櫻坂46における選抜制度を考える。バックス楽曲『油を注せ!』MV感想を含む。

 選抜制度の導入は、グループを選ばれるメンバーと選ばれないメンバーに二分する。
 この椅子取りゲームはメンバーに切磋琢磨しあうことを促し、それがグループ全体の質(平たい言い方)の向上に大きく寄与する一方で、負の側面が決して少なくない頻度で前景化することも明らかである。数多の終わらない議論がこれまで行われ続けていることからも分かるように、この問題に関する意味合いや捉え方は多義的で、明瞭な着地点は無い。

 今回はこういった話題について、言葉を転がし、整理してみたい。自分が十全に納得し、全面的に好意的に捉えられるようにするために。なお、自分はそもそも選抜制度に否定的なわけではまったく無いということはあらかじめ記しておく。しかし、選ばれなかったメンバーやそのファンの感情を目にするとき、耳にするとき、なんとも言葉に落とし込みがたい気持ちになることはある。そしてそれは、今、キーボードを叩いているこの時点における自分のこういった話題についての捉え方が、不明瞭だからだと思う。今回はその解消を目指したい。

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 さて、まずは前提となるであろう考え方を言葉に起こしてみる。
 表題曲を担当するメンバーに選ばれることには大きな価値があり、それは名誉である。これは間違いなさそうだ。
 しかし一方で自分は、「その価値や名誉が絶対的で、目指されるべき唯一のものであり、それに預かれなかったメンバーには「劣っている」というレッテルが即座に貼られる」といった捉え方が極めて短絡的なものであり、不適切だろう、とも考えている。そしてこの考え方は、最初に提示した考え方と合わせて広く共有されていた方が良さそうだと感じている。

 容姿、立ち振る舞い、楽曲との親和性、技術的な練度、エトセトラ。こういった多くの切り口から成る価値(それらは現在の社会において金銭的価値に直結しがち)をグループの中でより多く生み出せる/生み出していると想定される人間は選ばれる。そして、そのように想定されにくい人間は選ばれない。これは揺るぎのない事実のように見える。しかし、そうであっても、選ばれなかったメンバーが「劣っている」という捉え方に直行することは誤っていると自分は思う。

 なぜか。
 それは、多くの価値を生み出せる/生み出している人間というのは、多くの人間に価値を見いだされている人間である、と言い換えられるから、というよりむしろ、こちらの言い方の方が的を得ていると思うからだ。価値を見いだす側の人間集団(=金銭を支払う側の人間たち)の内に広く共有されている「良い」という「価値観」に沿ったものを提供できる・している人間は、多くの価値を生み出せる・生み出している人間だと見なされ、そういった人間は選ばれる、という構図。
 ここで合わせて捉えたいのは、その、広く共有されている「価値観」なるものが、絶対的で不変のものだと考えることはできないということだ。

 どういうことか。
 美の基準が時代によって、国によって、バラバラなことからも明らかなように、「価値観」は環境や歴史の偶然性に完全に依拠している(……という考え方に自分は賛同する)。あらゆる物事に対して私たちが持つ、何を良しとし何を悪しとするかといった尺度の絶対性を確保するものなど何一つ存在しない。比較して優劣を明確に決定づけるような何かなど、形而上学的な設定を全面的に採用したり、歴史の前後を遮断するないしはそれを素朴な進化論のように解釈したりしないかぎり、ありようがない。

 纏めよう。
 選ばれなかったメンバーが「劣っている」という考え方は、今現在、この場所において広く共有されている「価値観」という、偶然でしかないひとつの物差しで測った際には、という極めて限定的な前提の元に限ってしか成立しない。そして冒頭で、選ばれなかったメンバーが「劣っている」という捉え方に直行するのは短絡的で不適切だと指摘した背景には、「価値観」に関するこのような認識が曖昧な場合において、この前提が簡単に包み隠されてしまうという問題があり、これが非常に厄介である、ということも付け加えておく。

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 前提となる考え方を少し掘り下げることができたので、話を進める。

 選ばれる人間と選ばれない人間、その判定が広い意味における「他者」に依拠している以上、この問題に「運」が大きく絡んでいることは明確だ。今現在、この場所において広く共有されている「価値観」に沿った「価値」を自然と提供できる人間は明らかに恵まれているだろうし、そうではない人間が選ばれるためには、追加のアクションが求められる(そして、アクションを経てもなお、選ばれるかどうかは分からない)。これを「運」と呼ばずしてなんと言おう。
 もちろんこれは、選ばれている人間は単に「運」が良いだけであるとか、今現在、この場所において広く共有されている「価値観」自体に意味が無いと言いたいわけでは無いし、ましてや、今、現在、この場所において広く共有されている「価値観」に沿ったものを提供できる人間になろうと行動することに水を差したいわけでも当然ない。

 選ばれる人間と選ばれない人間を二分する境界は、「価値観」という極めて曖昧で移ろいゆくような類のものであり、個人が選ばれるか否かという問題には、そもそも「運」が大きく絡んでいる、という前提を明晰にしておきたいのだ。これはある意味でたいへん残酷な話だが、とはいえ、この前提を有耶無耶にした盲目的な状態において、「努力」と呼称されるような類の営みが絶対視しされ、継続されることの方がよっぽど残酷であるとも思う。

 なるほど。なんとなく話が掴めてきた感じがする。
 選抜制度が持つ負の側面は、「運」という「残酷さ」との対峙を回避できないところに起因しているように見える。であれば、この「残酷さ」はケアされてしかるべきだ。そもそも、メンバー全員、等しく、グループの一員として選ばれているのだから。選抜制度の正の側面を称揚するのみ、というのはもちろん都合が良すぎるし、選ばれなかった人間を「選ばれるための努力」と「その応援」というストーリーの中に埋没させるのみ、というのも違うと感じる。どちらも、生身の人間の人生そのものを消費する類のコンテンツを作る・享受することに対しての責任感が希薄すぎるように見える。

 だから、ケアが重要だと思う。そして、そういう世界でしょ?という反論については、そんな世界はオカシイだろうと声を大にして言っておきたい。

 では、この「残酷さ」はどのようにケアされていくと良いのだろうか。
 まずはじめに、「価値観」と「運」に関するここまでの話題は前提として共有されていた方が良いと感じる。前述したとおり、そうでなければ、この「残酷さ」は容易に隠蔽されてしまい、問題として取り扱うこと自体ができなくなってしまうからだ。それはまずい。
 各々がこの「残酷さ」を認識することが第一。そのうえで各々が、自分を見つめ、自分のファンを見つめ、各々の納得できる「残酷さ」との向き合い方、捉え方をその都度、柔軟に構築していけるような環境づくりがなされていた方が良いと自分は思う。

 なお、環境づくりに関与するのは運営側の人間だけでなく、ファン側の人間も含まれるということは忘れずに付け加えておかねばならない。応援行為はその内容次第で「残酷さ」の隠蔽に直結してしまうことが容易に想像できるし、応援する側とされる側の関係性には、それが善意に基づくものであっても……というよりそうであればあるほど、ある意味で支配的な関係性、束縛への道が大きく開かれているからだ。これは応援する側=金銭を払っている側という構図である以上、ある程度仕方のない問題ではあるが、しかしであればこそ、できるだけ回避された方が良いだろう。
 盲目の連鎖は見ていられない。

 とはいえやはり、運営側の人間が関与する領域の方が重要度は高いと思うので(というのも、ファンの応援の仕方というのは運営の方針によって大きく方向づけられるだろうというイメージがあるから)、ここからはそちらに焦点を絞って考えてみたい。

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 櫻坂46には、選抜から漏れたメンバー(=バックスメンバー)のみによって行う「BACKS LIVE!!」という興行がある。また、8thシングルにて初めて、バックスメンバーが担当する楽曲のMVが制作された。これらのことをここまでの話題を踏まえて考えてみたい。
 櫻坂46における「BACKS LIVE!!」は、バックス楽曲は、どういった立ち位置となり、どういった捉え方がなされていった方が、より良いのか。なお、今回は現状分析を行わない。櫻坂46において明確な意味での選抜制度はまだ始まったばかりであり、そもそもが形成途上だと考えられるからだ。


「私たちで、櫻坂46を、強くする。」

櫻坂46「BACKS LIVE!!」SPECIAL SITE
https://sakurazaka46.com/s/s46/page/backslive?ima=0000&link=ROBO004

「私たちが、櫻坂46を、強くする。」

櫻坂46「3rd Singe BACKS LIVE!!」SPECIAL SITE
https://sakurazaka46.com/s/s46/page/backslive_3rd?ima=0000&link=ROBO004

「私たちが、櫻坂46を、強くする。」「これが、私たちの、プライド。」

櫻坂46「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE」内、ティザー映像

 「BACKS LIVE!!」では「櫻坂46を、強くする」というキャッチフレーズが一貫して用いられている。まずはこれを掘り下げるところから始める。このキャッチフレーズを捉えてみたい。
(なお、「7th Single BACKS LIVE!!」については、公式サイトにキャッチフレーズが記されていない。これは「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE」内で発表されたティザー映像で確認できたものを載せている)

 そもそも、櫻坂46が「強くなる」とは一体どういうことなのだろうか。選ばれたメンバーと選ばれなかったメンバーをひとつの物差し(優劣という価値観の物差し)上に配置し、「劣っている」側である選ばれなかったメンバーが「優れている」側である選ばれたメンバーに近づくことで、櫻坂46のメンバー全体が「優れている」に寄り、イコール、櫻坂46が「強くなる」。はじめに思い浮かぶシンプルな解釈はこういった類のものだろう。
 しかし、ここまでで共有してきた「価値観」についての認識、選ばれるメンバーと選ばれないメンバーについての認識を踏まえれば、それがいかに素朴な解釈であるかは明白だ。繰り返す。選ばれるメンバーと選ばれないメンバーを二分する境界は、今、現在、この場所において広く共有されている「価値観」に基づくものであり、それは極めてあいまいで移ろいゆくような類のものであるということを。そして、付け加える。「価値観」という安定しない土台の上に立っているのはグループ内におけるメンバーの評価だけではない。櫻坂46というグループ、その全体の評価自体もそれに依拠しているということを。

 これらの前提において、櫻坂46が「強くなる」とはどういうことなのかを考える。するとどうだろう。それは、櫻坂46が、「価値観」という土台がどのような状況になったとしても、適切なポジショニングができるようになること、または「価値観」という土台の手綱をも手中に収められるようになることだと、捉えられるようにはならないだろうか。
 今現在、この場所において広く共有されている「価値観」に十全に沿うわけでは無い部分で、別の価値を模索し、別の物差しを提示し、これを継続することで、安定しない「価値観」という土台に耐えうる足腰を鍛えること。または、その過程において新たな土台を自らで作り上げてしまうこと。
 日々目まぐるしく変化していく「価値観」の荒波に対して、櫻坂46が「強くなる」。

 この考え方が好ましく思えるのは、それが、選ばれなかったメンバーが抱える「残酷さ」に対する適切なケアとして機能しうると思えるからだ。この考え方であれば、「残酷さ」を「誇り」として捉えられる。なぜか。(この考え方における)グループを強くする、という役割は、バックスメンバーが担うに相応しい、というよりむしろ、バックスメンバーにしか担えない「誇り」のある役割だと肯定的に捉えられると想定できるからだ。

 どういうことか。選抜メンバーにこの役割が担えないのはなぜか。
 それは、選抜メンバーとは、今、現在、この場所において広く共有されている「価値観」というひとつの物差しをもとに選ばれたメンバーだからだ。グループが商業的な成功を手にすることは前提としておかなければならない以上、この物差しを歪ませることは非常にリスキーで、ゆえに、選抜メンバーにこの役割は担えない。担わせられない。

 しかし一方で、以下のような反論も思いつく。結局は上手く言いくるめて「残酷さ」を隠蔽しようとしているだけなのではないのか。これはあまりにグループ至上主義的な考え方であり、選ばれなかったメンバー個人のことを蔑ろにしてはいないか。この二つに対応したい。

 まず前者について。これは明確に違うと言える。捉え方を変え、違う向き合い方をしていくことは隠蔽ではない。隠蔽とは、そもそも存在しなかったかのように振る舞うことであり、向き合うためにはまず、その存在を認識しなければならないからだ。
 続いて後者について。こちらについてはなるほど、その傾向はあるかもしれない。自分がこの考え方を良しとするのは、自分において「個人」を軽視するきらいがあるからだ。しかし、ケアのなされ方についての部分で記したことを再掲しよう。各々が、自分を見つめ、自分のファンを見つめ、各々の納得できる「残酷さ」との向き合い方、捉え方をその都度、柔軟に構築していけるような環境づくりがなされるべきだと、自分は思っている。

 自分は「選ばれるための努力」と「その応援」というストーリーや、今現在、この場所において広く共有されている「価値観」に沿ったものを提供できる人間になろうと行動することを否定したいわけではまったく無い。ただしそれらは、選択肢のひとつとして提示されている程度のものであった方が良いと思っている。何かを絶対視している限り「残酷さ」と健康的に向き合うことはできないだろうと思われるからだ。
(健康であることが不健康であることよりも必ずしも良いかどうか、という問題については、今回は深入りしない。)

 このように捉えていくと「7th Single BACKS LIVE!!」で新たに追加された「これが、私たちの、プライド。」というフレーズはすんなりと飲み込めるようになる。そして、オールスタンディングライブという、普段とは異なる試みで開催されたそれをどう捉えれば良かったのだろうか、どう受容すれば良かったのだろうか、という振り返りもできる。
 この点について、このnoteで言語化したいとは思わないので省略するが、自分は「7th Single BACKS LIVE!!」に対して企画としての「良さ」を感じた。しかし、全体的な受容のされ方はイマイチだったと感じた。

 運営にはこれからも様々な模索をする場としての「BACKS LIVE!!」を企画し続けてもらえたら自分は嬉しく思う。そして、ファンのあいだにおいては、多様な受容の仕方ができる土壌が形成されていくと良いなと思う。そういう環境の中で紡がれる物語は明瞭さに欠けるだろうし、鋭さも落ち着くだろうけれど、でも、そちらの方が健康的で優れていると思う。

 ……それなりに纏まったと思えるので、これにてひとまず終了としたい。「7th Single BACKS LIVE!!」2日目(2024/1/16)に現地参加し、それ以降ずっと考えていたことはひとまず整理できた。これを踏まえて、次回の「BACKS LIVE!!」を楽しみに待とう。

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追記。

 ところで今回の試みに際して、先輩グループ、乃木坂46における選抜制度、選抜外のメンバーで行われる興行「アンダーライブ」の歴史を全面的に参考にした方が良いのでは?と、思われる方がいるかもしれない。そのとおり。自分も思う。しかし出来上がりを見てのとおり、それには一切触れていない。
 理由は主に二つあり、まず一つ目は、如何せん、自分がまったくそのあたりの話を知らないためどこから手を付けて良いのかすら分からず、そもそも今から調べたところでどうにかなるようなものでもないような気がしたからというもの。そして二つ目は、一旦見ないで自分なりに考え方を纏め、そのうえで「アンダーライブ」を観に行けば、それが答え合わせ的な色味を帯びて面白そうだと思えたからというもの。これには、結果として車輪の再発明になったところで別に良いではないか、自己満足なんだから、と思えたからというのも付随している。

追記の追記。

 この文章を纏めている最中、8thシングル収録のバックス楽曲『油を注せ!』のMVが公開された。MVを視聴するにあたって頭の中がこういった話題で一杯だったことから、それに引っ張られている節は多分にあるのだろうけれど、とはいえMVからは確かな「良さ」を感じた。嬉しい。
(歌詞については残念ながら特筆事項が無い。)

 象徴的に何度も用いられる、画面下手側から上手側を見つめるセンター、武元唯衣のカットの数々が、まず非常に良い。それは武元唯衣をはっきりと強者として描く構図であり、未来を捉えている様を描く構図でもある。
 退屈気な視線の先にある動きの無い「静」の舞台を提示する冒頭部分。その後、赤の背景が印象的な「動」のカットを挟み、それを自らの可能性として捉えて以降、メンバーの表情が変わっていく。客席から立ち上がり、走り出す。踊り出す。石膏像は美しいモノであるが、それは意図的に切り取られた不変のモノだ。もはや言葉で説明するかのように、目=視界は包帯で遮られ、涙まで流れている。これを勢いよくハンマーでたたき壊し、ラスサビの覚醒に向かうという構成は見ていてとても気持ちが良い。
 そして見逃せないのが、楽曲終了後に表示されるクレジットの背景だ。舞い続ける櫻の花びらとは対照的な、動きの無い「静」の舞台が再演されている。「価値観」とは、この繰り返しなのだ。

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余談。

 「7th Single BACKS LIVE!!」2日目のMCにて、今年の抱負として「一日一善」をあげた小田倉麗奈。大谷翔平が高校生の時に作成した目標達成のためのマンダラチャートに記されていた「運」の項目に触発されてのことだと述べており、「運」を手にするための善行とは?と首を傾げざるを得ない部分もあるのだが、とはいえ、「運」を明晰に捉えているこの着眼点は流石だと感じた。

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追記の追記の追記。

 「櫻坂46 4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?」において披露された『油を注せ!』。その間奏部分、センター武元唯衣は、横に倒れた椅子を戻すことなく、それに座り込む。このnoteの答え合わせのような演出ではないかと感じた。

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