
新日本プロレス史#10【90年代後半③】
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武藤nWo
飛ぶ鳥を落とす勢いのnWo JAPANでしたが、ユニット内が常に平穏というわけではありませんでした。
蝶野正洋とグレート・ムタ(武藤敬司)は、元々、同期で闘魂三銃士の間柄。
つまり、ライバルです。
ムタはキャラクターが強烈で、時折、nWoの離脱をほのめかすような動きを見せていました。
この時はムタが素顔の武藤となり、nWo JAPANに残留することとなりますが、やはり2人はライバルでした。
武藤は、蝶野が首の故障で欠場中に、代役として一時的にnWo JAPANのボスとなりますが、その際にnWo JAPANを乗っ取ってしまいます。
結果、蝶野はnWo JAPANに戻らず、T-2000を結成して、武藤nWoに対抗していくこととなります。
nWoの終焉
さて、nWoにより、爆発的な人気を得たWCWですが、次第にその人気に陰りが見え始めます。
窮地に陥ったWWFに、1人の選手が爆発的な人気を得たためです。
その選手は、「ストーンコールド・スティーブ・オースティン」。
スーパースターをごっそり引き抜かれたWWFは、路線を変更し、ストーンコールドの売り出しにかかりました。
その路線は、「アティチュード路線」と言い、作られたストーリーの中で、選手が試合をするというものでした。
それは、例えたらストーリーの中で歌を披露するオペラのようなものです。
当時のWWFのストーリーの中心は、悪のオーナーであるビンス・マクマホンが、権力や様々な陰謀を駆使して、配下のレスラーがストーンコールドと対決するというものでした。
これがヒットし、ファンはストーンコールドを支持するようになりました。
当時、私も見てましたが、これは理屈抜きに面白かったです。
ある時は、ストーンコールドがボコボコにされ、またある時は、ストーンコールドが、その報復でリングにトラックで突っ込んだり。
そしてストーンコールドが勝った時は、コーナーに登り、ファンから受け取った缶ビールを次々と一気飲みするパフォーマンスが最高でした。
めちゃくちゃ破天荒でしたが、独りで体制側と戦うストーンコールドを見て、スカッとしたのを覚えています。
結局、WWFから大量に大物選手を引き抜いて勝負に出たWCWですが、たった一人のヒーローのために経営不振となり、後にWWFに買収されることとなります。
暴走王 小川直也
一方、小川直也ですが、1999年1月4日の東京ドームで橋本真也との3回目のシングルマッチが組まれました。
この時、既に小川の体はシェイプされており、小川は初めて柔道着を脱ぎ、オープンフィンガーグローブを着用して総合格闘技スタイルで臨みました。
そこには、入場時から殺気を帯びた雰囲気がありました。
そして、試合では小川が仕掛けました。
何とかプロレスの試合を成立させようとする橋本に対し、小川の攻撃は、パンチや背骨を狙ったエルボー、ダウンしている橋本の顔面を思い切り蹴りつける等、暴走した反則攻撃でした。
一歩間違えば、橋本の選手生命がどうなっていたかわからない試合でした。
結局、小川は6分程度で橋本をKOし、試合裁定は無効試合となります。
小川の暴走に、試合後には新日本とUFO陣営が入り乱れる大乱闘となりました。
ただ、この試合、裁定は無効試合ですが、橋本が一方的にやられた実質KO負けのように報じられてしまいます。
私見を言わせてもらうならば、この試合の裁定は小川の反則負けでよかったと思いますが、どうあれ、橋本にとって、分岐点となった試合となりました。
第三世代
さて、ここまで、藤波辰爾、長州力、闘魂三銃士らが引っ張ってきた新日本ですが、この時期は、天山広吉、小島聡、中西学、永田裕志ら、90年代前半にデビューした選手達が、海外遠征から相次いで帰国し、台頭してきた時期でもあります。
最初に頭角を現したのは天山で、帰国後すぐに、狼群団→nWo JAPANでお暴れしますが、小島、中西、永田も追随して凱旋帰国すると、新日本の選手層は一気に厚くなります。
特にこのヘビー級の4人は、藤波、長州らの第一世代、闘魂三銃士らの第二世代に対して、「第三世代」と呼ばれるようになります。
パワー&ラフが主体の天山と小島。
桁外れのパワーと、アマレス仕込みの投げ技の中西。
アマレス仕込みの投げ技と、キック、関節技を得意としていた永田。
それぞれのキャラクターも確立されていました。
そして、海外遠征から最後に永田が帰ってきたことで、4人が初めて揃ってG1 CLIMAXに出場したのが、1999年の第9回大会です。
この大会で中西が優勝し、蝶野の優勝で始まったG1の歴史に、第三世代が初めて名を残すことになりました。
ただもう、この頃には時代は動き始めており、第三世代にとっても、ここから苦難な道を進むこととなります。
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