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【復刻版:久米島の過去・現在・未来を紡ぐ】第9章「島を救った男たち」

※こちらは以前島に住んでいた「島暮らしのおかもってぃ」氏のブログ記事です。ブログ閉鎖に伴い記事も見れなくなっていたのですが、埋もれさせるにはもったいない良記事でしたので、本人に了承を頂き復刻しました。


人には人の、生きてきた人生があるように
土地には土地の、紡いできた物語があります。

人口減少・超少子高齢化など、未曽有の危機に直面する昨今、土地の歴史を見直し、久米島が有してきた価値観、島としての気質を明らかにする必要があるのではないかと思います。

久米島は受け入れの気質がある、とよく言われます。
水が豊かで米が豊富だった久米島は、古くから豊かな島。
だからこそ、外から来た人たちを積極的に受け入れてきた歴史があります。

ただし、久米島はただの受け入れの島ではありません。
僕なりに解釈した久米島の受容性とは『セジを読み、外部と共存する力』です。

セジを読むとは、潮目を読むこと、天命を読むこと。
大きな流れには逆らわず、外来のリソースと上手く共存する。
これが久米島の生存戦略だと考えています。

今回の連載では、歴史を紐解きながら、このような久米島性を明らかにしていきたいと思います。

第9章は「島を救った男たち」

中世以降、久米島を襲った2つの危機。
疫病と戦争。
今回はそんな危機的状況の中で活躍した男たちを紹介していきたいと思います。


島を救った男たち

島に尽くした男、鈴嶺喜英(すずみねきえい)

1500年頃、琉球王府の尚氏が琉球全土を統一し、統一国家を築きました。

しかし、そのわずか100年後に琉球王国は島津軍に侵攻され、薩摩の支配下になってしまいます。

薩摩から税金が加重され、首里王府の財政は貧窮していました。

そのしわ寄せを食らったのは各地の農民たち。

久米島も例外ではありませんでした。

甘藷以外の農作物は年貢としてほとんど大部分を徴収され、余裕はほとんどなかったと言います。


そんなただでさえ厳しい状況の中、相次いで襲ってきた飢饉・疫病

1737年には5740人いた仲里村の人口も、相次ぐ災害で140年後、1879年には2523人にまで減ってしまったそうです。

農民の疲弊度は尋常でなかった思われます。

1840年、そんな危機真っただ中の久米島に鈴嶺喜英は派遣されます。


当時の久米島には税を納めきれない農民が多数おり、にもかかわらず農具や機織り道具を持っていない貧民が多数いたそうです。

鈴嶺喜英は現状が思ったよりも深刻であることを知ると、首里王府に陳情して、銅銭8万貫を請い受け、さらに私財を2万貫投入して、農民に農具を買い与えました。

また、決壊したまま修理されていない堤防の修繕などに尽力を尽くし、休むことなく働いたそうです。

任期満了後も久米島を去ろうとせず、民のために尽くし続けました。

数年後に、当時の地頭代(村長)や役人に説得され、ようやく首里に帰ったようです。

鈴嶺喜英がどんな人物だったのか。

知る手掛かりになるものはこれ以上はありません。

ですが、島の困窮の知り、そのために尽くした偉大な人物だったことは間違いないでしょう。

久米島と太平洋戦争

1945年3月、数々の悲劇を生んでしまった沖縄戦が始まります。

久米島の男性も多くが戦争に駆り出され、その命を落としました。

同年10月10日に5回に渡って繰り返された那覇周辺への大空襲。

市街地の90%は焼け焦げ、燃え上がる那覇の街の火が、久米島の銭田海岸から夕焼けのように見えたそうです。

久米島島内では陸上戦が行われることはなかったのですが、駐留していた日本陸軍にスパイ容疑をかけられ住民20名が虐殺されるという事件は起きてしまいました


当時久米島には、通信の任務を帯びた日本海軍の電波探信隊、鹿山隊が30名ほど駐留していました。

あくまで通信が任務のため、武器といった武器も持っておらず、米軍が上陸して来たらひとたまりもないような装備だったようです。

島民を守る術は何も持っていないにも関わらず、彼らは食料や労働力の無償提供を求め続けました。

若い女性も時に力仕事に駆り出し、夜通し働かされることもあったようです。


「軍命」であるので島民は逆らうことが出来ません。

彼らの横暴さは止まることがありませんでした。

鹿山隊長は、2月6日に開かれた具志川村の常会で「軍民協力して空爆下にありても平気で増産に励むこと」という訓話を行う始末だった。「平気で増産に励め」と言われても、本格的な空襲が始まってじかに身の危険に直面していた住民にとっては、平気で増産に励めるはずがなかった。

(大田昌秀『久米島の「沖縄戦」』より)

久米島に米軍が上陸したのは1945年の6月26日、沖縄守備軍の首脳、牛島満軍司令官や長勇参謀長らが自決してから4日後のこと。

一切の抵抗を受けず現在のイーフビーチに無血上陸を果たしました。

住民に散々威張り散らしていた鹿山隊でしたが、米軍が上陸しても山に籠っているだけで何もしようとしませんでした。

久米島島民はみな恐怖に慄いて山中に隠れます。

米軍は地元住民らに対し、山から自宅へ帰って農耕へ従事するように促してつつ、鹿山隊に対しては連日攻撃を仕掛けました。

といっても、鹿山隊の兵力は分かっていたため微々たる攻撃だったらしいですが・・・


そして次第に、米軍が危害を加えないことが広まり始め、集落に戻ることを願う島民も増えてきました。

しかし、山中の鹿山隊から「山を下るものは敵に協力するものとして処刑する」との命があり、なかなか下山できない住民もいました。

鹿山隊としては、島民が山から下りると山に残るのは軍人だけになり、自分たちが裸になってしまうことを恐れたようです。

そしてあろうことか、米軍と少しでも関わりを持った島民をスパイとして虐殺

こうして、沖縄線は終了していたにも関わらず、久米島で悲劇的な事件が起きてしまうのです。

鹿山隊が米軍に投降したのは1945年9月7日。

それまでに20人もの島民が彼らの手にかかり殺されました。


以上が久米島で起きてしまった惨劇のあらましです。

しかしそんな中でも、久米島のために動いた人たちがいたことを僕らは忘れてはいけないと思います。

艦砲射撃を止めた男、仲村渠明勇(なかんだかりめいゆう)

仲村渠明勇は久米島字西銘出身。

戦時中は沖縄本島で米軍の捕虜になり、嘉手納捕虜収容所に入れられていました。

収容所にいるときに、米軍が久米島を艦砲射撃(船上からの砲撃)をして上陸する予定であることを聞かされたそうです。

久米島にはほとんど軍隊がいないことを知っていた仲村渠さんは、自分の郷里を守るために、久米島を射撃したところで意味が無いと米軍に伝えました。

米軍は当初5800人もの日本軍が久米島にいると予想していたそうです。

しかし、仲村渠さんの他、久米島出身の捕虜、比嘉良厚、野村健の2人も久米島にそんな兵力はないことを主張。

久米島への艦砲射撃がいかに無駄な暴挙であるかを説明しました。

米軍自身も久米島字北原から拉致した少年から、「島に兵力はない」という情報を受け取っていました。

そこで、米軍は艦砲射撃を止める代わりに、仲村渠さんに久米島を案内することを提案します。

あなた方がそれほどまでに、艦砲射撃に反対するなら、久米島上陸の道案内に出てほしい。作戦に同行してくれるなら、艦砲射撃は中止にしよう。

(大田昌秀『久米島の「沖縄戦」』より)

戦時中は軍隊が最高権威。

そこに逆らい米軍に加担すれば逆賊として汚名をかけられ、殺される可能性もあったと思います。

それでも、もし故郷を守れるのであればと、仲村渠さんは決死の覚悟で承諾。

こうして米軍の艦砲射撃は取りやめになりました。

米軍としては島出身の協力者がいることで、降伏を呼びかけやすくなることも期待したのだと思います。


米軍といっしょに上陸した仲村渠さんは、米軍は危害を加えないから山から下りて家に帰るように住民に説いて回りました。

また、久米島に流れ着いた日本陸軍の軍人に投降するように説得。

彼らは死して、米軍に一矢報いる覚悟だったようです。

こうして多くの命が無駄にならずに済みました。


しかし、仲村渠明勇さんは久米島に在住していた鹿山隊によってスパイ容疑をかけられ、妻と長男とともに虐殺されてしまうのです

島を守った英雄を殺したのは他でもない日本陸軍でした。


もしあのとき、必死に米軍に交渉した彼らがいなかったら、今の久米島は違ったものになっていたかもしれません。

多くの文化財は壊され、伝統は途絶え、人々も死傷を受け、島へのダメージは大変なものになっていたと思われます。

その危機を救った英雄、仲村渠明勇。

その最期は悲劇的なものでしたが、彼の犠牲の上に僕らは生きていることを忘れてはいけないのだと思います。

島民を支えた島の知性、吉浜智改(よしはまちかい)

吉浜智改は1885年に、字西銘で生まれます。

20歳のときに徴兵を受け、その後朝鮮に渡航。

7年間朝鮮で勤めた後、一度日本に戻り、妻子を引き連れて再び朝鮮へ渡ります。

1、2年間、鉱業に従事しながら、風水や易学などを学んでいったそうです。

彼の思想に影響を与えたのがマハトマ・ガンジー。

徹底した非暴力・無抵抗主義は、戦時中の吉浜の行動に深く反映されます。

玉砕することが美とされていた戦時中において、吉浜は、民族の存続を第一に考え、徹底的な「無抵抗主義」を主張した稀有な人物でした。


1945年、当時の吉浜は60歳、具志川村の農業会長をしていました。

そして、当時横暴を振るっていた鹿山兵曹長に対し、屈することなく毅然とした態度で接します。

彼は島民の精神を支えたリーダーでした。


先述したように、久米島島民は日本軍に対し、食料や労務を無償提供。

事業組合は大赤字で、組織の維持すら困難になっていました。

そこにある日、鹿山兵曹長が軍に食糧をもっと提供するよう脅しをかけてきます。

「戦争は日に悪化し供出に困るだろう。民衆から取り立てに困難なら軍事帯で徴発するから現金三万円ほど提供したらどうか。もし君らがこれに応じかねるなら銃弾と交換しても良い」と日本刀仕込みの軍刀に手をかけて脅迫をなした。

(大田昌秀『久米島の「沖縄戦」』より)

つまりは「食糧がないなら金をよこせ、なければ銃で殺すぞ」ということですね。

横暴にもほどがありますね。


吉浜智改は脅迫には応じませんでした。

「銃弾を送るなら送れ、日本刀が飛ぶなら飛べ、軍が島民と共に苦しみ、最後まで協力して闘い抜くと云うならともかくだが、島民を搾り、軍だけが米食肉食を続け、あげくは凶暴に出るなんて」、死すとも民衆のためかくの如き暴行には従わぬという決意が読めたのか、抜刀切り付けんばかりの彼の手は軍刀のつばを離れ、「覚えていれ」と陰険なセリフを残して無言のまま立ち去った。

(大田昌秀『久米島の「沖縄戦」』より)

彼の信念の強さは、彼が残した戦時中の日記からもよく分かります。

●6月10日の日記(一部抜粋)
生き延びるのだ。
どんなことがあっても生き延びるまで苦闘を続けるのだ。
民族の滅亡があってたまるものか。
我々はたとえいかなる苦難があっても生き抜くのだ。
国会が(沖縄を)見捨てたからとて我々沖縄民族のすべてが無意義にして無価値な犠牲になってなるものか。
自存せよ。
滅亡するということは祖先に対し済まないのだ。
また日本人の同胞も吾々の無事生き残ることを祈っているのだ。

(大田昌秀『久米島の「沖縄戦」』より)

1つ隣の慶良間諸島では、追い詰められた住民たちが集団自決をしてしまうという悲劇的な事件も起きてしまったと言います。

久米島でこのような惨劇が起こらなかったのは、吉浜智改をはじめとした住民のリーダーがこのような強さを持って島民を支えていたからではないかと思うのです。

彼らはセジを読んでいた、時の為政者が誰なのかを分かっていたのでしょう。


戦後、吉浜智改は具志川村の村長となり、住民のために尽くしました。

島に生まれ、その知性で島を率いてきた、偉大なリーダーだったのです。

まとめ

久米島にはいつの時代にも、島の存続を考え、住民を引っ張ってきた偉大なリーダーがいました。

共同体の長期的な繁栄を考え、セジを読んできた人たちがいました。


按司が侵攻する前、1400年以前のセジを読む力は、神女たちの神懸かり的な能力によって支えられていました。

それ以降は、堂のひやや吉浜智改のような地域のリーダーが、彼らの知性により世界のバランスを感じ取っていたのではないかと思います。


現在の久米島は年間100人の人口減少という未曽有の危機に直面しています。

この危機をどのように乗り越えていくのか、地域のリーダーの知性、セジを読む力が試される時が

今まさに来ているのではないでしょうか。


過去を振り返るのは今回で終了!

勝手に始めた連載もそろそろ大詰めです。

ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

次回は、久米島の今、年間100人の人口減少について詳しく見ていきたいと思います。

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