排泄小説 12
劇場を飛び出し、深夜の新宿を走った。行く当てはなかった。ただ映画館から遠ざかりたかった。通りにはぱらぱらと人がいた。タクシーが走っていた。いきり立って奇声をあげているグループがいた。突然、路地から誰かが躍り出てきて、おれに掴みかかった。おれはとっさにそいつを投げ飛ばした。そいつは路肩に転がって苦しげにうめいた。どこかの酔っぱらいだった。酔っぱらいは他にもあちこちにいた。そいつらがみんな、ふらふらとおれに近づいてくるようだった。
大通りに出ると、おれは辺りを見回した。離れた脇道から影がよろめき出るのが見えた。あの姿形。あの歩き方。滑石のジジイのように見えた。そいつはおれの方に向かってゆっくり歩いてきた。おれはくるりと背を向けて逃げ出した。
どこに行ってもやつが追ってくるみたいだった。おれは少し安心できそうな場所を見つけてはしばらくとどまり、また不安になってくると移動するということを繰り返した。駅周辺。バスターミナル。歌舞伎町。新宿中央公園。夜中でも人がいる場所。周囲をよく見渡せる場所。そうやって一晩中移動しながら過ごした。やがて夜が明けた。街が動きはじめた。やつの気配を感じなくなった気がした。
おれはそのあともしばらく新宿の街を歩き回った。何が起きているのか分からなかったし、どうしたらいいのかも分からなかった。途中で手元の金を一部残して預けた。おれのことを気にするやつなど誰もいなかった。昨夜の映画館の前を通ってみると、オールナイト上映の看板やポスターはすっかり取り払われていた。ジジイの気配もどこにもなかった。昨夜のことはすべて幻だったような気がしてきた。
いったん部屋に帰ることにした。バイトは今日明日と二日続けて休みだった。バイトなど本当にどうでもよかった。金はあるんだから、このままどこかへ行ってしまおうかとも思った。だが、そうするにはあまりにも疲れていた。今はただ布団にもぐり込んでたっぷり眠りたかった。
新宿からの下り電車は、すでに通勤通学のラッシュも過ぎて苦もなく座ることができた。同じ車両の乗客を見回すと、みんながみんな携帯をいじっていた。おれは、駅に着くたびに誰が乗り降りするかに神経を尖らせた。妙なやつが乗り込んでこないとも限らなかった。
乗ったのは小刻みにドアが開く各駅停車だった。昨夜とは事情が違ったし、トイレのついてない乗り物に長々閉じ込められたくなかった。いつうんこに行きたくなるか知れない体をしていたらそうするしかないのだ。案の定、おれは道半ばでうんこをしたくなった。今度は腹が痛くなったわけではなかった。ただ便意をもよおしたのだ。
我慢は毒だった。したくなったときに済ませておかないと、あとでトラブルになるだけだ。目的地まであと少しだからこのまま行ってしまおうなんて呑気なことを言っていると、まるでおれがいい気になっているとでもいうように便意は腹痛に姿を変える。それがおれの体だった。何をするにもうんこが主導権を握っていた。何よりも優先すべきはうんこにまつわることなのだ。
おれは次の停車駅でいったん降りた。各駅しか停まらないこじんまりとした駅で、利用者も少なかった。トイレはホーム内の改札に近いところにあった。中に入ると、同じ電車を降りたと思しき男が小便をしていた。そいつは難なく小便を終わらせると手も洗わずに出ていった。
おれはいつもこういうやつが羨ましかった。いつだってしたくなったときにすっとトイレに行き、すっと用を足し、すっと立ち去ることができるやつ。トイレを出た瞬間に、今自分がトイレに行ったことを忘れてしまえるやつ。次にトイレに行きたくなるまで、トイレのことなど一ミリも考えないでいられるやつ。これまでただの一度もトイレ絡みのトラブルに巻き込まれたことなどないやつ。
何もかもうまくいくとはそういうことだった。おれもそういう人間に生まれたかった。そうすればすべてが違ったはずなのだ。こんな、トイレに行くたびに周回遅れになるような生き方を強いられなくて済んだはずだ。
おれは一つしかない個室を調べた。薄水色の使い込まれた洋式便器はあちこちに傷があり、便座には避けて座るのが難しい場所にタバコの焦げ跡が二つ三つついていた。だが、紙はきちんとあったし、流し忘れたくそが残っているというようなこともなかった。おれはここに決めた。
かなりの大物が出た。二、三日前に恵野茶子に切断するのを邪魔されたやつに引けを取らない、ボリュームたっぷりのやつだった。出すのに何の苦労もいらなかった。年に一度あるかないかの手応えをまたしても感じ、おれはどこか満足げに股の間から便器を覗いた。
うんこは三つのかたまりに分かれていた。それが便器の奥の口がすぼんでいくところに三本入りのふ菓子のように横一杯になって詰まっていた。見るからにがっちりはまっていて、このままでは流せないのは確実だった。お池にはまってさぁ大変、だ。
そんな状況にも関わらず、おれはまるで追い風が吹いているような気分になった。腹の張り具合もすっきりして、ケツの穴も爽快だった。おれはいったん立ちあがり、自分のひり出したうんこをしばらくうっとりと眺めた。うんこ品評会があるなら入選は確実だった。
そのとき、トイレに誰かが入ってくる足音がした。おれは何となく動きを止め、そのままの体勢でじっと息をひそめた。そいつがさっさと用を足してトイレから出て行くのを待とうとした。ところが、事はすんなりとは行かなかった。そいつはまっすぐ個室の方に歩いてきたかと思うと、ドアをノックしてきた。
空気が一気に張りつめた。退路を断たれたおれは、返事をしないでそのままやり過ごそうとした。このまま黙っていればあるいはとも思ったが、すぐにもう一度ドアが叩かれた。さっきよりも鋭い叩き方だった。仕方なく、おれは内側からドアを叩き返してやった。すぐには出ないということが分かるような叩き方で。
今度はやつが黙り込む番だった。おれはズボンを膝下まで下ろしたまま、音を立てないように慎重にドアの方に向き直った。下の隙間からすぐ向こうに立つやつの影が見えた。立ち去る気配もなかった。おれとやつの駆け引きだった。おれは動かない。やつは立ち去らない。ドア越しに二つのくそがせめぎ合っていた。
おれはすでに用は足していた。あとはケツを拭いてくそを流せばいいだけだったが、それはできなかった。ケツを拭くことはできる。だが、くそを流すことの方は無理だったのだ。試してみなくても分かっていたし、今となっては試すこともできなかった。水を流せば、やつはおれがすぐにも個室を出るものと思うだろう。なのに、おれは出ない。流れないからだ。水を流す音がしたのにドアが開かなければ、やつはまたノックしてくるだろう。さっきよりも苛立ちの混じったノックを。
やつが入れ代わりでここを使うことが分かっているのに、くそを放置したまま出るわけにはいかなかった。やつは間違いなく便器の中のくそに気づくからだ。すれ違いざまにおれの顔も見るかもしれない。この信じられないくそをひりだした男の顔を。やつはおれの顔を心に刻み、ことあるごとに思い浮かべるだろう。そんなのはまったく望むところではなかった。
どでかいくそが出たことに満足してないで、さっさとトイレを出ればよかったのだ。詰まったうんこなんか放置して。顔を見られるよりずっとましだった。だが、後悔しても遅い。おれはまさに袋の鼠で、この個室には道具一つなかった。とすれば、自分で流れる大きさに切り分けるしかなかった。この神の右手を使って。またしても。
やつがまたノックをしてきた。おれは無視して便座に座り直し、まずはケツをしっかり拭いた。紙を巻き取る音が聞こえれば、やつもおれが出る準備をしていると分かるはずだ。ケツをすっかりきれいにすると、おれは再び大量の紙を巻き取り、それを神の右手に巻きつけた。
おれはその右手を顔の前に掲げ、祈りを捧げるようにして呼吸を整えた。
そのとき、ふと気がついた。まさかあいつか? あのジジイがまたおれを追ってきたのか? おれは改めてドアの下の隙間からやつの影を見た。それはさっきと同じ場所から少しも動いていなかった。見ていると、普通の人間の影にも思えないような気がしてきた。
急に息が苦しくなったようだった。おれは本当に絶体絶命の袋の鼠なのか。おれは捕まって、そして――。
やつがまたドアをノックした。激しく、続けざまに叩いてきた。おれは縮みあがり、よろけて便器から落ちそうになった。くそに構っている余裕はもうなかった。おれは右手に巻いたトイレットペーパーをほどいて床に捨てた。ズボンをあげる方が先決だった。
やつは今や個室をまるごと揺すっていた。ドアががたがた揺れ、蝶番が緩んでいくようだった。このままではドアを破られるのを待つだけだった。やつを突き飛ばして逃げるしかなかった。
おれは覚悟を決めて鍵に手を伸ばした。だが、くそっ、ドアは内開きだ。絶体的におれの方が不利だ。
「早くしろよ!」
ドアの向こうのやつが言った。
滑石のジジイの声ではなかった。どこの誰だか知らないが、もっとずっと若いやつの声だ。なんだ、違うのか。おれはほっとするあまり鍵を開けてしまいそうになった。はっとなって手を止めた。まだダメだった。くそが便器に残っていた。
紙を巻き直している余裕はなかった。おれは裸の神の右手一つでくそに立ち向かった。三本入りのふ菓子のようになって詰まったくそを、ほじくり出すようにしてそれぞれ半分に切断した。六個になったくそを見て、まだ流れるかどうか怪しいと思ったのでさらに細かく切り分けた。楽しい泥遊びだった。右手はくそまみれになり、爪の間にもくそが詰まった。仕方ない犠牲だった。おれは紙でできるだけ汚れを拭き取ると、水洗のボタンを押した。くそはきれいさっぱり流れた。おれは汚れた右手を後ろに隠しながらドアの鍵を開けた。
「遅えんだよっ!」
個室から出た途端、おれは表にいたやつに押しのけるようにされた。おれはよろけて壁にぶつかり、まだ洗っていない右手で自分の服を触ってしまった。
入れ違いにトイレに入ったのは、冴えないメガネの男だった。どずぱばばぱぱっ! 速射砲のような勢いでくそが放出される音がした。やつはやつでよほど切羽詰まっていたらしい。おれは洗面台で手を洗いながら、そのメガネのことを考えた。最初は理解を示してやろうとがんばった。だが、だんだん許せなくなってきた。やつのためにこの手を犠牲にしてまでくそを流してやったというのに、あの態度はありえなかった。おまけに、おれは穢れを服にまで移してしまったのだ。手が触れた部分からくその臭いが立ちのぼってくるような気がした。政治家みたいにこの右手でやつとがっちり握手してやればよかった。
今度はおれの番かな。おれがドアの外でやつが出てくるのを待つ番かな。トイレがふさがっているときにどうしたらいいか、やつに礼儀というものを叩き込んでやろう。
そのとき、駅のアナウンスが聞こえてきた。すぐに次の電車が来るのだ。おれの乗る各駅停車が。おれは鏡の中の自分に言った。やつがくそを終えて出てくるのが先か、電車がホームに着くのが先か。やつが先か、電車が先か。やつか、電車か。やつか、電車か。やつか、電車か――。
電車が先だった。おれは個室のドアを一瞥して手を振って水を切り、トイレを出た。やつは命拾いし、おれは電車に乗った。
いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。