「本の福袋」その13 『兄の殺人者』 2012年7月
ミステリーの女王と言えば、アガサ・クリスティである。その知名度や書籍の売上は、おそらく誰にも負けない。メアリ・ウェストマコット名義などの著作を含めれば、長編小説を70作以上、中短編小説を150作以上発表しており、その多くが世界中で翻訳されている。全世界での総出版刷数は約20億冊と推定されており、ギネスブックには、作品の売上が世界一の小説家として記載されている。
クリスティの研究家によれば、不思議な事に、クリスティは評論活動をまったく行なっていない。小説や戯曲はたくさん残されているが、他の作家や小説などに対する批評はまったく残されていないのである。唯一の例外が1961年に出版されたD. M. ディヴァインの『兄の殺人者』だと言われている。
このディヴァインのデビュー作である『兄の殺人者』は、イギリスの出版社が主催した大学教員を対象とする探偵小説のコンクールDon's Detective Novel Competitionの応募作品の一つである。この時、審査員の一人であったアガサ・クリスティが、「最後まで私が読んで楽しめた、極めて面白い犯罪小説」と絶賛したと伝えられている。
ディヴァインは当時、セント・アンドリューズ大学の事務職員であり、大学教員ではなかったために受賞を逃すのだが、この応募作品の完成度の高さから出版されることになった。その本のカバーの袖には、あらすじの紹介の後に「最後の最後まで楽しんで読めた」というクリスティの言葉が引用されているのだそうだ*1。
実際、この『兄の殺人者』の原著のペーパーバック版には“Judged Best Detective Novel by Agatha Christie”というサブタイトルがついている。
『兄の殺人者』の舞台は4月のロンドン、数メートル先が見えないくらいの濃霧が立ち込めている夜である。主人公のサイモンは弁護士事務所を共同経営している兄のオリバーから電話でオフィスに呼び出される。濃霧のために10分で歩ける距離を40分かけて到着すると、そこに待っていたのは兄の射殺遺体だった。自殺に見せかけてはいるものの、他殺であることは明白であった。
やがて、警察の捜査に納得がいかないサイモンは、独自の捜査を始めるのだが、自分のしらない兄の姿に直面する。いったい誰が兄を殺したのか。フーダニット(Who done it?)の本格推理小説である。
一人称の小説なので、読者は主人公サイモンの視線で事件を追うことになる。ちょうど霧が少しずつ晴れていくように、事件の全容が徐々に明らかになっていくのだが、サイモンの判断が常に正しいとは限らない。もちろん、読者には事件を解く鍵はすべて与えられるのだが、容易に謎は解けない。伏線のはり方、人物描写は巧みで、容疑者は極めて限られているのに、真犯人の意外性に驚かされる。なるほどクリスティが絶賛した作品だけのことはある。
ディヴァインの残した作品はそれほど多くなく(たぶん13作)、邦訳されているものは両手で数えられる。すでに『ウォリス家の殺人』は読んだので、次は『災厄の紳士』か『悪魔はすぐそこに』を読もうかと考えている。
ここからは余談。ロンドンは霧で有名であるが、その原因は産業革命以来の大気汚染である。1950年台には自分の足元が見えないほどの濃霧(スモッグ)が発生し、健康を害する人も多かったそうだ。このため1956年に大気浄化法が制定され、石炭の代わりにガスや石油、電気の利用が促進され、名物の濃霧が発生する回数は激減したと言われている。
この小説は1961年に出版されているので、まだ濃霧が時々発生していた頃のロンドンが舞台である。現実にはもう体験できない濃霧に包まれたロンドンを想像しながら読むのも楽しい。
【今回取り上げた本】
D. M. ディヴァイン『兄の殺人者』創元推理文庫、2010年5月、本体900円+税
(注)*1 森英俊「一冊で二度おいしい作家」(『兄の殺人者』の解説)
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