はそうされてみたかったという気持ちが裏に隠れているみたいじゃないか。何事にも裏があるよ。おれは空気がわずかに揺れるのを感じる。それで誰かがいると知る。知るというより、思い出すと言った方が正確かもしれない。とすると、それが誰なのか知っていそうなものだが。分かりそうで、はっきりとは分からない。見ず知らずの誰かじゃなさそうだ。おれの方はあられもない格好をしてるんだから。おれは見ず知らずの相手にそんなところを見せないんだから。とはいえ、とりわけ親しい相手というわけでもないだろうが。おれは親しい相手にそんなところを見せないんだから。望んでこんな格好をしてるんじゃないんだから。おれに相手を選ぶ余地がなかったとしたら、どうする。フランキー。あるいはフランキーなのかもしれない。おれはイヤな予感がする。正確に言うと、おれのケツの穴が、ちょっと先の未来を予測して縮みあがる。きゅっとすぼまる。期待してのことではないと思う。恐怖にだと思う。おれは自分が何をされたのか思い出しそうになる。おれは何か言おうとする。そう、話すということだってできるはずだから。だけど声はでない。うめき声が洩れるだけ。それで口の中に何か突っ込まれていることに気がつく。ピンポン球のようなものが。これこそ一番最初に気づきそうなもんだがな。吐き出そうにも、吐き出せない。それのせいで言葉を発することはできない。涎をたらすことはできるらしい。便利に作られてるもんだよ。おれの後ろに立つんじゃないぜ。言いたいのはそんなところだろうと思う。しかし、もしかしたら結局、おれはただ、……んごごごごごご、と言ってるだけなのかもしれない。おれのケツの穴が冷や汗をかいて訴える。ここは何かが出て行く場所であって、何かを入れる場所ではないと。標識が見えないのか、ここは一方通行だぞ、と。何かをケツの穴に突っ込まれる予感。突っ込まれて、そして、おれは言うのか。……。うーっ、ダイナマイト。どうせ選択の余地がないんだったら、落ちていくのを止められないというなら、楽しんだっていいじゃないか。というのは、退廃的なものの考え方だろうか。いや、楽しめるとは思えない。とてもじゃないがそんな気はしない。楽しめないどころじゃないんじゃないか。楽しいわけがないだろう。おれは思い当たる。眠る前にそういうお楽しみがあったらしい。楽しんだのはおれではない、他の誰かであるようなお楽しみが。おれは何かされている最中に寝てしまったらしい。もしくは、意識を失ってしまったらしい。フランキーがおれの後ろに立つ。おれは少し高い台の上にいて、フランキーが乗るとそれが揺れる。ベッドのように。多分、最初に思ったようにベッドなんだろう。大きなベッドらしい。フランキーは二歩か三歩おれに近づく。おれの後ろから。重心が移動するたびにベッドが傾くみたいに感じる。おれのケツの穴が言う。誰かの視線を感じる、と。凝視されている、と。こいつはやばいぜ、と。本気ですか、と。ミスター、通行許可証をお持ちで? フランキーはおれの後ろに膝をついたらしい。フランキーかどうか分からない。フランキーが誰なのかもよく分からない。でもきっとフランキーなんだと思う。フランキーは鼻から息を吐き出す。息は興奮に震えている。おれはケツの肉を掴まれる。何も抵抗できない。動けないし、喋れない。やめろということをケツの穴だけで表現しても、相手を余計奮い立たせるだけのような気がする。どうなってもかまうもんか。どうせおれは腐った人間なんだから。生ける屍なんだから。抜け殻なんだから。細かいことは言いたくない。おれは後ろから犯される、冷たいローションを塗りたくられて。ねじ込まれる。ぐりぐりぐりと。長くて苦しい旅だ。おれの一存ではどうにもならない、苦痛に満ちた旅。この旅にはどうやら見物客がいるらしい。おれは犯されることになる前から気がついていたんだと思う。一人。もう一人。おそらく二人の見物客。二人ともフランキーの側の人間に違いない。その二人は、今や旅に参加しようとしている。おれの苦痛を増すために。おれには拒否しようもない。二人とも、今までじっとしていたらしい。おそらくはベッドの上で情けない格好をしたおれに対して興味も払わずに。興味を持たれていれば、何か感じただろうから。もしかしたら、その二人にしてもすでにおれに何かしていたのかもしれない。何かして、少し飽きが来ていたのかもしれない。だとしたら、そのままでいてくれてもよかったのだが。その二人は何者なのか。仮に、おれに押し入っている奴がフランキーだとするなら、あとの二人が誰なのか考えるのは、そう難しい問題じゃないかもしれない。おれにはそう何人も登場人物を思いつけないんだし。ベチッと打ちつけるような音がする。何かが空を切る音。続いてベチッ、ベチッ。おれは何も感じない。フランキーがうめく。ぶたれているのはフランキーらしい。笑い声がする。ヒステリックな。ベチッ。サディスティックな、引きつったような短い笑い。フランキーは鞭かベルトのようなもので肉を打たれているらしい。肉を切らせて、モノが立つ。それがおれが彼をフランキーと呼ぶ理由だ。フランキーを打ちつけているのは女らしい。笑い声で分かる。若くはないらしい。動きが俊敏さに欠けることから分かる。打たれるたびにフランキーが上げるうめき声には、苦痛と喜びが入り混じっている。おれはドロシーおばあちゃんを連想する。イメージがぴたりと当てはまる。おれは罠に落ち込んだような気持ちになる。もう一人が誰かも分かりそうな気がする。そいつは部屋の隅で行ったり来たりして、ときどきくすくす笑っているらしい。大人の男の笑い声。その男が目にしているものは、それほど愉快なものらしい。あるいは、どうしたらいいか分からなくてそんな風に笑っているのかもしれない、何か道徳的にいけないことをしているのだと分かって。もしかしたら、自分も参加したいと思って落ち着かないのかもしれない。ときどき聞こえるそのくすくす笑いが、まるで彼が知恵遅れであるかのような印象をもたらす。おれの中で、その男の気配にみつやすくんのイメージが当てはめられる。みつやすと名づけられ、そう呼ばれるようになった男。自分の予想が間違いないもののように思える。根拠はどこにもないが、それしかないとおれは感じる。フランキーは打たれるたびに勢いを増しておれにぶつかってくる。フランキーが後ろからぶつかってくるたびに、おれの顔はシーツに擦りつけられる。ドロシーはフランキーをけしかけるように打ちつける。ドロシーは鞭打つ調教師。フランキーは尻を打たれる馬。おれは馬場。馬場の泥濘。フランキーは泥濘にはまった馬。ドロシーは馬に苛立つ調教師。フランキーは泥沼でもがく馬。おれは泥だらけの馬場。ぐちゃぐちゃにかき回される。フランキーは泥濘でのたうちまわる馬。ドロシーは動物虐待を楽しみはじめている調教師。みつやすくんは馬券を握りしめてレースの成り行きを見守る観客。自分がいくら借金しているのかも分かっていないギャンブラー。レースは荒れる。どちらがゴールかも分からなくなり、ルール無用になっていく。おや。おやおや。おれはみつやすくんの気配がいつの間にか失せていることに気がつく。まさか、楽しんでしまっていたのではあるまいな。激しく揺られながら、ほとんど脳震盪を起こしかけながら、おれはみつやすくんの気配を探す。たいして広くない部屋のどこからもみつやすくんの息遣いが感じられない。トイレかバスルームに消えたのか。そんなものがあったとして。おれは焦ったようになる。そんな必要はどこにもないのに、ほとんど必死になってみつやすくんの気配を求める。少なくとも、そうしていれば自分を直視しないで済むから。突然、耳元に息が吹きつけられる。おれはびくっとなって首をこわばらせる。すぐそこで笑い声が起こる。息が吹いてきたところから。みつやすくんの声。おれを馬鹿にした笑い声。おれが昔からよく聞かされてきた笑い、笑いものになっているおれ。すぐ脇にいて、じっと息を潜めていたのだ。へらへらいう笑い声が続く。おれはぞっとする。その頭の弱そうな笑い声の持ち主が、おれ自身みたいに思えるから。そこにおれがいて、この無様な姿を見て、品性の欠片もない能無し野郎みたいに笑っているような気がしたから。おれは心底ぞっとする。それが本当の自分のような気がして。あるいは、自分がいるべき場所はそこであるような気がして。それこそ自分に与えられた役回りであるような気がして。おれは口にものが詰め込まれた状態で、叫べないままに叫ぶ。激しく揺られ続けながら、叫べないままに叫び、おれの意識は途絶える。
何かが聞こえたような気がして、目が覚める。
ベッドの上ではないらしい。
暗くてよく分からない。窮屈な感じがする。肩と尻が硬い面に当たっている気がする。背中はやや浮いているらしい。閉じ込められている感じがする。身体を思うように動かすことができなくて、何も確かめられない。酸素も十分にあるかどうか分からない、こんな朦朧とした意識では。かすかに揺れているらしい。震動を身体全体で感じる。そんな気がする。遠くから、非常に遠くから、つい今しがた聞こえたような気がした何かが、また聞こえてくる。何とか気を確かに持って、耳に意識を集中する。少し油断すると、また眠ってしまいそうになるから。
Must you dance every dance with the same fortunate man
You have danced with him since the music began
Won`t you change partners and dance with me
何か外国語らしいと分かる。音楽らしいと分かる。
Must you dance quite so close with your lips touching his face
Can`t you see I`m longing to be in his……
音楽は突然途切れる。おれはまた眠りに引き戻されそうになる。あるいは、気を失いそうになる。どちらなのか自分でも分からない。他の事となるともう何一つ分からない。まどろむような感覚。言い争うような声が聞こえる。やはり遠くだ。非常に遠くから。あるいはその声でおれはまた意識を取り戻す。あるいは目が覚める。どちらにしろ同じことだ。男と女の争う声。あるいは、男はもう一人。女と男と男が言い争う声。それぞれの立場からの主張。内容は分からない。一人の男はまるで役に立たないらしい。そいつはとうとう泣き出してしまう。かすかに不快感を覚えるような泣き声。女がヒステリックな声で責める。男はしゃくりあげてから、何とか堪えようとする。まもなく、三人はそれぞれ別の出口から外に出る。ということは、三人は何かの中にいたらしい。別々の三つのドアが閉まる音がして、おれのいるところも揺れる。ひょっとしたら、おれも同じ空間にいたらしい。とはいえ、三人のやり取りはやけに遠く隔たって聞こえたから、何らかの仕切りはあったんだと思う。いきなり上で蓋が開くような気配がする。ひんやりとした空気が流れ込んでくるのを感じる。光を感じる。出口はそこにあったということらしい。おれは掴まれる。身体の何ヶ所かをがっしりと。自分で出ることができないから、出してくれるらしい。助け出すためかどうかは分からない。遊園地に連れて行ってくれるわけではないと思う。おれ自身は、出たいのか出たくないのか、どうもはっきり分からない。連中がおれを出したいというなら、好きにすればいい。どうせ抵抗なんかできないんだから。おれは男二人に掴まれる。掴み方や感触で男だと分かる。そして持ちあげられる。というより、引きずり出される。おれが閉じ込められていた牢獄から。出たってそこもまた別の牢獄だろうが。おれは重いらしい。おれが非協力的だから、余計に重く感じるんだろう。でも、どうしようもない。連中は苦労する。おれを丁寧に扱う気もないらしい。おれはあちこちを角や出っ張りにぶつけたり擦ったりする。そうして頭から転げ落とされる。重力に逆らえず、受身も取れない。頭と肩とで自分の体重を受け止める。まず頭で。続いて肩で。元気なときだって受身なんか取れなかっただろうが。たいして痛みは感じない。感覚が鈍くなってしまっているらしい。あるいは、麻痺してしまっているらしい。
何かが聞こえたような気がして、目が覚める。眠るか意識を失うかしていたらしい。ベッドの上ではないらしい。身体が接している面がひんやりとしている。空気も湿り気を帯びて冷たい。下は平らな面ではないらしい。土ではないかと気がつく。聞こえたような気がしたのは音楽ではないらしい。音楽だったようにも思えたが。じゃく、じゃく、という音。少し離れた地面から。どうやら土を掬う音のようだ。シャベルで地面を掘っているらしい。ざっ、ざっ、と掬った土を脇に捨てる音がする。様子は見えない。後ろの方でやっているらしいが、おれには体勢を変えることはおろか、首を回すこともできないから。それ以上に、目を開くことさえできないから。いや、目を開くことはできる、ようだ。だが、開いても何も見えない。目は、何かで完全に覆い隠されてしまっているらしい。おれは自分が妙な格好で地面に転がされているらしいことに気がつく。腕は背中に回され、足は股を開かれ膝を折り曲げられて、その状態でどうにかして固定されているらしい。服も着ていないらしい。もしかしたら、下着さえつけていないのかもしれない。股の間がスースーするから。力も入らない。わずかに揺れ動くことができる程度。それも本当に揺れているかどうかは分からない。自分でそんなつもりになっているだけということも大いにありうる。じゃく、じゃく。地面にシャベルが刺さる音がするたび、頭の中で鈍い痛みがうずく。まだ痛みは感じるらしい。とっくに感じなくなってしまったかと思ったが。とはいえ、痛いと思い込んでいるだけというのもありえる話だ。何事も疑ってかかるに越したことはないからな。穴の堀り手は二人いるらしい。シャベルはちゃんと一人に一本あるらしい。地面は硬くないらしい。シャベルを突き刺すたび、土はたっぷり削り取れる。ざっ、ざっ。土を投げ捨てる音の重みからそれが分かる。穴はすでにだいぶ深くなっているらしい。おれはこの状況に思いをめぐらせる。ごく最近、似たような場面に遭遇したことがあったような気がして記憶を辿る。その記憶と今起きていることを擦り合わせようとして。あるいは、単に想像してみただけのことだったのかもしれない。そうだったとしても、戯れにしてみたわけではないと思うが。ではどういうつもりでしてみたのかと問われても困るが。脇腹の辺りが何かもぞもぞする。くすぐられるような感覚がある。おれはその感覚を突き止めようとする。虫が歩き回っているらしい、肌の上を直接。錯覚でなければ、とおれは注意を促す。今の自分には錯覚するということがいくらでも起こりそうな気がして。虫はおれの上をちょこまかと移動する。それに合わせて、くすぐったいような、むず痒いような感じも移動する。振り払おうにもできない。虫の足取りには警戒している様子も感じられない。おれはそれくらい弱っているらしい。虫一匹で何も考えられなくなる。せめてもう少し下の方を這い回ってくれたら、気持ちよくなれるかもしれないのに。棒を上がったり下がったりなんかして。それがきちんと棒になってくれればの話だが。おれの古ぼけた短いゴムホースが。そんな期待はできないかもしれない。いずれにしろ、虫に思いは通じない。虫はまったくの気まぐれで飛び去る。どうして飛び去ったなんて分かる。ただ滑り落ちただけかもしれない。だいたい、羽根がついてるやつかどうかも分からないのに。どこかで立ち止まって、そのままじっとしているだけかもしれない。そういう思慮深げなことをする虫だということもありえる。おれは努めて意識をしっかり保ち、自分が置かれている状況を整理しようとする。今この場に何人いるのか、それが一体どういう連中なのかを考える。というより、思い出そうとする。知っているはずのことのように思えるので。おれは何人かに名前を与えたような気がするが、うまく思い出すことができない。気まぐれにつけた名前だからかもしれない。名前というものにある、確固たる何かが欠けていたせいかもしれない。人物と名前との結びつき。物と名称との結びつき。これしかありえないという、そういう感じ。また何かがおれに触れてきたのを感じる。今度は虫じゃない。もっとしっかりした感覚だ。力を入れておれを掴んでいる。おれの、折り曲げられた足の、足首のところを両方とも。右足首と左足首を持っているのは、別の人物らしい。それぞれ両手を使って掴まれているから。二人とも男であるらしい、掴み方や感触でそうだと分かる。おれは足を持たれて仰向けになって地面を引きずられる。背中に回された腕と後頭部が地面に擦れる。段差か何か障害物に、腕がひっかかる。力尽くで引っ張られる。ぐぎっという音がする。すぐ近く、おれの身体のどこかから。多分、腕の骨が折れたんだと思う。肩かもしれない。かなり無茶な角度に曲がっている。麻痺しているらしくて痛みは感じない。連中は立ち止まって治療してくれようとはしない。気がついたかどうかさえ分からない。救急車を。怪我人だ。繰り返す。救急車を。無駄だとは思ったが、やはり無駄らしい。連中は引きずる力を緩めもしない。足を掴む手に急に力が入るのを感じて、嫌な予感がする。二人で呼吸を合わせ、勢いをつけておれを引きずる。おれの頭が、マッチに火をつけるみたいにして、地面に擦れる。その直後、おれは宙に浮く。手を離され、放り投げられるようにして宙に飛び出す。おれは後ろ向きに回転しながら落下する。わずかな高さを。なぜ分かる。何も見えないのに。奈落の底へまっ逆さまかもしれないのに。だが、これが奈落の底だというなら、さっき掘っていたらしい穴はどうなる。脱糞して、埋めて帰るのか。まさか。おれはその穴に落ちているに違いない。どこに底があるのかはっきり分からないという点では同じだが。スローモーション。後ろ向きに回転しながらのスローモーション。そして頭からの着地。そのとき、もう一度、さっきと同じぐぎっという鈍い音がする。さっきよりもっと近くで。すぐ近くで。頭の中で。
何かされたような気がして、目が覚める。眠るか意識を失うかしていたらしい。ベッドの上ではないらしい。身体が接している面がひんやりとしている。空気も湿り気を帯びて冷たい。身体は天地逆になっている、らしい。いや、逆なのかどうかはっきり分からない。どちらが上でどちらが下か、うまく掴むことができない。何も見えない。どこにいるのか分からない。何か細かい粒を身体中に浴びる。続けざまに何度も。何者かが、じゃく、じゃく、とそれを掬って、掬ったものを浴びせかけてくる。おれはそれが土だと分かる。多分、記憶を辿ってのことだと思う。それが身体に当たる感触から、間違いなく土だと確信する。土が上から降ってくる。とすると、どちらが上なのかだけははっきりしたらしい。しかし、次から次へと土をかけられて、考えはまとまらなくなる。調子のいいときだって、ぶつ切れにしか考えられないのに。それでも何とか考えようとする。でも、何について考えたらいいのか、そこのところからすでに怪しくなっている。おれはおれ自身のことを考えようとする。まるでこれが最後のチャンスであるかのように。そこからはじめるのは、そう見当違いのことではなさそうで。いつだって、何もかもが、そこからはじまるし、はじまっているんだから。また性懲りもなくそこに戻るのかという、うんざりした非難の声も聞き取れるような気がする。とっくの昔からはじまっていたんだとしたら、今更どうにかしようとしたって手遅れだと。もう取り返しのつかないところまで来てしまっているのだと。おれの中の、おれではない声。いや、それもやはりおれなのかな。時間が迫っているような気がする。土はどんどんかけられて、おれは埋まりつつある。おれの終わりがやってくる。そこまで迫ってきている。やれやれ、やっとだよ。どうしてこんなことになってしまったのか、とんと分からないが。それでも、今のこの状況について、確実にこうなるということを、もしかしたら何度も何度も、想像したことがあったような気がする。ある種の願望を伴って。あと二言か三言は喋ることができるかもしれない。だが、せいぜいそんなもんだろう。仕方ない。誰だって途中で、中途半端なところで幕切れを迎えるのだから。そして、そんなことを言っているせいで、一言残すのが関の山になってしまう。天使たちがハープを奏でながら舞い降りてくるのが見えるみたいだ。とすると、天国に迎え入れてもらえるのかな。唐突に、ほとんど何の前触れもなく、幸せでした、と言い残したくなる。人間的な思いに駆られて。一言にまとめて。だが、早まるんじゃない。そんな言葉はおれがお人好しの間抜けであり、長大な時間をただぼんやりと無為に過ごしてしまったということの証明にしかならないだろう。そんな言葉は、こういう事態になったらそう言うように教え込まれただけのものだろう。望みもしないのに与えられた間違った教育をどうにかして振り払うことが、おれの主要な課題だったのに。この土壇場に来て、すべてを台無しにするつもりか。よく考えろ。しかし、おれにはよく考えることはできない。ほんのわずかでもまともに考えることはできない。ほとんど何も考えられない。おれは何も考えられない。時間がすべてを解決してくれるのを待つだけだ。土と一緒に。土の中で。土の下で。おれは何も考えられない。おれは何も考えない。おれは何も、おれは、おれは、何も、何も、何も、何も……。