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【復刻版:保存版】琉球最後の三十三君、久米島の『君南風』の謎に迫る

※こちらは以前島に住んでいた「島暮らしのおかもってぃ」氏のブログ記事です。ブログ閉鎖に伴い記事も見れなくなっていたのですが、埋もれさせるにはもったいない良記事でしたので、本人に了承を頂き復刻しました。


※この記事はもともと連載ものとして掲載していましたが、君南風に関しての総まとめ記事として2019年6月19日に加筆・修正しました。第6章を見たい方は以下からお願いいたします。

↓↓↓↓↓以下、本文です↓↓↓↓↓

久米島は今でも、旧暦で行事が催されます。

そして、先日の2019年6月17日は、旧暦の5月15日に当たります。

この日は、稲穂祭(ウマチー)という稲の豊作を祈願する、琉球の古代信仰に則った祭事が催される日。

祭事の担当は、久米島の神女、君南風(ちんべー)

琉球王朝、第二尚氏の時代(16世紀)より、久米島を統べる神女です。

久米島について、少し調べたことのある人であれば、だれでもこの名前には出くわすと思いますが、その出自や役割について知っている人はあんまり多くありません。

そんなわけで、今回は、そもそも君南風って何?という方から、君南風の熱烈なファンの方まで楽しんでいただけるであろう、君南風についての総まとめ集です!

あらかじめ言っておきますとクソ長いです。

それでも読みたいという偏執的な情熱のある方のみ読み進め下されば幸いです。

忙しい人のための記事要約

  • 君南風は琉球王府の整えた神女組織の中の高級神女

  • 久米島の神女組織の頂点に君臨

  • 琉球の古代信仰に則って祭事を行う

  • 久米島には今でも現役の君南風が存在する(12代目)

  • 1500年、オヤケアカハチの乱の討伐で活躍!

  • 元々は琉球王府の支配体制を確立するために派遣された神女だった

  • 君南風は、宇江城按司の子孫と具志川按司の子孫の系統から代々選出される

  • 本当の初代君南風は誰なのか?今でも大きな謎


そもそも君南風とは?

君南風の特徴を要約すると

  • 琉球王府の神女組織の中でけっこうエライ人

  • 久米島の神女組織のトップ

  • 古代信仰に則り祭事を司る神女

です。以降詳しく見ていきます。

琉球王府の神女組織

琉球を統一した尚氏は、中央集権的支配体制を作っていき、その中で各地の神女をまとめて組織化しようとします。

その後の第二尚氏時代の三代目、尚真王の時代、1500年ごろにほぼその形が完成したといわれます。

君南風は、そんな神女組織の中でもけっこうエライ人。

一番トップは聞得大君

聞得大君の初代は、尚円王の王女であり、尚真王の妹にあたる『月清』(1470年に即位)。

それ以降も国王の女、妃、母が代々聞得大君の地位を継承していきます。

そして、その下に「大阿母志良礼(おおあむしられ)」と呼ばれる三女神官が配置され、さらにその下に、「大阿母(おおあむ)」や「掟あむ」「佐事あむ」と呼ばれる高級神女が配置されました。
(※大阿母志良礼以下の高級神女に統一された名前は無さそう・・・上江洲均先生によれば、久米島の君南風は「真壁大あむしられ」の下の「あむしられ」に分類されるそうです。)

この大阿母以上の神女たちを『三十三君』と呼びます。

三十三は『神女が三十三人いる』ということではなく、『たくさんいる』という意味です。

AKB48みたいな感じですね。

久米島の君南風もこの三十三君の1人に数えられる、高級神女でした。

久米島の最高神女

君南風の下に、久米島内の各地の神女は配置されます。

久米島には他にも、せの君、よよせ君、さすかさ、などなど、様々な神女が存在していましたが、首里王府の政策により、君南風を頂点に据えた神女組織に組み込まれてしまった、もしくは消えていってしまいました。

君南風の社殿は仲地にある『君南風殿内(ちんべーどぅんち)』

当時は『仲地綾庭』と呼んでいたそうです。

琉球王朝が作り上げた神女組織は世界にも類を見ないほど、大規模なものだったと言います。

しかし、こうした神女組織も時代の変遷とともに衰退していきました。

薩摩の侵攻、羽地朝秀による政治、秩禄処分、戦争などによりほとんどの神女はその職を失い、また辞してきました。

そんな中、久米島の君南風は21世紀の現在においても、久米島で祭事を司どっています。

上述した琉球の神女組織の三十三君の中で、今も残っているのは君南風だけなんですよ。

琉球の古代信仰に則った祭事

沖縄には、伝統行事と呼ばれるものがたくさんありますが、それらのほとんどは(おそらく)17世紀以降の近世に中国からもたらされたものです。

というのも、エイサーや十六日などの伝統行事の多くは、死者の霊魂や死後の世界を想定しますが、琉球の古代信仰にはそういった考え方がなかったと考えられるからです。

また、おもろで見られるように、陽気で現世主義の琉球人に死後観、特に地獄極楽が教えられ、盆や年忌等の行事が行われるようになった。

(参照:琉球人の思想と宗教 宮里朝光著)

仏教が正式に琉球に伝来したのは13世紀中ごろだと言われていて、その当時の王様、英祖王は浄土宗のお寺まで作っています。しかし、当時の琉球は、古代信仰の神女たちが村落をつかさどる祭政一致の共同体運営がメジャーであり、仏教は民衆には広まりませんでした。仏教が民衆にも広まり始めたのは、古代信仰が力を失い始める17世紀以降と考えられます。

古来より琉球の人々が信じていたのは、御嶽信仰や火の神信仰、オナリ神思想等を基礎にする古代信仰でした。

琉球の固有信仰に基づいていた伝統行事は、以下のようなものがあります。

六月ウマチー(稲穂祭)

水が豊かな久米島では、古くから稲作が盛んでした。

六月ウマチーはそんな稲の豊作を願う行事です。

旧暦の6月25日に毎年行われ、古くは宇江城城跡と具志川城跡を交互に参詣したらしいです。

現在は宇江城城跡には参詣していないとのこと。

かつては、久米島中から役人やおもろうたいなどが集まり、総勢80人にも及ぶ大行列をなして、城に登っていたそうです。

雨乞いの儀式

久米島では今でも、日照りが続くと雨乞いの儀式を行います。

町長も参列します。

祈願する場所は久米島空港の近くの海岸。

最近だと3年前の2014年秋頃、雨が全く降らず、一部断水が続いたときに雨乞いの儀式が行われたそうです。

びっくりすることに、儀式の直後に本当に雨が降ったらしいですね

天候も司るとは、君南風恐るべし・・・

オヤケアカハチの乱で武勲を得る

君南風が一躍有名になったのは、1500年に八重山で起きた反乱、オヤケ・アカハチの乱で大活躍したためでした。

琉球全土統一をもくろむ首里王府ですが、そこに反抗したのが八重山で栄えた按司、オヤケ・アカハチ。

八重山を征伐するべく首里王府は軍を遣わします。

その際に首里の神から「八重山の神がなびけば、人間は自然と降参するから君南風を連れて行け」とお告げを授かったらしく、君南風は八重山討伐に参加することになります。

そして、君南風 VS 八重山のノロたちで呪術合戦を行うことになるのです。

●呪術対決勝つのはどっち?
八重山郡は海岸に陣を敷いていたが、「手に手に木の枝を持ったノロが数十人、陣頭に立って天に号し地に叫び一生懸命に首里軍を呪った。こっちにも君南風が部下の神女を率いて盛んにこれをやった。とうとう君南風の勢いが強く、向こうの神女共を抑えつけた」という。

(仲原善忠全集『久米島史話』より)

そして結果的に、八重山の神々が先に君南風と和睦したため、八重山軍は士気を失い、降参したということです。

当時本当にこんなことが行われていたのかはよく分かりません。

仲原善忠先生も、『今から考えると馬鹿々々しいことだが』とはっきりおっしゃっています。

ただ、昔から神女には神の精霊が乗り移るから大変強力だと信じられていたことに違いはないみたいですし、

君南風はこの武勲を讃えられ、首里王府より「金の簪(かんざし)」「ちよのまくび玉」「ひららしや原の田」を送られます。

ちなみに、ちよのまくび玉は、現在も君南風が伝統行事を執り行う際に用いられているんですよ(普段は久米島博物館でご覧いただけます)。

君南風は何者か?

上江洲均先生の『久米島の民俗文化』を読むと、君南風の正体は

『首里王府の宗教形態を久米島に持ち込むために首里より使わされた神女』

と考えられる可能性が高いようです。

●君南風は琉球王府の息のかかった神女
君南風は八重山のアカハチの乱以後のオモロに登場するのがほとんどである。ということは第二尚氏それも尚真王の時代、新たに置かれた神女とみることができる。つまり君南風は、首里王府の息のかかった神女であるということである。

(上江洲均『久米島の民俗文化』より)

どういうことか見ていきましょう。

神女の派遣による支配体制の確立

『君南風由来位階且公事』という文書にはこんな記述があるそうです。

●君南風の出自
昔神代の時代、三姉妹があり、姉は首里の弁の御嶽、二人の妹は久米島へ渡り、それぞれ東岳と西岳を住家としていたが、姉の方は八重山に渡りオモト岳を住居とした。三女は西岳にその後も居住し、君南風となった。

(上江洲均『久米島の民俗文化』より)

そもそも君南風は久米島の人ではなく、沖縄本島から渡ってきた神女であるという記述があります。

なぜ、沖縄本島以外の久米島と八重山に神女が渡ったのか?

上江洲均先生は首里王府が彼女たちを遣わしたものだとして以下のように記述しています。

●神女を配置した本当の狙い
三姉妹の首里、久米島、八重山という領有は、王府の神の南下を表しているのではなかろうか。八重山を二女としたのも、そこは久米島よりも広い地域であり、政治的重要性の序列を表しているのではないか。久米島に首里の出先を置くこととによって、先島へ向けての宗教上の布石が敷かれたことになるのである。そう考えれば君南風の討伐軍への参加はごく当然のことであり、容易に理解できる。そうすると、先の三姉妹の話は神話ではなく祭祀支配の史実を物語っているといえるのではないだろうか。

(上江洲均『久米島の民俗文化』より)

琉球王朝が神女組織を整える前、琉球の各地には血縁関係でまとまった集落がいくつも形成され、各集落ごとの神女が祭祀を行ってきました。

祭祀を執り行うのは、宗家の家系の女性で神を宿した大きな力を持っていたと考えられていました。

それは久米島でも同様です。

琉球王朝が神女組織を整える以前に、久米島には強力な信仰形態が存在していたのです。

首里王府が久米島を支配するためには、力で支配するだけでなく、信仰のあり方も支配しなければなりません。

そのために久米島に使わされたのが君南風だったわけです。

八重山に渡った君南風の姉も、八重山地方の信仰形態を変えるために使わされたのだと思います。

八重山で起きたオヤケアカハチの乱が起きたころ、久米島も按司たちが支配しており、そこにかつて共同体の祭祀を司っていた神女たちも遣えていました。

しかしその後、久米島の按司も首里王府に征伐され、久米島は首里の管轄下に入ることになります。

そして、久米島にいた神女たちは君南風をトップとした神女組織に組み込まれたか、そのまま消えてしまったのでしょう。

こうして神女組織が入れ替わるとともに、祭祀が王の支配力を高めるために利用されるようになり、政治的な性格を強めていきました。

明確な文献は残っていないようですが、これまでの出来事を時系列で並べると以下のようになると考えられます。

  1. 15世紀後半ごろから、久米島を按司が支配し始める

  2. 按司には久米島各地の神女が使える

  3. オヤケアカハチの乱(1500年)に君南風が参加

  4. 久米島の按司が首里王府に征伐される(1510年頃)

  5. 君南風をトップとした神女組織が久米島に作られる

実際のところ④、⑤の順番はどちらが先かはよく分かりませんが、いずれにしても、首里王府は君南風に武勲を立てさせ(たことにして?)、久米島の信仰形態を覆すことに成功したものと考えられます。

君南風というと『久米島』の偉大な神女というイメージがあり、たしかにそれは間違っていないのですが、元々は性格は首里王府の息のかかった神女だったみたい、というのが現在の定説となっているようです。

君南風の継承

現在の君南風は歴代12代目。

実は君南風の役割を担うことができる血筋があり、その継承図が存在します。

君南風は代々、宇江城按司の子孫の家系である太史(たし)氏と具志川按司の子孫の家系である美済(びさい)氏から輩出されています(細かく言うと、もう一家系あるのですが、ここでは省略します)。

「あれっ?宇江城按司、具志川按司の子孫???琉球王府に攻め滅ぼされたんじゃなかったっけ?」

と疑問に思われたあなたは久米島の歴史についてよく勉強をなされていると思います。

伝承上は、確かにそうなのですが、久米島の按司たちは実は生き残っていて、その子孫は今でも久米島に残っていると言われています。

さらに、その按司たちの子孫の家系から君南風は選出されているんです。

また、君南風は終身制を取ります。

つまり、現職の君南風は亡くなるまでその任を全うし、その後、継承者がその職を継ぐんです。

次の継承者は、君南風を輩出している血族の方々が決めているそうです。

ちなみに、現職の君南風の跡継ぎはまだ決まっておらず、現在の行事がいつまで行えるのか?

危惧されています。

最大の謎、本当の初代君南風は誰か?

君南風の継承に関しての一番の謎は、初代君南風は誰か?ということ。

宇江城按司系統の太史氏の家文書によれば、初代君南風はたしかに太史氏の系統であるらしいのですが、実は残っている資料から年代を考えてみるといろいろと矛盾点があるんです。

  • 1500年 オヤケアカハチの乱

  • 1510年 久米島が琉球王府に支配される

  • 1566年 「大阿母知行安堵辞令書」発布

  • 1579年 二代目君南風が生まれる

  • 1595年 二代目君南風に「大阿母知行安堵辞令書」発布

『大阿母知行安堵辞令書』というのは、君南風の任命書です。

2代目の君南風は1579年に生まれ、1595年に君南風の任を受けていることから、1566年の任命書は、初代の君南風に対して発布させられたものと考えられます。

ですが、オヤケアカハチの乱があったのは、史実によれば1500年。

年代から考えて、大阿母知行安堵辞令書を受け取った初代君南風は、オヤケアカハチの乱に従軍した君南風とは考えにくいのです。

●初代君南風の謎
久米島で現職の君南風は12代目と伝えられるが、家譜史料などから探しえた君南風も12名を数えることができる。しかし、家譜史料には八重山征伐の君南風と推定される君南風の記述を確認することができない。年代的に考えても八重山征伐に関わった君南風の記録は家譜史料には存在せず、神話上の君南風を史料的に確認することは不可能である。

(「歴代君南風について」小川順敬)

当時の資料はほとんど残っておらず、今となってはその真相を解明することは不可能に近いそうです。

初代君南風にまつわるミステリー、いつか解ける時が来るのでしょうか???

まとめ

以上、久米島の君南風についてまとめてみました。

現在、十二代目の君南風は嶋袋さんという方が務めていらっしゃいます。

ご高齢ながら今でも毎日5時から君南風殿内を掃除し、祈りを捧げる毎日を送っているそうです。


「元始、女性は太陽であった。」

そんな有名な言葉がありますが、事実、琉球の古代信仰においては、太陽を神格化した神様、そして、その他の神々も含めて、みな女性であると考えられていました。

元始、太陽(神)は女性であったんです。


だからこそ、御嶽と呼ばれる神聖なスポットは、基本的には男子禁制で、女性が祭事を担い、集落や国の安寧を願ってきました。


神女が祭事を行う伝統は、琉球が真に独立国であったときの伝統。

ですが、その伝統は、今ではほとんど残っていません。

そして、わずかに残っているものも、古琉球の影とともに絶えようとしています。


この先はどうなるのかは分かりませんが、この記事を読んで、少しでも関心を高めてくれる方がいたら、ブログを書いたかいがあったな~と思います。


それでは素敵なKumejimaLifeを♪

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