楽しいはなし
薔薇を敷き詰めたクイーンサイズのベッドを見下ろしていると、いかにも自分は人生において”勝っている”男だと感じられた。
あとはすずらんがシャワーを浴び終えてこの部屋まで戻って来るのを待つだけだ。
薔薇をセットするのに20分ほど要した。これまでの統計から、彼女のシャワータイムはおよそ25分と相場を導き出すことはできている。
普段であればもうすぐ上がってくるだろうが、今回はなんせゴールドコーストのビーチ沿いのリゾートホテルでの宿泊だ。
日本で俺が寝ているベッドの倍くらいあるバスタブで、もう少し鼻歌でも歌いながら優雅な入浴を楽しむはずだ。
有り余る余裕が恍惚に変わり、舌に甘い感覚を覚えた。
空想の中で、絶え間なく垂れてくる乳と蜂蜜を舌を出して受け止め、じっくり口内で嘗め回して味わった。
薔薇のベッドに腰掛け、悠然とすずらんを待つこの時間こそ、人生において僕の自己肯定感が到達しうる臨界地点のようにさえ感じる。
今僕は、この年代の男が望むであろうもの全てを手にしているはずだ。
人間の美を体現した女、減らない貯金、ふさふさの頭髪、彫が深く整った顔、ふんだんに権力を持った実家。
もはや、これ以上何を望めばいいのか分からない。
神からも親からも寵愛されて生まれ育った僕は、現代の愛の足りない病んだ人々に無償の愛を分けてあげた方がいいかもしれない。
あまりに恵まれすぎているから、人間は平等じゃないんだと示す生き証人ではないかとすら思える。
これじゃまるで、失敗しないグレート・ギャツビーみたいな話だ。
出来過ぎていて、恵まれない多くの人々に申し訳ない。
あなたがたにもいつかこの恵みを分け与えたい。
婉容なすずらんを初めて抱きしめた夜、きっと俺はナナカトルと契約を交わしたのだろうと思う。
長いまつげがぱっと開いて宝玉のような瞳が俺を向いた。
まるで海の底でこの世界の秘密を抱いて眠るパールが、永遠の沈黙を破るその時のような、その格調高雅な刹那よ。
重なり合う俺とすずらんを聖槍で貫けば、その者にも俺たちが見ている世界の美美しさを分けてやれるだろう。
そのような勇気のある愚か者がいればの話であるが。
あぁ、ドアを開けた瞬間のすずらんの顔が手に取るように想像できる。
真ん丸に口を開けて驚いては、次の瞬間には涙目になり俺に抱きついてくるに違いない。
彼女の濡れた髪をそっと撫でて、湯上りの火照った身体を抱きしめて愛を囁いてやろう。
今夜2人の燃え上がる情愛は深紅の柱となって僕らを囲み、その内部で燃える炎はゴールドコーストの海をあっという間に蒸発させてしまうだろう。
やがて融けた海の水は巨大な雨雲をかたち作り、巡る季節の中で俺とすずらんの街に雨を降らすんだ。
さぁ、すずらん、もう準備はできている。
あとは君がタオルで髪をこすりながらこの部屋のドアを開けるだけだ。
そうしてくれるだけど、この完璧な空間の最後のピースが揃うんだ。
しかし、待てどもすずらんが来ない。
すずらんが来ない。
すずらんが来ない。
すずらんが来ない。
すずらんが来ない。
すずらんが来ない。
すずらんが来ない。
シャワーってそんなに時間がかかるのか。
そこまで念入りに身体って洗う必要があるのか。
石鹸が切れているのか。
日本にいる友達のInstagramにくぎ付けなのか。
興奮が抑えられなくて1人でヨガリでもしているのか。
はしゃいで泳ぎの練習でもしているのか。
2日後のチェックアウトの時刻まで、一睡もせず飲まず食わずで待ち続けたが、すずらんはこの部屋にやってこなかった。
このままこの部屋で待ち続けようかと思ったが、明後日にはバイトがあるし、そうすると明日の夜には日本の家に帰っておく必要があることを考えれば、ベッドから腰を上げるほかなかった。
ベッドから薔薇の花弁を片の手のひらに収まる分掴み、頭の上から振りかけた。
頭と肩の上に薔薇を散らしたまま、俺は一人で飛行機に乗り込み日本へ帰った。
悲しくはなかった。ただこれからもかつて来た日々を繰り返すだけだ。