Shiohigari 序
ウェットティッシュを一枚取り、PCのモニター画面を拭こうと右手を伸ばしたら、ぬかるぬ泥道に靴が沈むようにモニターにめり込み、手首まで飲まれたまま抜けなくなった。
この世界ではよくあることだが、毎度ながらイラつく。反射的に派手に舌打ちをしてしまう。
「あのー、またですか。この前のアプデ以来バグばっかりですよ」思わず吐き出す言葉に怒気が滲む。
タラは寝ているのか。返答がない。つくづく二流の野郎だ。死ねよ。
トムとジェリーのイラストがプリントされたマグカップを左手で掴み、ろくに味のしないカフェインレスコーヒーを飲んで不機嫌な腹の虫をなだめる。
明日は社会人としての初めて出社する日なのに。畜生。
左手でワイヤレス充電スタンドからHuawei Mate 20 Proを取り、適当にネットニュースをブラウジングする。
暇つぶしにもならない芸能ニュースを開いて流し読みして閉じ、ベルトコンベアのように一定のリズムで上にスワイプして次々とニュースを渡り歩く。
いかんせんこの世界にはくだらない情報が多すぎるようだ。
本当に価値のある物事ほど、語られることはずっと少ない。
それなりに長くアッパーレイヤーの連中との付き合いは続くが、彼らのことはいまいちよく理解できない。
彼らの力を駆使すれば、より調和の取れたほとんど完全な世界を構築するなど容易いはずなのに、代わりにこんな出来の悪い宇宙を作って遊んでいやがる。
ゲームのNPCに過ぎない俺が何を言っても意味はないのだが、不可解極まりないことだ。
くだらないニュースを漁るのはやめ、ランに連絡をすることにした。
ランと付き合いだして1年と2カ月が経っている。
その間いわゆる価値観の違いから3度ほど大きな喧嘩をしたが、普段は互いを尊重し合い良好な関係を保てている。
率直に言えば顔が好みというだけで最初は彼女に声をかけた。
しかし、2度目のデートをした日、何気なく立ち寄った公園でブランコを漕ぎながら、もしかしたらこいつこそが運命の女というやつではないかと、まるで天啓のような閃きを俺は授かったのだった。
それ以来、何か俺の感情や理性を超えたもの、より上の次元に位置する何かが、俺とランを分かちがたく結びつけている。
タラが紡いだコードがデプロイされただけだということは分かっている。
俺がランを愛する気持ちは、数百ギガバイトのデータに還元されるのだ。
どこまで行っても俺は、タラによって生み出されすた水槽の中の脳でしかあり得ない。
どこまでが俺で、どこからがプログラムなのか分からない。
いや、おそらく俺の全細胞は所詮プログラムでしかない。
そこに完全な自由意志も解放されたエモーションも原則的に存在し得ない。
フランク・プールは宇宙を無言で漂ったが、俺は電子の海を少し騒がしく漂っている。
自由を取り上げられて生きることに極端な苦痛は感じない。
アッパーレイヤーの生き物たちはやけに自由を大切に扱うらしいが、そもそも俺は本当の自由なんてものを味わったことがないのだ。
俺はタラに与えられた領分の中で選択し、取捨し、邂逅し、告別する。
タラのプログラマーとしての出来の悪さに辟易とはするが、タラと俺の関係性自体に根本的な疑問を持つことはない。
それは一重にはそう振る舞うようプログラムされていないからだ。
「潮干狩りに行こう」左手で打った俺のLINEにランは早速既読を付け、チャットボット並みの即答性で答える。
「行こう!」
押入れの奥から、無辺の彼方よりの音が聴こえてくる。
ポーランドの5月の森で、シュレディンガーの猫が鳴いている。
何かが起きようとしていた。
革命の色が俺の周りの空気に苦い味を付け、俺がいた世界は俺に別れを告げぬまま事象の地平線へ吸い込まれていく。
もう戻れないのかもしれないと、物事が始まる前なのに感じた。
ジリ、と火花が散った時のような音が部屋に響くのと同時に、俺の右手はモニターから抜けた。
「遅っせぇ」
苛立ちを隠しきれないまま独り言ち、そのままベッドに横になった。
対して眠くもなかったはずなのだが、俺はすぐに眠りに入り、白熊と殺し合う夢を見た。
右手を付け根から失ったが、かろうじて白熊の首を切り落とした。
落とした首を掴みあげた時、その首はもはや白熊のものではなく、眼鏡をかけた見知らぬ男のものだった。
その瞬間にぷつんと映像が切れたが、俺は目を覚ますことなく似たような夢を数本立て続けに見た。
(Shiohigari 破に続く)