死んだタマゴ
自然界の法則では、卵は必ず2個産むらしいです。どちらかの卵がダメになってしまっても一つは生き残るように。
きっとそれは人間の世界も同様で、たくさんの卵が産まれてそのなかの一部が死んでしまうのはきっと計算されたプログラムの上なんだろう。
新しい職場につくとき、私はどちらの卵だろうかと毎回考える。同期と話しているとき、私はちゃんと生きてる方でいられているか考える。そんなことを考えるとき、私は大体死ぬ側の卵だ。
私の人生はいつも、死ぬ方の卵だった。きっと私は必要悪の不良品卵なのだろう。私が辞めたところで世界はなんの影響も受けもしないが、もしかしたら私のような腐った卵を見て「こうはなりたくない」と反面教師として知らないうちに役に立てているのかもしれない。
人生に対して被害者意識をもって生きるのはやめようと以前に決めたことがある。そう気づけたのはとてもいいことだったと思う。これは人に言われて気づいた事だけど、ちゃんと自分の置かれた状況を客観視できるし、自分の身に起こる事を他人のせいにしないことで自分を変えることでしか現状が変わらないことに気付ける。
そんな客観視した目をもって断言すると私の今の現状は私自身が招いたものだし私自身が決めて動いてきた結果で責任だ。それを十分に分かったうえで逃げたいしもうこのダメダメのボロボロの人生を捨てたい。
図工の時間、書き損じた紙をすぐに新しくしようとした私を教師に止められた。「紙の無駄だしもう一度消して書き直せばいじゃないか」私は一度書いた鉛筆を消した跡が嫌いだった。もう一度新しい紙に、綺麗な線を書き直したい。それがどんなに無駄なことなのかもどんなに愚かしい事なのかも小学生だった当時よりわかっているはずなのに、失敗した紙が許せない感情だけはずっと変わらない。私の紙はもう書き直せない。消しゴムを使いすぎたせいで紙自体がもうボロボロ。失敗した線が許せない。そのころから私が死んだタマゴであったことは決まっていたのだろうか。
この世の中、必要じゃない人間なんていないというのが嘘で本当であることを知る。毎朝死にたいと思いながら歩いている道で寝泊まりしている人を見ては、心のどこか奥で「ああ、この人よりは自分はマシだ」と思っている。そんな自分にももう疲れてしまった。
私と一緒に生まれた卵は今頃ひよこから鶏になっているだろうか?それとも孔雀?私はずっとここで死んだタマゴとして生きていくのだろうか。いつまで割れない卵でいればいいのだろう。自分で転がって中身をぶちまけてしまいたくなる。きっと明日には何の変哲もなくまた別の死んだタマゴがならんでいるだろう。
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