「if」の人生
最近ぼんやりと「if」の人生について思いを馳せることが増えてきた。
ありえたかもしれない他の人生、存在しえたかもしれない今とは違う僕。
こんなことを考えるとは、いよいよ僕もおじさんになりつつあるということかもしれない。
目の前の好きなことだけをやっていたハタチの頃にはもう戻れない(あの頃は間違いなく「今」を生きていた)。
受け止めなくてはならない事実だ。
26歳にもなると、まだ大人として未熟なのは前提として、社会における自分の活躍の見込みみたいなものはさすがに感覚的に分かってくる。
どうやら僕にはビジネスのセンスはないらしいし、今からエリート街道を歩むのはほとんど不可能らしく思える(経歴的にも、僕の性質的にも)。
大学生の時、僕はろくに就活をしなかった(2社受けて落ちてへこんだので就活は止めた。元からほとんどやる気はなかった)。
今になって空想することだが、あの頃に本気で就活をしていたらどうなっていたのだろう。
自分で言うのも何だが、僕は学歴は悪くないし、当時はTOEICで900点以上のスコアを持っていたし、根気強く就活を続けていればそこそこの大企業にも就職できていたのかもしれない。
まぁ大企業に入ったところでさっさと辞めてしまっていたような気もするが、とにかく順当にレールに乗った人生を歩んでいたら今頃自分はどうなっていたのだろう、と最近考える。
結果的に、26歳にして貧乏でこれといったスキルもなく(少なくともプロフェッショナルなものは何もない)、茶色のウルフヘアで右手首にタトゥーを入れようと真剣に考えている今の僕に至るわけだが、ここに至るまでの道のりを全て自分で選択したという実感はない。
カナヅチが遭難して海を漂っていたら、たまたまほとんど島とも呼べないくらい小さな島に流れ着いた、というような感じである。
そう考えると生きているだけで十分だとも思えてくる。
しかし正直なところ、良い大学を出て良い企業に就職して良い感じに活躍している人間を羨ましく思う気持ちを僕は捨てきれない。
あの時違う選択をしていれば僕もそういう人生を歩めていたかもしれない、そんなことを考えても一分の意味もないが、考えないではいられないし、その思いは切実ですらある。
とはいえ別に今の人生が嫌で嫌で仕方ないとかそういうことではない。
最近は不愉快な思いをすることもいくつかあったが(現在進行系でしているが)、おかげで僕は人間という存在の限界を知り、いくつかの経験を過ぎた一つの帰着点として、教会に通っては聖書を読むようになった。
順風満帆に社会人生活を送っていたら、僕は聖書や教会のことなど気にもかけていなかったかもしれない。
そして映像制作という熱中できる趣味にも出会った。
僕に映像を作る卓越したセンスがあるとは思えず、機材への投資は馬鹿にならないし、このまま続けたところで儲からなさそうな趣味だが、ただひたすらに映像を作るということが今は面白くて仕方がない。
そこでは儲かる/儲からないは本質的な問題ではない。
結果オーライ、なのかはよく分からない。
もっと素敵な「if」の人生は僕にもありえただろうし、そんな人生を平日に仕事をこなしながら夢想している自分がいるのは確かなことだ。
ただそんなありえたかもしれない人生への憧憬も抱きながら、しかしちゃんと片目を開けて現実も見て、時にバランスを崩して倒れながらも自分を諦めない、それが今の僕にとっての「生きる」ということの手触りである。
実に、僕は凡人だと思う。
本当に、僕には特別な何かなどない。字面を見ると少し悲しいが、本当のことなのだ。
たとえば10代の頃は、漠然と自分は何者かになれるのではないかという期待を抱く余地があった。
しかし結局のところ僕はツァラトゥストラにはなれず、エリートにもアーティストにもなれなかった。
ただ凡人にだって個性があるし、それなりに良い味も出せるのだと思う。
そんな楽天的な思いを持てているから、理想の自分になれないとしても僕は生きることを諦めずに今のところはいられるのだろう。
なるべく楽天的に、それが「ただ生きる」ということのコツであるように思う。
ポイントはそれがあくまで「ただ生きる」ということのコツであって、「幸せに生きる」とか「自己実現を果たして生きる」とかそういうことのコツではないということである。
人間は「ただ生きる」だけで十分よくやっている、僕はそう思っている。