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人はなぜ考察するのか

こんにちは、イラストレーターの明全トオルです。
自分は考察やら哲学やらと考えることを趣味にしているのですが、最近の考察ブームにちょっと思うことがあり云々のお話です。


考察が流行した理由を考える

まず、自分が中高生だった頃はあまり考察というものが一般的ではなかったと思っていて。一般化してきたのはここ3、4年かな…?という感覚です。
このくらいの時期何があったかな~と思うと、コロナ禍だと思うんですよね。
で、コロナ禍のときってあんまり人と直接の会話ができないとか外出が難しいとかってことからSNSやサブスクが相当に一般化したと思うんですよ。
自分的にはこれで、SNSや口コミ評価サイトが普遍化したことで「他人の思考や感情を文字として可視化しやすい場が身近になったから」と考えられるんですよね。

サブスクの映画を見るとき、評価の星の数を気にしませんか?
漫画の作者のSNSを見たとき、裏設定を見て「こんなに考えられていたなんて…!」なんて経験はありませんか?

この延長線上だと思うんですよ、考察って。
裏設定を見た→じゃあここはこういう可能性もあった!?こういうことがあったからこの設定がある!?
…のような。連想ゲームとか二次創作にいたるまでの思考とか、それって今でいう考察、と言って過言ではないのでは?

考察で得られるもの

さて、流行ったからといって得られるものがあるのかというのが自分の一番気になることでして。
考察の流行によって、「これからこういう風に描こうと思ってたのに言い合てられちゃったから使えないじゃん…」とか「なんでもかんでもを深堀りしないと評価下がるし、蛇足まで描かないといけなくなっちゃったよ…」ってことがいろんな作品に出ているので、自分はちょっと考察の押し付けは消費者すぎる場合があるかな~と思うことがあり。

この世界には魔法があります!という作品の世界観に対して、「どうして魔法があるんですか?」はさすがになぁ…と思うんですよ。
世界含めてまですべてに理由があるなんてことが起きたらフィクションでもリアルでもないというか、それこそリアリティがないんじゃないかと思うんです。
ただ偶然、そこにいたから。その気分だったから。
普通に生活していて自分はそう在るのに、作品になるとそれがリアルではない!と考えるのはさすがに頭だけで作品を消費している気がして。
エンタメをエンタメとして楽しめないと、なんのためにそれに接しているんだ…?と思ってしまって。
得たいものはその作品を楽しみ尽くすこと。なのにその楽しみに理由をつけられないと満足できない。ゆえに楽しめない。

そうなったら本当に嫌だな~…と思いつつ、そんな人を見るようになったのも事実。思考と感情と楽しみ方は完全に別物であろうに、その境界線を引くことが他人との距離が近しいと錯覚することで難しくなっているのかな。

ところで自分が考察で得られたものとしては、その世界観への没入ですね。
キャラクターじゃなくて世界構造の考察をしているんですよ。そこで自分がこの世界にいたらどうなんだろうなぁ、とか自分だったらここでこうなるだろうな~!とかを作品を楽しむのと別軸で考える。
ポケモンとかプレイしていて、「自分がポケモントレーナーだったらこの子を手持ちにこんな生活を…」みたいな。
すごく楽しいじゃないですかこれは。
どうせなら考察するときに、自分を入れ込むと自分主体に楽しめるので個人的にはそうしたいです。キャラクターや作品内の事象を考察すると研究的になりやすいので…。

作品の本質と作品を構築する要素は全くの別なので、せめて初見の一度目くらいは本質を感性のままに楽しんでほしいですね。
他人を見ずに、作品を見てほしいと感じるばかり。

できればその考察が、自分自身の楽しみであるように祈りたい。

おわり

個人的な感覚なんですが、物の考察をするにあたって自分に俯瞰的であることがエンタメにエンタメとして接するために必要なんじゃないかな。
考察を楽しむうえで、自分の哲学をあわせて持っていてほしいかなとクリエイターの端くれとして思っています。
それでは、よりよいエンターテイメントライフを!

明全トオル


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