われ思うゆえにたしゃあり その出発点とゴールが われ思うゆえにわれあり
己は果たして己の意思で動いているのか?
自分は時々何ものかに動かされているのではないかと思うことがある
とても集中して何かを語ったり行ったりしている時に
自分がいつも思っているのとは全く違う自分が現れてくることがある
時にはそれがその後の人生において大きな指針になるようなこともある
こういったことが積み重なってくると
自分の意思ではなく時に人は何ものかに動かされていることがあるのではないのかと思うようになってくる
己の意思なるものの存在も誰もどういったものかわかっていないわけだから
それがどこからきてどのように働いているかも誰もわかっていない
となると時にそれが大いなる何かであっても全く不思議ではない
人それぞれ違うではないかというのは
その個体がその時受信できるものがそれであるといったような捉え方はできないだろうか
現状の自分に一番あったようなものを受信する
自分の意思だと思ってはいるがテレビやドラマや映画や漫画のワンシーンを切り貼りしたような行動を重ねる人々をよく見かけると思う
これなどは実はまさにそのわかり易い典型例ではないのだろうか?
この場合は大いなる何かなどでは全くないのだが・・・
しかもその信号と言うのも風や波のように一定ではなくて常時変化していると思う
凪いでいたり荒れ狂っていたりひょっとすると様々なものが混然と混じり合っていたり
その中で自分に一番合ったものが己の中に現れてくる
これも混然一体としたものが
どうだろう?
この考えに立って行動して注意深く観察・検証してみると実はこれがあっているんじゃないかと思うようなことも多々ある
ここでは述べないがやってみて己で検証なされることを是非お勧めしたい
そうなると不思議と生き方が少し楽になってくる
自分の意思なるものはそもそも幻想だからだ
自分が受信できる信号レベルをどうにかしてあげて
それを自ら体現しそれにリプライできるように勤める
これに尽きるからだ
絶対他力なる言葉があるが
その意味するところは知らないが自分ではその言葉にこれが当てはまるのではないかと思う
この考え方だと
自分の意思に沿って行動することは我がままではなく
それがおおいなるなにかの意思であるとなってくる
むしろ自らをそこまで高めなければならない
テレビなんかの切り貼り人間だととてもじゃないがこの言葉には当てはまらない
おおいなるなにかの意思を聴くことができてコンスタントにそれに応えることができるようになれば
万事が上手く循環していくような気がするが
どうなんだろう?