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【復刻版:久米島の過去・現在・未来を紡ぐ】第4章「琉球古代信仰の衰退」

※こちらは以前島に住んでいた「島暮らしのおかもってぃ」氏のブログ記事です。ブログ閉鎖に伴い記事も見れなくなっていたのですが、埋もれさせるにはもったいない良記事でしたので、本人に了承を頂き復刻しました。


人には人の、生きてきた人生があるように
土地には土地の、紡いできた物語があります。

人口減少・超少子高齢化など、未曽有の危機に直面する昨今、土地の歴史を見直し、久米島が有してきた価値観、島としての気質を明らかにする必要があるのではないかと思います。

久米島は受け入れの気質がある、とよく言われます。
水が豊かで米が豊富だった久米島は、古くから豊かな島。
だからこそ、外から来た人たちを積極的に受け入れてきた歴史があります。

ただし、久米島はただの受け入れの島ではありません。
僕なりに解釈した久米島の受容性とは『セジを読み、外部と共存する力』です。
セジを読むとは、潮目を読むこと、天命を読むこと。
大きな流れには逆らわず、外来のリソースと上手く共存する。
これが久米島の生存戦略だと考えています。

今回の連載では、歴史を紐解きながら、このような久米島性を明らかにしていきたいと思います。

第4章は「沖縄古代信仰の衰え」

沖縄の古代信仰、御嶽信仰と火の神信仰は、久米島性を読み解く上で欠かせないファクターだと個人的には思っています。
今回は、その古代信仰が衰えてしまった原因を見ていきたいと思います。


沖縄古代信仰の衰退

按司の台頭

人々が部落生活をしていた時代、神女をトップとした祭政一致の自治が行われてきました。
その後の12~13世紀ごろ、武力を持った支配者、『按司』が現れます。

彼らの多くは孝道思想に基づいた、儒教や仏教の考え方を持っていました。
按司の中には聖なる社と信じられていたお嶽を占領して城を築いたものさえいたそうです。

こうして、各部落の支配権は従来の神女から按司たちに移っていきます。
しかし、古来より続いてきた信仰をそう簡単に破棄できるわけはありません。

按司たちは古代信仰の力を統治に利用するようになります。
自分の血縁者、または親近の者を神女に任じ、祭礼を主宰させるようになりました。

この頃から、祭事の性格が変わっていきます。

元々の古代信仰は、共同体の繁栄、五穀豊穣を願って行われてきました。
しかし、統治者に任命された神女たちは、統治者が神意を獲得し、権威を高めるために祭事を執り行うようになるのです。

このように政治的支配のために、神女の存在が官僚化していきます。
そしてこの官僚組織を完成させたのが、琉球全土を統治した尚氏でした。

尚氏による神女組織の完成

尚氏が琉球を統一したのは1429年。

尚氏は琉球各地に仏寺を建立し、仏教の振興に力を入れました。

その後、第二尚氏の尚真王は久米島を含めた全群島を統一し、自身の妹「聞得大君(きこえおおぎみ)」をトップとした、神女組織を完成させます。

久米島は君南風をトップとし、その下に各集落の神女たちが『ノロ』として組み込まれます。

古代信仰としてのもともとの性格は失われながらも、神女たちの力は強大で、王の地位を揺るがすほどだったと言います。

島津軍の侵入

しかし、17世紀初めの島津軍が琉球に侵入し、固有信仰に大打撃を与えました。

島津は15か条の政治綱領を発布し、その中で官女制度を完全に否認

それから神女組織は徐々に整理されていきます。

1670年頃、尚氏の摂政だった、羽地朝秀は固有信仰を迷信と呼び、圧迫の態度に出るようになります。

久高島と言えば、現在でも神々が降臨する島として有名ですよね。

琉球王府時代は聞得大君が毎年参拝していましたほどの場所。

しかし、この儀礼を羽地朝秀はばっさりと否定します。

●久高祭礼は物笑いのたね
久高祭礼の起源を聞くに、聖賢の儀式でもない。薩摩人が聞いたら、女性、巫女の参会で、かえって物笑いにしかならないと考えられる。

(仲原善忠全集「固有信仰のおとろえ」より)

彼の意見は採用され、久高島への聞得大君の参拝は1673年から廃止されました。

儒教的な素養を身につけた彼らからしたら、科学的根拠のない不可思議な古代信仰は迷信以外の何物でもなかったのでしょう。

古代信仰の現状

こうして、御嶽信仰や火の神信仰といった古代信仰は、17世紀以降に孝道(父母や年上に使える倫理)を中心とする祖先崇拝に取って変わられます。

しかし、古代信仰は地域の農業や芸能など、人々の生活と深く関係していたため、その後も生き続け、神女組織もしばらく維持されることになります。

完全に廃止されたのは明治時代になってから。

1871年の廃藩置県で聞得大君以下の高級神女体制は廃止され、地方にまだ300人ばかりいたノロたちも、1895年の土地整理のときにその役職を失いました。

それからも古くから残る地域行事において、彼女らが祭事を担当し続けましたが、近年はどの神女も後継ぎ問題に悩まされています。

十数年後には全くなくなってしまうかもしれませんね。

古代信仰とセジを読む力

これは個人的な解釈ですが、久米島の人が有してきた「セジを読む力=潮目を読む力」は古代信仰の思想がベースになっていると思っています。

古代信仰のもとは自然崇拝、アニミズム信仰。

アニミズムの起源は理解できない自然現象に対する畏敬の念。

そこには、自然の脅威に対して抗うのではなく、受け入れ共存しようとしていく態度が表れていると思います。

そのような古代信仰の考えは、潮目に無理に逆らおうとするのではなく、流れにしたがってしたたかに生きていく、そんな久米島の生き方と重なるのではないでしょうか。

今も残る異界

現在の沖縄の信仰は中世信仰、つまり祖霊信仰であり、古代信仰はすでに過去のものとなっています。

しかし、古代信仰の考えや感覚は現在の久米島にも残っているのではないかと思います。


現在の都市は、墓地などの異界を忌み嫌い、それらを排除して発展していきました。

そんな都市部で聖域が保存されていることはまずありません。

しかし、久米島には今でも「聖域」、この世ではない「異界」が数多く存在します。

僕自身、地元の人からたまに「あそこは神聖な場所だから近づいてはいけない」と言われることがあるんです。

島内のあちこちに御嶽の跡も残っています。

信仰の形としては廃れてしまった古代信仰ですが、その思想や感覚、セジを読む力は、現代の久米島を生きる人にもどこか残っているのではないでしょうか。


現在、人口減少が進む中、島内でも様々な施策が試みられています。

それらはどんな潮目を読んでいるのか?

また後日書いていきたいと思います~。

まとめ

以上、琉球の古代信仰の衰退について書いていきました。

改めて古代信仰と、それにとってかわった中世信仰の考え方をまとめると以下のようになります。

古代信仰の特徴

  • 農業を生業とする集落の共同祭祀

  • 司祭者は女性

  • 集落の守護神、御嶽の神、火の神を崇拝

中世信仰の特徴

  • 封建社会の支えとなる儒教、特に孝道を中心とし、道徳的

  • 男性優位の社会

  • 祭事は仏教形式か祖先祭

古代信仰から中世信仰に移行し始めたのは13~14世紀ごろ。

その後17世紀に古代信仰はほとんど廃れて行ってしまいました。


しかし、異界の多く残る久米島には今でも古代信仰の考え方や感覚が残っていて、それが島の特性として、現在の久米島を生きる人たちにも受け継がれている気がします。

この古代信仰を元にしたセジを読む力を体現したエピソードを今後たくさん紹介していきます。

次回はセジを司った久米島の最高神女『君南風(ちんべー)』について書いていきたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

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