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新日本プロレス史#4【80年代後半】

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第1次UWF

前回、新日本プロレスの分裂劇として、ジャパンプロレスについて書きましたが、同時期にもう1団体、新日本から派生した団体が1984年に誕生します。
それがUWFです。
ただし、UWFはジャパンプロレスの時のような、内部からの分裂ではなく、経営難であった新日本が資金源として立ち上げたものでした。
UWFのエースは前田日明。
前田は190cmを越える身長で体格に恵まれており、空手のバックボーンを持つ本格派選手で、藤波、長州に続く新日本のエース候補として期待されていました。
UWFは、そんな前田をエースに据えて興行をおこなうことで、新日本の経営を立て直すのが狙いでした。
その他のUWFの主な参戦選手は、藤原喜明、高田伸彦(現:延彦)、山崎一夫ら。
そして当時、UWFが掲げたのは「完全決着」。
ロープワークを使わず、キックや関節技で勝敗を決するその試合スタイルは、より格闘技色を増したものとなり、それまで反則やリングアウト等の不透明決着が当たり前だったプロレス界に一石を投じるものでした。
そんな画期的なUWFでしたが、テレビ中継されなかったのが、最大の痛手でした。
結局、UWFは約1年で活動休止となり、前田らUWF勢は新日本に戻ってくることとなります。

前田の帰還

第1次UWFは呆気なくその最後を迎えたものの、前田のUの魂は消えることはありませんでした。
UWFと新日本との業務提携という形で、新日本に戻った前田は、Uのスタイルを貫き、キックと関節技を駆使した試合スタイルで、新日本勢との戦いに挑みました。
当時は、向かい合ったらロックアップや手四つで組み合うのが、プロレスの基本的なスタイルでしたが、UWFの組み合う前にキックが飛んでくる遠距離攻撃に新日本勢は苦しめられました。

前田の標的はアントニオ猪木でしたが、前田と猪木は意外に絡みが少なく、この時期、新日本側で前面に立ったのは藤波辰巳(現:辰爾)でした。
藤波の良さは相手の力を引き出す能力に長けているところです。
長州力との名勝負数え唄でも、藤波は長州の持ち味であったパワーとスピードを目一杯引き出していましたが、前田との戦いでも、前田のキックによる攻撃を真っ向から受け、前田の攻めの凄さ、藤波の受けの凄さの両方が際立っていました。
藤波との対決は、前田にとっても光り輝いていた時期でもありましたが、その時期は長くは続きませんでした。

長州の帰還

さて、全日本プロレスに参戦していたジャパンプロレスですが、経営難により全日本に残留する者と新日本に戻る者とに分裂します。
この分裂がきっかけで、長州力らが新日本に戻ってくることとなりました。
(谷津嘉章らは全日本に残留。アニマル浜口とキラー・カーンは引退を表明。)

そんなある時、事件がおきます。
6人タッグマッチでサソリ固めに入った長州をカットしようと見舞った前田のキックが、長州の顔面に入ってしまいました。
「プロレス道にもとる行為」と称されたこの事件(というよりは事故)がきっかけで、前田は新日本を解雇されます。

第2次UWF

新日本を退団した前田は、再度、UWFを設立します。
1988年に誕生した、第2次UWFです。
一般的に「UWF」と言われる団体は、この第2次UWFを指します。
この第2次UWFに、第1次のメンバーであった、藤原、高田、山崎らに、船木誠勝や鈴木みのるも加わりました。

UWFはTV放送がなかったため、その試合の模様はビデオ発売によって視聴されました。
当時はレンタルビデオ業界が全盛であったことから、この戦略は成功し、第2次UWFは一大ブームとなりました。
また、第2次UWFは試合会場の演出にも力を入れました。
選手入場時のレーザー光線や、試合後に勝者のテーマ曲が鳴り響く等、今では当たり前の演出も第2次UWFが最初です。
UWFにより始まった完全決着と会場演出。
前田はこの後、新日本に戻ってくる事はありませんでしたが、Uの魂は新日本にも引き継がれ、現在に至っています。

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