櫻坂46『承認欲求』感想。現代に生きる私たちがデフォルト状態において抱えざるを得ない欠如について。
現代に生きる私たち人間の大半において、「承認欲求」とは否定的であれ肯定的であれ、実に身近なホットワードであることは言うまでも無い。
他人から承認を得ることはとても気持ちが良い。
承認という快楽は多くのことを成し遂げる動機として十分値すると思われるし、実際、承認の連鎖を軸にして活発な活動をしている人間は少なくない。承認の肯定的な側面である。
しかし、そこには危険が伴っていることを付け加えねばならないだろう。具体例を挙げるまでも無く、承認を得る心地良さは承認への耽溺へと滑り込む道が大きく開かれている。承認の否定的な側面である。
ではなぜ、人間は承認を得ることをここまで気持ち良く感じるのか。それに振り回される傾向にあるのか……
歌詞の中でも触れられているが、SNSの存在は非常に大きい。人々を過剰に接続するプラットフォームの前提化が承認欲求の肥大に繋がっていることは間違いないと言える。しかしそれは、我々が承認欲求に振り回されがちになる主たる要因でこそあれど、根底の部分、承認を得ることをここまで気持ち良く感じるのはなぜか、という問いに答えられるものではない。
通常においては満たされない「何か」があり、それが他人からの承認によって満たされる……
櫻坂46、7枚目シングル表題曲『承認欲求』その歌詞において、そういった類のフックを見出すことは残念ながら難しい。
承認欲求に振り回される人間の様子を素朴な言葉選びで並べたてるというのが内容のほぼであり、それに対する何かしらの見解・アプローチは無いに等しい。何を期待しているんだ?と言われればそれはそうとも言えるのだが、とはいえ、そういう側面から捉えてみれば、物足りなさ・陳腐さを感じざるを得ない作品のように思う。
ただし、何かしらの見解・アプローチが全く無いかと言えば、実のところそうでは無いのかもしれない。
サビの最終節、君は君「でしかない」と切り捨てるこの言葉選びは注目すべき点ではなかろうか。
なぜなら、楽曲全体の陳腐さを徹底的に突き詰めるのであれば、君は(かけがえのない)君なのだから「承認欲求」なんかに振り回されないで大丈夫だよ!といった意味合いを込めて「君(=自己)」を(無条件に)肯定的に称揚する締め方を狙う方が良い……というよりそちらの方が自然な印象を受けるからである(現にそういった楽曲は世の中に溢れている)。
ところが、そういう着地はしない。
その前節「他人とは違う 何かって何?」と合わせてこの最終節を読むとき、「君は君らしく生きていく自由があるんだ」と高らかに宣言した数年後、「らしさって一体何?」という甚大な自己矛盾と向き合うことになった、かつての流れがふと頭によぎる。
さて、そんな引っ掛かりを捉えたうえでMVを観る。すると何やら面白く咀嚼できそうな要素が沸々と浮き上がってきたため、今回はそれを言語化することで感想にしておこうと思う。
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・人間の認識と宗教。信仰について。
現代に生きる私たち人間が当然のものとみなす人間観は決してアタリマエのモノではない、という前提から話を始めたい。
「君は君らしく生きていく自由があるんだ」といった文言が通用するのは明確に近代以降の話であり、今のように「君(=自己)」が何の後ろ盾も必要とせず独りで立ちあがり、そんな状況であるにもかかわらず、それ(自己)を無条件に肯定する、ないしは前提とするような価値設定が当然視されるに至るまでには多くの段階を踏んでいる。
ハンナ・アレントは『人間の条件』の中で、近代以降における思考様式の変化、その転換点としてガリレオによる天体望遠鏡の発明を強調している。
人間の日常的な感覚についての確かさ。例えば、地球の周りを星々が回っているように見えるという確かさ。なぜそうなるのかは分からないが、とはいえそのように見える、という事実は現代に生きる私たちにとっても明らかである。
天体望遠鏡の発明による世界の解像度の向上は、こういった認識・前提に揺さぶりをかけた。人間の素朴な認識は正しくないということが決定的に明らかとなり、そして、であれば、神の派出所たる我々(=神に作られた我々)の理性によってもたらされたこの認識が決定的に間違っているとするならば、その前提となる神の存在自体もずいぶんと怪しいものに見えてきてしまう……
こういった事情を背景にして登場したのが、「われ思う、ゆえにわれあり」という、かの有名な言葉を残した哲学者ルネ・デカルトである。
目に見えるもの耳に聞こえるもの肌に感じられるもの、それら全ては正しくないかもしれない。あらゆるものが疑わしいが、とはいえこうして疑っている自分、疑っていること自体は少なくとも確かだろう。「われ思う、ゆえにわれあり」というわけだ。
しかしここで付け加えねばならないのは、デカルトはその後、これをスタート地点にして神の存在証明を行ったということである。人間理性に基づく認識の地位が花開いたとはいえ、この段階(17世紀)における人間理性の背後には神的存在が必要だった。広く浸透し絶対視されていたキリスト教的な自然観、秩序に大々的に反するわけにはいかなかったからだ。
しかし、それゆえに人々は、この段階においては神的存在を媒介にして接続が担保されていたのである。
そして18世紀以降、人間理性は目まぐるしい躍進を見せる。もはや神的存在を前提とした自然観は迷蒙と断され、人間理性は、個人は、かつての秩序、伝統から独り立ちしていく。科学技術の発達、産業革命、回り始めた資本主義などによる生活様式の変化はそれと密接に絡んでおり、途中大きく省略するが、こうして現代に生きる我々が当然視する個人主義にまでたどり着く。
秩序、伝統に雁字搦めにされた生に対する、個人主義の良さ(平たい言い方)は言うまでも無く明らかであり、自分はそれを否定するつもりは毛頭無いし手放したいともまったく思わない。
しかし、かつての宗教が担っていた役割、人間が宗教から受け取っていたもの、個人主義を謳歌する現代の人間たちが受け取れなくなったものについては、歴史を振り返りながら考えるべきだと思われる。なぜなら、私たちに満たされない「何か」があるのであれば、それをどうにかする糸口のフックはそういうところにあるかもしれないからだ。
MV冒頭、センターを務める森田ひかるは教会で祈りを捧げる。その顔付きは平穏だ。なるほど。信仰とは神からの承認ではないか。
そこからの離脱。君は君でしかない。
また、こういった視点から捉えてみると、メガネを踏み潰すカットも象徴的なように感じ取れるかもしれない。世界の解像度が向上し形而上学を克服した人間たちは数多の恩恵を得こそしたが、それと引き換えに恒常的な欠如を抱えるようになった。それに対する苛立ちが表現されているのではという見方は、そこまで的外れではないように思う。
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・画廊に並ぶ絵画について。
ところで、こういった自然観・人間観の変化は西洋美術の歴史とも深い繋がりがある。そのため、MV中盤以降の舞台となる画廊、そこに展示されている絵画にはいくつかのフックを見出すことができそうだ。
整然とした表現が成されているわけでは無さそうであり(自分はすべてを把握することが残念ながらできなかったためそのせいかも知れないが)、部分部分をもとにふんわりとした咀嚼を行うことにはなるが、いくつかをピックアップしてみたい。
横一列に並ぶシーンから分かるとおり(画面上)右側に一期生が、中央に二期生が、左側に三期生が配置されている。
では、それらの背後に展示される絵画はどのようなものか。右端の2枚は雰囲気的にバルビゾン派の農民画あたりだと思われ、中央部にはモネの『睡蓮』が、左端にカンディンスキーの抽象画が見える。なるほど、これは時系列的に整った並びである。
(間にフェルメールや、あとはおそらくルネサンス期の宗教画と思われるものが挟まっているため、整然とした表現が成されているわけでは無さそう、というのはそういう話である。ようは都合の良いところを摘まんでいるだけ。以下、それを前提とするためオカルト成分が強い。)
まず初めに。
近代以降における西洋美術の歴史は、確固たるものとしてあった既存の秩序からの離脱・反逆、それらの連続である。既存の秩序=キリスト教、それを視覚的に説明する役割を担っていたのが伝統的な美術であり、その濃度に薄まりが生じ始めるのはルネサンス期以降のこと。
つまり、バルビゾン派の農民画、素朴な風景画という、現代に生きる私たちからしてみればなんてことのないこのジャンルも、歴史の上では秩序に対する反逆の一側面なのだ。かつて、なんてことのない素朴な風景画、なんてものは認められなかった。一見そのように見える作品においても、実は宗教的なモチーフが含まれていた。
さて、近代以降、人間理性に神的存在の後ろ盾が無くなり始める=秩序が崩れ始めると、その影響は美術界にも当然広がっていく。
クロード・モネ、「印象派」の代表的な画家。
「印象派」という括りは、それにカテゴライズされた画家たちが自ら名乗りだしたのではなく、むしろ批評家による彼らへの悪口として始まったわけなのだが、このラベルリングは極めて的を得ているように思う。
彼らは当時開発されたばかりの絵の具チューブを手にし、アトリエから飛び出した。戸外制作の始まりである。自らの目に映る世界、光の反射によって絶えず色彩が変化するこの世界、それをその場でキャンパスに落とし込んでいく。
この制作方法における最も重要なポイントは、彼らは世界をより正確に写し取ろうという意気込み・発想でこういった制作方法に着手した、という点である。世界を正確に写し取るための土台を、秩序から、人間理性に基づく認識に変更したというわけだ。真なる世界は、彼らにおいて秩序の内にはもう無い。十全に世界を捉えるべく、自身の認識を研ぎ澄まし、瞬間的に得られた印象をその場で正確にキャンパスへ写し取る。
この転回(それは印象派よりももう少し前から始まっているのだが、ここでは省略する)こそ、後の美術がなんだかヨクワカラナイモノになっていく=客観性が薄れていく、根本的な部分に他ならない。
主観に重きを置けば置くほど、出来上がるモノの客観性は薄れていくという皮肉。
「印象派」の技法によって描かれたあのほわほわとした絵画たちは、キャンパスに落とし込まれたモノ・客観的なモノがその中で雲散霧消していくまさに瀬戸際なのであり、その延長線上に、それこそカンディンスキーの抽象画は位置している。
改めて『承認欲求』MVの話に戻ると、ラスサビ前のラップパート、森田ひかるの遊離がモネ『睡蓮』を背景にして行われるというのは含みを感じられそうでオモシロイのだ。
(※その右にある小さい絵は知らないので、誰か教えてください。)
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・最後に
ところで、というよりここからが本質的な部分だと思われるのだが、7枚目シングル『承認欲求』は、発表された3つのMV付き楽曲『承認欲求』『マモリビト』『隙間風よ』をセットで咀嚼する、1つのパッケージとして咀嚼するのが非常に面白いと感じる。
現代に生きる私たちがデフォルト状態で抱える欠如を描く『承認欲求』。
共同体という秩序・伝統の内に自らを置き、それを紡いでいく立場に立つことで充足する人間たちを、ストレートな言葉によって描いていく三期生楽曲『マモリビト』。
そして、秩序・伝統を紡ぐとはどういうことであるのか、どうあっていく方がより良いのかを、豊富なメタファー、演じ手のコンテクストをもって、見る側に考えさせる一期生二期生楽曲『隙間風よ』。
並べることで明確になる、このパッケージとしての完成され具合。まさに傑作だと思う。
特に注目すべきは三期生の存在で間違いない。
櫻坂46の第二章における三期生の加入という大きなイベント、それ自体がコンテクストとなり、このような形で表現全体の下地になっている。あまりに上手すぎるのではないか。
ZOZOマリンスタジアムで行われる「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE」、そして三期生による単独公演「新参者 LIVE at THEATER MILANO-Za」がどのようなものになるのか。今から楽しみで仕方がない。
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