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新日本プロレス史#11【2000年代前半】

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橋本真也の退団

1999年1月4日の東京ドームの橋本真也vs小川直也の結果は、小川が仕掛けたことによる無効試合でしたが、橋本がKOされたという事実だけが取り上げられてしまい、両者の対決は続いていくこととなります。
結果、同年10月に再戦が組まれますが、橋本は小川のSTO(変形大外刈り)により、レフェリーストップで敗れてしまい、翌2000年4月に自身の引退を懸けて小川と戦うこととなります。
この試合の模様は、
「橋本真也 負けたら即引退スペシャル」
として、地上波で生放送されるほど話題になりました。
そして、橋本はここでも小川のSTOにより敗れ、公約通り引退することとなります。

当時の橋本はまだ34歳。
プロレスラーとしては全盛期でした。
橋本は一度は引退を決意しますが、復帰を願うファンの声が全国から上がり、それを受けて橋本は復帰することとなります。
しかしそこで、橋本が起こした行動は、
「新日本プロレスZERO」
という団体内組織の設立でした。
これが、長州力の反対にあい、結果、橋本は復帰したものの新日本を退団し、新団体「ZERO-ONE」を設立することとなります。
それにしても、新日本プロレスZEROとは何だったのか?
橋本と長州の間に確執があったのは、当時でも有名な話でしたが、この時の橋本の真意は、今も詳細はわからないままです。

武藤敬司の退団

さて、アメリカではnWoブームが終焉を迎えており、WCWが経営不振となっていた中、日本では、蝶野正洋と武藤敬司が2000年1月4日、東京ドームでT-2000とnWo JAPANの決着戦をおこないました。
ここで、蝶野が勝ち、nWo JAPANの武藤以外のメンバーはそのまま、T-2000に吸収されることとなり、nWo JAPANは消滅します。
敗れた武藤は、次なる居場所としてWCWと契約し、グレート・ムタとして活躍の場を求めました。
が、当時はWCWのフロント陣が反日派の体制となっており、武藤は活躍の場を与えられないまま、1年足らずで新日本に戻ってくることとなります。
この時から武藤は、現在のようなスキンヘッドにキャラを変え、周囲を驚かせました。
武藤の新たな活躍が期待されましたが、この頃の新日本のリング上の景色は、既に変わっていました。

90年代の新日本の魅力は、nWoから格闘家まで、様々なスタイルの試合を提供し、それでいて、試合を面白く出来る、その対応力にありました。
ですがこの時期は、そのnWoも無くなっており、WCWの経営不振で提携を打ち切ることとなり、完全に格闘技路線へとシフトしていました。

アントニオ猪木は、小川に続いて藤田一之(現:和之)、安田忠夫らにも総合格闘技の技術を習得させていました。
藤田や安田は、キャリア的には第三世代に次ぐ選手達で、飛躍が期待されながらも、伸び悩んでいました。
そんな中で身に付けた総合格闘技の技術を引っ提げ、小川を含めた3人は第三世代を初めとした新日本の選手達を圧倒していきます。
彼ら3人はあくまで「プロレスラー」を名乗ってはいたものの、オープンフィンガーグローブ着用のそのスタイルは、総合格闘技そのものでした。

武藤は、新日本に帰ってはきたものの、そんな新日本の路線に危機感を覚えていきます。
武藤は元々は柔道出身で、格闘技への対応力もあった選手です。
しかし、プロレスと総合格闘技は別物と捉えており、総合格闘技の事を「競技」と言い放っていました。
そんなプロレスラーとしての誇りを持つ武藤にとって、新日本の格闘技路線は、自身のキャリアを脅かすものでしかありませんでした。
結局、武藤は、小島聡らや社員らも引き連れて新日本を退団し、新たなプロレスの場を求めて全日本プロレスに移籍します。

長州力の退団

武藤らの退団は、新日本に大きなダメージを与えたと言われています。
選手だけでなく、社員まで失った新日本は、一時期、事務所機能が停止し、給料の遅滞が発生するなどのトラブルもあったと聞いています。
こうしたトラブルの責任を誰が取るのか、その槍玉に上がったのが、当時、現場監督であった長州でした。
結果、長州はこうした現場の責任を取る形で新日本を退団し、新団体のWJを設立します。

短期間の間に退団者が相次ぎ、アメリカの提携団体も失くなった新日本の選手層は一気に薄くなりました。
90年代の隆盛はもはや失くなり、以降、新日本はこれまでにない冬の時代を迎えることとなります。

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