「共犯」と「正しさ」は両立できるのか?
日本と中国で共同製作された映画『コンプリシティ 優しい共犯』。
2018年に完成したものの、日本では上映先が決まらないまま、トロント・ベルリン・釜山など数々の国際映画祭に出品。高い評価を得て、2020年、日本でも上映が始まった。
「『法』よりも『情』を優先してしまう瞬間が、人間にはある」。監督をつとめた近浦啓さんはいう。
社会問題として取り上げられることが多い技能実習生制度を背景に、近浦さんが表現したかったヒューマニズムとは。
<あらすじ> 中国 河南省から技能実習生として日本に働きに来た青年は、研修先から失踪し、不法滞在の身となる。故郷の母には研修を続けていると偽りながら、斡旋される窃盗に手を染めていた。そんな中、ひょんなことから他人になりすまして山形の小さな蕎麦屋に住み込みで働き始めることに。厳格な店主がきりもりする蕎麦屋で青年は怒鳴られながらも出前をこなすうち、親子のような関係になっていく。出前先での女性との出会いなど、青年は青春を取り戻すかのような日々を送るが、身分を偽る生活が長く続くはずはなく…(作品ホームページをもとに作成)
映画のシーンから。©️2018 CREATPS / Mystigri Pictures
近浦:外国人技能実習制度という社会的な背景を下敷きにしていますが、「人間が成長する物語にしたい」と思って作りました。
主人公の青年は普通の映画の主人公とは違い、すごく受け身です。「何かの困難を乗り越えるために戦うモード」がまったくない。
最初から最後までフラフラしていて、いろんな人に支えてもらっている。お金を借りて日本に来たかと思ったら、仕事先で出会った女の子と遊んで、ご馳走しようとして財布を失くしてしまったり。表面だけ見ると本当にしょうもない奴です。
映画のシーンから。©️2018 CREATPS / Mystigri Pictures
そんな「モラトリアム」中の彼が、いつ自分の足で立とうとするのか。ラストは、彼が現実に戻り、現実に向き合い始めるところで終わります。
「この後どうなったんだ」とか「これで終わって欲しくなかった」という意見も頂きました。でも、一歩を踏み出すことで彼のベクトルが変わった、ある種の成長。その瞬間が撮りたかったんです。
現代は「隣の人が怖い時代」だと思うんです。「人と関わること=リスク」みたいな。この作品はそんな世の中へのアンチーテーゼでありたい、と意識して作りました。
映画のシーンから。©️2018 CREATPS / Mystigri Pictures
ーー蕎麦屋の主人との「共犯」が生まれた瞬間のシーンが印象的でした。「リスクもあるのに」と思ったのですが。
あれは、ヒューマニティへの問いを含んでいます。もしも何度追い出しても帰ってくる野良犬がいて、雨の中また帰ってきたとき、人は野良犬を追い出せるか、という。
社会的な「法」よりも「情」が優先してしまう瞬間が、人間関係にあってもいいじゃないかと思うんです。
この作品では、Complicity(=共謀、共犯)という言葉を、そのまま日本語に置き換えることができなかった。「優しい共犯」としたのは、主人公を取り巻くすべての人たちが彼に対して親切だから。自分への「優しさ」が度を超したときにようやく、彼は今のままじゃいけないと気づく。
この作品のバックグラウンドになっている外国人技能実習制度は、海外からの実習生が企業で働きながら技術を身につけることを支援する制度です。でも現実は、安い賃金で働かせている企業が多いと言われています。
主人公は実習先から逃亡し、偽名を使って働いている身です。それを知った後もかくまい続ける蕎麦屋の主人ともども「違法」な状態にある。でも店主が一生懸命仕事を教えて主人公は大きな教訓を得て終わります。
2人の関係は「合法」「違法」で判断されることが多い。でもその裏返しは、題材として興味深いものがあります。いったい「法」とは何だ?と。
映画のシーンから。©️2018 CREATPS / Mystigri Pictures
ーー「共犯」と「正しさ」は両立できる、と?
両立も相反もあるでしょう。ただ、多様な価値観と向き合う時は普遍性の有無を常に考えるようにしています。法に照らし合わせるだけで「いい・悪い」を判断するのではなく。
今の日本だから「その価値観」「そのルール」が受け入れられている。でも、100年、200年も前ならどうか。違う国だったらどうか。
これだけ世界がつながるようになった今、共通の価値観やルールは必要なのだと思います。そうでないとプロトコルがないに等しい状況になってしまうから。
同時に、「ルール」と「ヒューマニティ」の間にコンフリクト(葛藤)が生まれるはずです。コンフリクトが生じるところに映画が生まれるんだと、僕は思います。
映画のシーンから。©️2018 CREATPS / Mystigri Pictures
ーー映画の世界に入ったのはいつからですか?
大学時代です。当時、「ドグマ95」と呼ばれるデンマーク発祥の映画制作のムーブメントが起きていました。
商業的な映画へのカウンターとして、照明やスタジオセットを使わないなど、リアルさを追求する運動で、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(ラース・フォン・トリアー監督)などがその流れから生まれました。
自分もこういう方法で映画を撮りたいと、友人とカメラだけもって撮影しました。でも自分が思っていたようなものにはならず、悔しくて映画の勉強を始めたんですね。
といっても独学です。学校に通う選択肢はありませんでした。
映画制作を学べる国公立の学校は見つかりませんでした。私立の映画学校ならどうかと人に通う意味を聞くと「映画志望の仲間ができること」と「機材が使える」の2つだけでした。
映像制作の現場で雑用やアシスタントワークを3年ほどやりましたが、その延長には自分の理想とする何かがないと感じました。
ですから、2006年に映画とは全く違う分野で起業し、映画を撮り続けることができる環境を模索しながら、映画の美学的側面と映画史の研究を続けました。好きな映画をかたっぱしから絵コンテに起こしていくことを10年ほど続けました。
利益という「常識」から乖離した作品
近浦:映画づくりには、膨大なお金がかかります。
欧州では、公的な助成金を集めて作品を撮ります。対して米国は助成金制度はなく、基本的に企業や個人の資金がベースになっている。日本には助成金制度もありますが「取れたらラッキー」という感覚です。米国同様、基本的に企業や個人の資金で制作します。
企業や個人から資金を集めて映画を撮るときは、利益を出すことが絶対的な前提です。だから、作品の内容や登場する俳優も、収益や動員数がある程度見込めるものになりがちです。
「この俳優が出演すると、ファンが何人いるから何人の集客が見込める」「この小説は何万部売れた。そのうちの1%が見てくれたら何人」という試算を積み上げていく。
この慣行の良し悪しを言うつもりはありません。商業映画の現実ですから。ただ、根拠を積み重ねた予測可能な作品は、自分が思い描いているものとあまりにもかけ離れていました。
そういう意味で言うと、「コンプリシティ」の企画書をどこかのプロデューサーに見せて「この企画で1億円の利益を生み出してください」と言っても「ふざけるな!」と言われてしまうでしょうね。
そのくらい、この作品は資金回収を前提にした制作の「常識」からはほど遠いものでした。根拠のないものにお金は出せませんよね。僕には勝ち目がない。だから自分で何とかやって行ける道を探しました。
ーー具体的にはどうやって?
僕が経営しているメディア会社「クレイテプス」の自社製作として位置づけました。それと中国側のプロデュースをしてくれた中国人の映画作家フー・ウェイが、彼の経営する会社から4分の1の出資をしてくれました。
世界各地の映画祭では評価をいただきました。
トロント国際映画祭(2018)では、『万引き家族』や『寝ても覚めても』などを含む日本5作品のうちの1つに選ばれましたし、釜山国際映画祭、ベルリン国際映画祭(2019)などの映画祭にも公式に参加しました。
映画祭の舞台で、制作への思いを語るという晴れがましさの一方で、なかなか配給会社が決まらないという現実もありました。さっき話した、採算性の問題です。映画祭でいくらいい評価をいただいても、いざ一般の劇場で上映するとなると、「客を集められる作品か」という価値観がまず先にくる。
自分にとって意味のある物語を紡いでいく
ーー「コンプリシティ」は日中合作ですね。
「日中合作」とはいえ、親友(フー・ウェイ)と一緒に作った映画という感覚です。
日本映画が中国の劇場で一般上映されるのは相当ハードルが高いです。ハリウッド映画も全部含め、外国語映画の枠は年50本しかないからです。日本から枠に入れるのは『ドラゴンボール』や『ドラえもん』といったアニメーションが中心でした。
でも今回、フー・ウェイが出資してくれたことで「日中合作」扱いになり、その50本の枠外で、劇場での上映が可能になりました。
ただ、そのためには「ドラゴンマーク」という政府検閲に通る必要があります。外国人技能実習制度から逃れた「不法移民」が主役という映画が、検閲を通るだろうか。例がないだけに、ここが大きな争点でした。
1月に1回目の検閲結果が返ってきました。
検閲は点数方式で、通常5点満点中2点〜2.5点と、修正点や削除のコメントがつきますが、「コンプリシティ」は、5点満点中の4.5点でした。指摘されたのは、字幕のミスとお経をあげるシーンへの字幕だけ。
作品自体への指摘はありませんでした。「こんな高い点数見たことない」とフー・ウェイが驚いてました。
ーー作品の世界観が伝わったのでしょうか。
近浦:そうかもしれない。「テーマ」の欄には「情感」と書かれていました。制度や法を超えた、普遍的なものとしてとらえてくれたのだろうか。それが本当に伝わっているのなら嬉しいです。
次回作の脚本はもうできています。「コンプリシティ」とは全く違う、日本が舞台のヒューマンサスペンス。どんな人たちと制作してどんな規模で公開しようかといま考えているところです。
僕の性格上、誰かがお膳立てしてくれたところにシュッと行って監督を務めるのはあまり興味がない。どれだけ苦労しても何年かかっても、自分にとって意味のある物語を紡いでいきたいです。
近浦啓 (ちかうら けい)
1977 年生まれ。2006年にメディアプロダクション「クレイテプス株式会社」を立ち上げる。13 年、短編映画『Empty House』で監督デビュー後、国際的な映画祭で数々の賞を受賞する。18 年、『コンプリシティ/優しい共犯』で長編デビュー。同作はトロント、釜山、ベルリンの国際映画祭に正式出品され、注目を集める。日本では第19 回東京フィルメックスで上映され、観客賞を受賞。2020年8月8日から宇都宮ヒカリ座など各地で順次公開。
取材・文:神山かおり、川崎絵美 写真:西田香織 編集:錦光山雅子
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