櫻坂46の第二章について、「3rd TOUR 2023」を終えての感想。
1stアルバム「As you know?」を引っ提げ、菅井友香の卒業をもって幕を下ろした「2nd TOUR 2022“As you know?”」。それが櫻坂46としての第一章、青の時代の余韻が良くも悪くも残る、難しい状態の締めくくりであったことは恐らく間違いなかったであろう。
全11公演が終わった今、思うのはそんなことである。
それまでの軌跡を振り返りつつ今後の地盤を固めんとした「2nd YEAR ANNIVERSARY ~Buddies感謝祭〜」、それを踏まえたうえでの三期生加入、5thシングル「桜月」発売、そして開催された「3rd TOUR 2023」。
夏の終わりごろから始まるのが常であったツアーが今年は春の開催となり、(言ってしまえば)楽曲自体はシングル1枚分しか増えていないという状況の中で行うことになったそれについて。自分は正直なところ、どうなるものかと若干の疑問を抱いていた。2ndツアーの出来が非常に良かったというのはやはり大きかったらしい。そして、そんな予想はこの度、あっさりと打ち砕かれることになった。
なぜか。それは、第二章の明確な一歩を提示した櫻坂46の姿が見えたように感じられたからである。どういうことか。
今回はそれを、3rdツアーおよび、5thシングル「桜月」、そして、大阪公演直前にMVが公開され、ツアーファイナルにて初披露となった6thシングル表題曲「Start over!」から自分が受け取れた印象をもとに言語化してみようと思う。自分はメンバー個人個人の話を言語化するのが苦手なので、いつもどおりそれ以外の部分がほぼとなるが、もちろん個人を蔑ろにしているわけでは無いのであしからず。
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・「大人」の再定義、その領域に足を踏み入れた彼女たちとしての
まずは前提から。
櫻坂46およびその前身たる欅坂46の楽曲には、「他者との関わり」というテーマ(それは「生きる」という活動からおそらく絶対に切り離すことができない)が込められがちである。「他者」それは「自分以外の人間」であり「社会」であり「世界」であり、抽象的に捉えるなら、自分の思いどおりにならない存在全般と言えるだろう。なるほど「他人」の気持ちなんて実際のところは分からないし、「社会」は理不尽にまみれている。そして、かつての楽曲はそれらを否定的な文脈で捉え、拒否することで自己を肯定しよう、堅持しようとする傾向が強かった。「大人」というワードはそういうときに用いられた。
しかし、このアプローチはその場しのぎの痛み止めにこそなれど、その実たいへん不毛である。なぜなら、先に述べたように「生きる」という活動から「他者との関わり」を切り離すことはできないからだ。その必然的帰結として、いわゆる欅坂的な方向性は「黒い羊」という袋小路に陥ってしまった。
哲学的な文章を引用するまでも無く、「生きる」という活動から切り離せない「他者との関わり」には「摩擦」が前提として付きまとう。「他者」は思いどおりにならないからだ。であれば程度はどうあれ、否応にもそれと向き合わなければならないだろう。むしろ「摩擦」との向き合い方を考えることに重点を置くべきだ。それを拒否できるのは「子ども」の特権であろうが、しかし、時は流れ、彼女たちの大半はもう「大人」なのだから。
今の櫻坂46が表現するものを咀嚼するにあたり、下地として捉えておきたいのはそういうことだと自分は考えている。
・ドラッグとしてではなく、自らの糧として
このような前提をもとに考えると、自らの思いどおりにならない事態に対して嫌気がさしたとして、現実問題、我々はその中で生きているという事実から目を背け、森へ帰るわけにはいかないだろう。それはつまり、コンテンツをドラッグ(=依存性のある現実逃避の手段)として摂取してはならないという話に繋がってくる。どういうことか。これは勿論、何が何でも我慢しろ受け入れろという話ではないし、その場しのぎの痛み止め的な処方を全否定する話でもない。「嫌気がさしている自分」という自らの思いどおりにならない存在に対しても、おそらく向き合うべきだろうということだ。コンテンツは自らの糧とし「生きる」という活動そのものに還元せよ。
「Nobody's fault」「なぜ 恋をして来なかったんだろう?」「Buddies」が櫻坂46としての第一章の始まりにおいて明確に提示した、いわゆる欅坂的なものに対するアンチテーゼの数々、それをどのように摂取して欲しいのか。第二章の基軸はおそらくそういうところにあるのではないかと踏んでいる。
・「Cool」「Start over!」のMVが持つ共通点
それを表現していると思われるのが「Cool」「Start over!」におけるMVの構成だ。早い話が、両者ともに妄想オチという構造で作られているのがポイントである。
閉塞的な環境のメタファーとして、「Cool」では薄暗いレストランが、「Start over!」ではオフィスが舞台として用いられ、それらの中で暴れまわる様子が描かれたのちに、今までの映像は妄想でしたとオチが付く。これについて、それでは状況が何も変わらないじゃないか、気を紛らわせておけとでも言うのか、と感じる人がいるかもしれないが、まさにそういった意見が双方においてやんわりと否定されているのが見逃せない。注目すべきは妄想の前後、MV冒頭と末尾における状況変化と着地の仕方。「Cool」では現実と虚構の境界そのものが曖昧になり、「Start over!」では机から落下するマグカップの色が変化するのだ。
なるほど、妄想という自らの内部で完結する活動は、決して周囲に大きな変化をもたらさない。しかし、全く持って変化が無いわけではないだろう。自らの内部で完結する活動とは、実際のところ、自らの内に秘める自分との向き合いであり、その過程において自らは何かしらの変化をする。それに伴って周囲の見え方もある程度は変化するのだ。そして、見え方が変わるということは実質的にそのものの変化と同義なのである。
定義上、我々は「他者」を外圧(=自らの積極的アプローチ)によって本質的に変化させることができない。一見そのように見える状況もあるが、それには大きく分けて、支配関係・自らの変化・「他者」の内発的な変化、という3つのパターンがあると思われ、今回、取り上げられているのは勿論、このうちの2番目のパターンである。「他者」の内発的な変化は外圧をかけることによっては起こりえないだろうし、支配関係はそもそも健康的でない。一方、自らの変化については地に足がついているように思われる。そこには(話は少し飛躍するが)こうして変化した自らに触発された「他者」が内発的に変化する可能性、つまり本質的な変化に繋がる可能性もある。非常に現実的なアプローチなのではなかろうか。
この、自らの変化というアプローチは、櫻坂46の第一章第一節「この世界を変えようなんて自惚れてんじゃねぇよ」の時点で明確に提示されていたものであるが、直接的な表現で固められた「Nobody's fault」の歌詞を見れば分かるとおり、そのプロセスについては非常に外圧的であり、端的に言って、説教臭く映りやすい。それが「Cool」「Start over!」という直近の作品においてはメタファーとして表現の中に仕込まれている。これが面白い。メタファーは自らの内で咀嚼するものであるから、内発的な変化に至りやすいのだ。聖書が物語(=メタファー)という形式になっているのはまさにそういうことなのだろう。
・フレームおよび檻という舞台装置
「3rd TOUR 2023」の話に移る。メインステージの前面には四角いフレームのように見える液晶ディスプレイが、センターステージには上下に動く檻のようにも見える液晶ディスプレイが設置された今回のライブツアー。それらを用いた演出から読み取れるものは何か。
公演冒頭、セットリスト1曲目「Cool」においてセンターを務める大園玲は、センタステージから登場し、スキャンされ、アクティベイトされ、花道を歩いてメインステージに向かう。フレームの内側に入る。一方で、本編最終曲「桜月」にてセンターを務める守屋麗奈は、楽曲終了後にその余韻を噛み締めながら一人、フレームを超え、センターステージの方へ歩き出し、檻の中に納まっていく。そういうエンディングが設けられている。千秋楽のみ披露された「Start over!」においても、ラスト、センター藤吉夏鈴は一人ふらつきながらもフレームの外側に出る。その他、檻の中から始まる楽曲が「なぜ 恋をしてこなかったんだろう」および「Dead end」であることなどを踏まえれば、フレームという舞台装置は境界であり、それを用いることで、現実と虚構という二つの領域を表現しているのではないかと自分には受け取れた。言うまでもなく、フレームの内側であるメインステージがコンテンツという虚構であり、フレームの外側、ライブを観に行っている我々の側が現実。それを強調する檻という舞台装置。ただし、現実と虚構は完全に二分されるものではなく、地続きなのである。
それはまさに「Cool」「Start over!」がMVの構造を用いて提示するテーゼそのもののように見える。
・新キャプテン、松田里奈体制における良い意味での「軽さ」
続いて、空気感の話をしたい。
本ツアーはキャプテン松田里奈体制による初めてのライブツアーだったが、全11公演を終えて自分の内で最も印象に残ったのは、彼女の良い意味での「軽さ」あるいは重くさせようとしなさであった(これは、キャプテン菅井友香体制において付き物だったある種の「重さ」を悪い意味で捉えつつの感想では当然無く、純粋に方向性の変化を感じ取り、コレも良いなと感じただけの話であることは誤解なきよう強調しておく)。
終演直前のMCにおいて各地で繰り返し用いられた、「足を運んでくださった皆さんの明日からの活力になったら幸いです」といった類のフレーズたち。それらは観客の意識の傾きを心地よい仕方で現実に引き戻す効果があったように思う。重厚なコンテンツが孕む、摂取した人間の傾斜・埋没という危険性を回避しようとするスタイル、あくまで現実を彩るものとしてのコンテンツ、という立ち位置を保とうとしている印象を受けた。
「Start over!」のセットリストへの組み込み方についても同様の話ができる。かつての「不協和音」「アンビバレント」「黒い羊」のように、ダブルアンコールにて披露→即終演という方法を今回は取っていない。物語に浸らせた後、時間をかけてしっかりと引き戻す。重くしすぎない。
なるほど、没入できるほどに重厚なコンテンツを作るのみというのは、ある意味で無責任なのかもしれない。
・終わりに
櫻坂46は新たな「理念」を打ち出しているように思う。
それは、彼女たちが表現するものについてのポジショニングであり、おそらくその背景にはかつての反省が含まれている。これを第二章の明確な一歩と言わずしてなんと言えようか。そして、それを直接的な言葉で提示するのではなく、メタファーを用いて表現の中に組み込んでいるところに、自分はカッコよさを感じる。
摂取したコンテンツの内側で閉じるのでは無く、現実に回帰する。コンテンツを咀嚼し消化し「生きる」という活動そのものに還元する。
そういった、良い意味での「軽さ」。
つい昨晩公開された「Start over!」のTVCM、3パターンあるうちの1本目にオンエアされたものを見たとき、自分は思わず唸ってしまった。藤吉夏鈴による曲タイトルのコールが、もはやこちらを揶揄うかの如く、とても軽かったのだ。
カッコいいったらありゃしない。
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