第47話「発心道場で味わう孤独」(徳島県)
自転車日本一周旅〜人生で大切なことはすべて旅で学んだ〜
四国88箇所霊場の多くは山深い標高の高い場所に存在する。
「発心の道場」阿波国の代表的な難所は、第21番「太龍寺」、第20番「鶴林寺」、第12番「焼山寺」だ。
「峠は足つき無し」は名ばかりで、とてもペダルを漕ぎ続けることが出来ない遍路ころがしの急坂にノックアウト。
一歩一歩と荷物を満載した自転車を押して札所を目指す。当然体全体に負担がかかる。足の踵はプックリと水膨れができて心身共に悲鳴を上げる。
極限状態まで心身が追い込まれる。
四国の大自然の前に、ただただ呆然と立ち尽くし、自分の小ささを思い知らされる。
四国88箇所霊場は、第1番「霊山寺」(徳島県)から時計回りに第88番「大窪寺」(香川県)まで各札所に番号が決められている。この番号の順番通りに札所を巡ることをに「順打ち」と呼ぶ。
この順番の逆で巡ることを「逆打ち」と云われ、順打ちの3倍のご利益や功徳が得られるという。
これはお遍路の開祖である弘法大師(空海)様は、今でも順打ちで各札所を巡っていると信じられている。つまり逆打ちで巡ると必ずどこかで弘法大師様とすれ違う、また出会えるという考えから来ているようだ。
俺の場合は一体どうなのだろうか。
愛媛県から始めて、今治、松山市内を巡り、宇和島、高知方面に進む。室戸岬を経由して徳島県内の札所を巡る。中途半端な逆打ちのような状態だ。
ランダムに札所を打ち巡り、どうやらこうやら阿波国(徳島県)の23番「薬王寺」から1番「霊山寺」の23札所を打ち終えた。
後は残すところ讃岐国(香川県)23箇所の札所と伊予国(愛媛県)第65番「三角寺」の24札所になった。
舞台はいよいよ最終章に突入する。阿波国から讃岐国へ移行する。
吉野川を上流に向かってペダルを漕げば、香川、愛媛方面に出る。
ここから順打ちで第65番「三角寺」、第66番「雲辺寺」と順々に札所を打つ。そして、第88番「大窪寺」まで巡り、結願を果たす予定だ。
弘法大師様に出会うことができるだろうか?
だが、本日も梅雨空。
雨天のためここ3日ほど、吉野川沿いのあずま屋で足止めを食っている。
屋根があるので雨が凌げるが、周囲は自動販売機か、コインランドリーぐらいしかない。
四国にはお遍路さんの文化が根付いているため、コンビニのように国道沿いや遍路道にはコインランドリーが設置してある。
これまで旅の洗濯は、キャンプ場に備え付けてある有料の二槽式洗濯機を主に利用。
洗濯槽と脱水槽の二つに分かれた洗濯機に3日分の汚れ切った汗まみれの下着、靴下、衣服類、タオル、寝袋を投入。多めの洗剤で衣類を洗濯槽で洗い、脱水槽に差し替える。また洗濯槽に移してすすぎ、脱水で仕上げる。
不浄なものが清浄なものへと浄化されていく行程がたまらんのだ。
そして大空の下、テント近くの木の枝と自転車を紐で結び、太陽の光と熱と風の力を活用して洗濯物を乾かす解放感。
ビジネスホテルを利用した場合は、洗濯代を浮かすために、ユニットバスに水を入れて、洗剤と洗濯物を投入。足踏みをして絞る。3回繰り返すと濁水は透明になる。思いっきり雑巾絞りをして乾燥気味の部屋内に干すと、一晩でカラカラに乾き上がる。
二槽式洗濯も人力洗濯もけっこう手間がかかる作業だ。
しかしコインランドリーの洗濯機は、ドラム式で超便利。
ドラム式洗濯機に洗濯物を投入すれば、洗い、脱水、すすぎ、乾燥までやってくれる優れものだ。
洗濯から乾燥までノンストップだ。
この二槽式洗濯機とドラム型洗濯機は、自力旅と旅行の違いのように感じる。
自力旅は線。旅行は点だ。
旅行は目的地に到着してそこで楽しむもの。
自力旅は目的地に到着するまでの過程を楽しむもの。
そこに自力旅の面白みがある。
飛行機、車、電車で行くのは旅行。
体力勝負の徒歩旅、自転車旅は自力旅なのである。
例えば、関西から南の楽園「石垣島」にいくとする。
ドラム式洗濯機は半日コースだ。伊丹空港に車を停めて、飛行機に3時間乗れば到着する。
二槽式洗濯機は、自力旅のようだ。1週間かけて自転車で鹿児島へ。24時間の船旅で那覇港へ。さらに24時間で石垣港へ。約10日間コースだ。
自力旅の目的は到着ではない。道程である。
汚れ切った衣類たちが、グルグル回るドラム式洗濯機の中で浄化されていく。
じっと見ていると目が回ってしまう。
ぼんやり見ていると、現実もグルグル回ってくる。
定期的な間隔で左右に回るドラム式洗濯機。
右回りに「さっさと行け」と背中を押す自分。
左回りに「もうちょっと留まろうよ」とささやく自分。
コインランドリーから野営地に戻る。
気持ちはぐったりしている。
おまけに右足の靴ずれも日増しに腫れ上り痛みも伴ってきた。
憂鬱だ。
やる気がでない。
今、鏡で自分の顔をのぞいたら何とも力のない情けない表情に違いない。
昨夜も国道すぐ横のあずま屋で野宿し、一晩中大型車の騒音と蚊に悩まされ、ほとんど眠ることができなかった。心も身体もぐったりしている。
その原因は、体調不良もあるが、ここ3日間、人との関わりがないからだろうか。自分は意味なし人間のように思えてくるのだった。
ある哲人が言った。
「人間は相当の苦難に耐える力を持っているが、意味の喪失には耐えられない」
天気も不安定、体調も最悪となれば、考え方は自然とネガティブ(消極的)になってしまう。
この旅には意味があるのか。
何のための行動なのか。
そう一人で気持ちも身体も弱っている自分に自問自答を繰り返した。
灰色の雲が右から左に流れ、雨は降ったりやんだりはっきりしない。あいまいな天候が続き、ボクは動かず、じっと様子をうかがっている。天候同様はっきりしない気持ちのまま、時だけが流れる。
半日、1日と何もする気はなく、することもなく、ぐるぐるとコインランドリーの洗濯機のように現実が頭の中を回っている。
2日が経過。天候は回復しない。あずま屋からどす黒い雲の流れと雨降りを見守るだけ。
3日目も雨が降っている。3日間、人とも会わず、何もせず、じっと自己を見つめる時間だけが過ぎ去った。
長い時間をかけて自分に問い続けた。
「発心の道場」で本当に長い時間をかけて導き出された答えは、二つだった。
答えは後ほど。
一つ目のヒント。
あなたはマシュマロ実験はご存知だろうか?
幼年時代の自制心と、将来の社会的成果の関連性を調査した実験だ。
ある調査機関が、4歳の子ども186人に対して実験をした。
机の上には、マシュマロが一個のっている。
実験者は次のことを幼年たちに告げる。
「私はちょっと用がある。
そのマシュマロは君にあげる。
けど、私が戻ってくるまで15分の間食べるのを我慢してたら、
マシュマロをもう一つあげる。
私がいない間にそれを食べたら、二つ目はなしだよ。
お仕置きはしないから大丈夫だよ。」
結果は、最後まで我慢して2個目のマシュマロを手に入れた子どもは、全体の30%ほどだった。
我慢できず食べてしまった幼児は、マシュマロを見つめたり、触ったりする。匂いを嗅いだりする。
我慢できた幼児は、目をそらしたり、後ろを向いたりして、マシュマロから注意をそらそうとした。
追跡調査が実施された。
統計的にマシュマロを食べなかったグループは、周囲からより優秀と評価された。
さらに追跡調査が行われ、この傾向は生涯に渡って継続していることが明らかにされた。
これがマシュマロ実験の概要だ。
人生にはいろいろな障害がある。
大切な人との別れ。
孤独。
体調不良気味。
思い通りにならない事象。
失敗や挫折がどんな人にも訪れる。
その時に、その困難を乗り越えて成長できるのはマシュマロ実験にもあったように「気をそらす」ということが、最もうまくいくようだ。
オレは、気をそらすときには、とにかく、身体を動かした。走る、鍛える、歩く、動く。
すると、その瞬間、嫌なことを忘れることができ、目の前の事に集中できた。
悔やむ前に、気をそらす。
人生には失敗、挫折はつきもの。
それでもオレたちは前に進まねばならない。
それには、避けるのではなく、気をそらすのが最適化する。
仏教や禅の世界に「知覚動考」という教えがある。
この教えは、知ったことを覚え、動きながら考えていこうと説く。
知ること、覚えること、動くこと、考えることは一つなのだ。
しかし、オレたちは知ったことを行動に移すことは、後回しにして、まずは考えて、考えて、考え込んで悩んで時間が過ぎていたということがある。
知ったと同時に覚えながら、同時に動きながら考えていくこと。
行動し体験することによって初めて気付くことがある。
現状を打開するキーワード。
「知る」「覚える」「動く」「考える」
この読み方の中に答えが隠されている。
「ともかく動こう」だ。
「知(とも)覚(かく)動(うご)考(こう)」
雨だろうが、なんだろうが、ともかく動くことだ。
動くと気がそれる。
一つ目の答えは、ともかく動くこと。
そして、二つ目の答えは、とてもシンプルなものだった。
「すべてを受け入れよう」
ということだった。
起きる出来事、他との関わりすべてを肯定して、受け入れよう。
自然や人と対峙したってかなわない。
起きる出来事はすべて自分にとって有難い存在なのだ。
受け入れて、考えて、動くのだ。
孤独の時間を味わい、発心の道場で悟った真理だ。
これは弘法大師様からの贈り物だと思って受け入れよう。
さぁ、いよいよお遍路も最終章だ。
明日は、讃岐国の難所「雲辺寺」に挑む。
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