禁止、あるいは役割の範囲
最近私は『百禁書』なる本を読んでいます。
過去に禁書扱いを受けた世界の書籍をまとめた本です。本自体の感想はそのうちXに載せますが、今回は読みつつ考えていたことについて。
身勝手
あらゆる規制は身勝手なものです。例え法典であろうと、社会の為に個人の思いを度外視しているわけですから。
人は社会の維持を望んでいる、という社会の”常識”のもと、全ての人の行動が制約されるのは何とも言えない気持ちになります。抽象化した場合に限りますが。
禁書指定には権力者本人の倫理観が大きくかかわっていて、特に宗教に依拠するものがその大半を占めています。「社会の保護のため」であるはずの規制を、権力者ないし団体が決められるのか、と思うと悲しくなりますね。
常識
私は過激派である認識はあります。
ただ、芸術作品については原則完全な自由が与えられるべきだと思うわけです。
作品の製作そのものに明確な犯罪行為が含まれているとなるとそれを正しいとは言えない、という意味の原則という譲歩です。
何にせよ、作品は作品として成立して、それから受ける諸々は諸個人の問題だと思うわけですね。なので、最近のバーベンハイマーも、少し昔の表現の不自由展も別に存在の否定はしません。
芸術作品は批評の対象として俎上におかれるべきであり、見えないうちに捨てることはあってはならない、というのが私の答えでしょう。
悲しいことに、この社会の常識とはかけ離れているようですが。
受け入れられないという現状を受け容れて、私は生きねばならないようです。いやだなぁ。
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