もしも命が描けたらにもしもの話があまりないのが気になったのでまとめてみた
もしも命が描けたら、あなたはどうしますか?
⚠ネタバレありです⚠
この話を何度も見て、月人の人生について考えてみた。
幼い頃、父親の顔も知らず母親の愛を受けて育つも、その母親も男を作り出て行き、伯母のところで幸せとも不幸せとも言えない人生を送る。
おとうさん、おかあさんと無理に呼んでいた二人も、やがて伯父の自殺により、伯母も無表情に。
夢も諦め、生活のために働いていた所に星子が現れ、ようやく幸せになったかと思うと、その幸せさえも崩されてしまう。
自分が月人だったら、と考えると、中々のハードモード。本当に世の中のバランスが悪いと。不幸が次々とやってくる自分の運命を呪うだろう。
見守っているだけで、何も助けてはくれない三日月に対し復讐と、自殺を図るも失敗。
しかし助かった月人は、三日月から、命を描く力を授けられる。
ここでひとつ疑問に思う。月人は少しは思わなかっただろうか。この力がもう少し前に手に入っていたら、星子を助けられたのでは、と。
しかし彼は一度もその言葉を発していない。タイトルの【もしも命が描けたら】に対し、月人自身は過去の色々な不幸な事柄に、僕のせいだ!などは言っているものの、もしあのときああだったら。もしこうしていれば。ということをほとんど言っていない。
ありとあらゆる事柄をすべて吸収して落とし込んでいる。命を描く力を得たとき、こちらに歩んでくるシーンの表情からも、戸惑いというよりも受け入れて進んでいく、との想いを感じる。
もしあのときああだったらなんてことは考えていない。起こったことは受け入れ難いことでも仕方がないと受け入れる。受け入れるフリかもしれないが。
命を描く力を手に入れたときも、もっと前に手に入れられていたら星子が助かったのにと、過去に目を向けるよりも、自分がこの力で命を削り、この先で待っている星子に会いに行こう。と未来に目を向けていた。
彼自身が真っ白なキャンバスのように、一度足した色はもう消せないように、思い描いていた色ではないものの、筆をすすめている。すすめるしかないといった感じでもある。
前向きな言い方をすれば達観している。そうじゃない言い方をすれば諦めの境地で人生を歩んでいる。まさにその言葉通り。
そんな中で虹子と出逢う。彼女との出逢いは月人というキャンバスに何色もの彩りを与えてくれた。死ぬというゴールに向かっている月人に生きる喜びを教えてくれた。
育つことのなかった愛の種が少しずつ育っていったことにより、今まで起こる事柄をすべて受け入れるフリ、平気なフリをしていた月人が、生きたいと思うようになり、陽介の迎える運命をも変えたいとも思うようになった。
星子が月人のフリを取り払ってくれたように。虹子は月人に生きる喜びを、人生の価値を教えてくれた。
過去は過ぎ去りし日と書くように、変えることは難しい。キャンバスを何も描かれていない状態に戻すことは残念ながらできない。
そして幸せになれる人と不幸になる人が決まっていることなんてない。未来を変えられるとしたら、出逢い。これから出逢う人によって、これからを面白い人生に変えていける。
作中にも、「色を変えていった」、「色を加えたいと思った」といった言葉が出てくる。その点で考えれば、過去を変えるのではなく、一貫してこの道の先の未来を変えようとしているのだ。
灰色になってしまったキャンバスも塗り重ねれば、それは味わいになったり、身震いするほど美しい極彩の作品になったりもするだろう。
過去は変えることはできないが、未来なら出逢いで、自分の力で、どれだけでも変えていける。そんなメッセージを私は作品から受け取った。
願わくば。これから三日月と出逢う小さな君が、絵を描いて、絵を描いて、たくさんの出逢いを経て、命を描けたとして。
何らかの運命がもしも何処かで変わったのだとしたら。月人と星子。二人が三人に。三人が四人に。
そんな未来も描けますように。今宵もそんなことを月に祈る。
たなかな