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新日本プロレス史#7【90年代前半②】

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G1 CLIMAXと1.4東京ドーム

完全決着と取り戻した選手層。
これにより、新日本プロレスは一大イベントを
仕掛けます。
それが「G1 CLIMAX」です。
その記念すべき第1回は1991年に始まりました。
当時の出場メンバーとブロック分けは、

Aブロック
藤波辰爾
武藤敬司
ビッグバン・ベイダー
スコット・ノートン

Bブロック
長州力
橋本真也
蝶野正洋
クラッシャー・バンバン・ビガロ

※各ブロックの最高得点者が優勝決定戦

当時の新日本で選りすぐられた、文句のない人選でした✨
そして、この第1回大会の優勝決定戦は、
武藤敬司vs蝶野正洋。
両国国技館での約30分に及ぶ激闘を制し、優勝
したのは蝶野でした。
試合後には感動したファンからリングに座布団が投げ込まれ、今でもG1を象徴するシーンとなっています。
(なお、これがきっかけで、以降の両国国技館では座布団が使用禁止になってしまいます💦)

また、闘魂三銃士が優勝決定戦を独占したことで、新たな時代を予感させたとともに、三銃士の中で若干、遅れ気味だと思われていた蝶野がここで初めてトップに躍り出た大会でした。
そして、この大会でBブロックの長州が全敗し、選手の格に関係なく勝敗が決するという、G1の
怖さが表れた大会でもありました。
この第1回G1の大成功から、2022年現在に至る
まで、G1は続いていくこととなります。

また、新日本は、1989年から毎年、東京ドーム
大会を開催してきましたが、1992年からは、毎年1月4日に開催されるようになりました。
この1992年1月4日の東京ドーム大会では、初めて選手入場口からリングまでの特設花道が設置されました。
今では当たり前の花道ですが、元々はWCWとの
提携によって輸入されたものです。

また、翌年の1993年1月4日の東京ドームでは、
天龍源一郎率いるWARが参戦します。
メインイベントは、
長州力vs天龍源一郎

さらに翌年には、
アントニオ猪木vs天龍源一郎

というドリームカードまで実現します。

G1と東京ドーム。
これらの大イベントの定着により、新日本は名実ともに業界のトップに躍り出ます。

黒のカリスマ

さて、第1回G1に続き第2回も優勝し、連覇を成し遂げた蝶野ですが、G1以外のチャンスでは大きな結果を残せず、第3回のG1では藤波が優勝しま
した。
そんな中で迎えた1994年の第4回のG1。
蝶野は優勝候補ではなくなっていました。
が、そんな下馬評を覆し、蝶野が優勝します。
4回のG1で3回の優勝は単純に凄いことなのですが、蝶野のフラストレーションは溜まっていま
した。
「どうせ優勝しても一緒だろ⁉️」
優勝したはずの蝶野からは、そんな焦りとも
苛立ちともとれる雰囲気が感じられ、優勝決定戦で勝利してもなお、喜びを口にすることなく、
リングを後にしました。

蝶野と言えば、元々はヨーロピアンスタイルの
極め技、固め技の巧い本格派レスラーです。
ただ、派手な動きの武藤、強さを全面的に出す
橋本に比べ、若干、地味な印象がありました。
多分、蝶野も自覚していたのでしょう。
そこで蝶野はこのG1優勝を機に、コスチュームを黒に変え、試合もラフファイトを前面に出す
スタイルへと変貌します。
蝶野が自身のキャリアを懸けて勝負に出た瞬間
でした。
「黒のカリスマ」の誕生です。
その後、蝶野はG1覇者として、当時王者だった
橋本が保持していたIWGPヘビー級選手権に挑戦し、敗れはするもの、喧嘩ファイトで橋本を後
一歩のところまで追いつめ、インパクトを残し
ました。

狼群団

橋本とのIWGPヘビー級選手権では敗れたものの、蝶野の勢いは留まることなく、新日本への反体制派として戦っていました。
そんな蝶野の周りに集まったのが、ヒロ斎藤と
天山広吉です。

ヒロ斎藤は、若干、地味な存在でしたが、IWGP
タッグを獲得するなど、タッグの名手でした。
また、天山広吉は、ヤングライオンから海外遠征に行き、凱旋帰国したばかりで、期待以上の変貌を遂げていました。
そんな彼らは「狼群団」と呼ばれました。

実際、私も何度も会場で狼群団の試合を観てきましたが、入場の蝶野のテーマ曲が鳴った途端、
会場のボルテージが最高潮に達し、試合も場内の一体感に包まれていました✨
蝶野もまた、様々な苦難、苦悩を経て、カリスマとなっていました✨

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