【短編小説】明けぬ夜に
二人で散歩しよう。
夜に囚われた末っ子とその手をつなぐ兄。そして二人に邂逅した少年の話。
「まったく時間ギリギリまで働かせるなよクソ店長」
悪態をつきながら少年は自転車を爆走させていた。しかし渡る直前で信号が赤になる。少年は思わず舌打ちした。このままでは見たい番組を見ることができない。今日に限って録画を忘れていたのだ。
足先が何度もペダルを叩く。ほとんど車通りのない道路であればよかったのに、地味に車が通るから信号を無視して渡ることもできない。この信号はここまで長かっただろうか。にらみつけても忌々しい赤は変わらない。そのときだった。
「兄さん……?」
「は?」
か細い声が聞こえた。振り返る中学生くらいだろうか、幼さの残る少年が立っていた。ほっそりした身体に色白の肌は、油断すればこの闇に溶けてしまいそうである。だが見覚えのない顔だ。そもそも自分に兄弟はいない。他に誰かいるのかと思ったが、周りには自分と少年以外人影はなかった。
車が一台通り過ぎる。ガス臭い風が髪を揺らした。
「やっぱり兄さんだ。こんなところにいたんだね」
いつの間にか後ろにいたはずの少年が袖を掴んでいた。その目はたしかにこちらを捉えているが、それでいて自分を映しているわけではない。合っているのに合っていない瞳は背筋を寒くさせた。
「ちょ、悪いけど俺はお前の兄ちゃんじゃねえよ」
「なんでそんな酷いこと言うの? 探し出すのが遅かったから? ごめんね。いっぱい探したんだけど、学校にもスーパーにも兄さんが好きだった川の土手にもいないんだもの。ああ、これも言い訳だね。ごめんね、僕の努力が足りなかったせいだよね。ごめん。だから家に帰ってきてよ」
「だから違うって。人違いなんだって」
少しでも力を入れれば折れてしまいそうな細い腕は、しかし振り払うこともできないほど恐ろしい力だった。信号はいつの間にか青に変わっている。だがその場から動くこともできない。ペダルを思い切り踏みこめば、拘束は解けるかもしれないが、その拍子に転びでもしてしまえば、どこか骨折してしまいそうな細さなのだ。かといって大人しく離してくれそうにもない。一体どうすればいいのか。膠着状態を救ったのは別の男の声だった。
「その子を離してあげな。たしかにあの子に似ているけど別人だろう」
「光兄さん」
今度は誰だ。声の先にいたのは大学生くらいの青年だった。目元が目の前の彼に似ている。呼び方からしてこの子の兄だろうか。
「ごめんね。いきなりびっくりしただろう? 弟が迷惑をかけたね。僕は光。君は?」
「あ、拓海って言います」
柔らかく微笑まれて、思わず自身の名前を述べてしまった。よりにもよって得体の知れない男に。
身構える拓海に光と名乗った男は柔和な笑みを深くしただけであった。
「そう。いい名前だね」
「あ、ありがとうございます」
そこに悪意は一切感じない。拓海は一度でもこの好青年を疑ったことを恥じた。
「俺、その子とは知り合いではないと思うんですけど……」
「そうだね。知り合いではないんだけど、ちょっと家の次男坊に似ていてね。勘違いしちゃったんだ。ごめんね。迷惑をかけただろう。もし君がよければだけど、お詫びをしたいから後日会えたりするかい?」
「え、えーっと……」
正直なところ断りたい。助けてくれたのはありがたいが、これ以上関わりたくはなかった。
「君が不審に思うのは仕方ないと思う。でもただお詫びをしたいだけなんだ。駄目かな」
しおしおと眉を下げられ、出るはずだった断り文句は喉の奥に逆戻りしてしまった。心底申し訳なさそうにされると罪悪感が募る。陥落は早かった。
「じゃ、じゃあお礼くらいだったら……」
「そう。じゃあ明日は空いてる?」
この人大人しそうな顔してグイグイ攻め込んでくるな。流石この子の兄である。が、約束してしまった手前断ることもできない。
「学校が終われば、まあ?」
「じゃあ四時に……そうだね。ここの近くに公園あるのを知ってる?」
「アパートの前にある小さい公園ですか?」
「そう。そこに集合でいいかい?」
どうせ顔を突っ込んでしまったのだ。さっさと終わらせたほうがいい。諦め混じりに頷くと光の顔が明るくなる。
「ありがとう。本当に時間をとらせて悪かったね。悠、お前も袖を離しな」
今の今まで気がつかなかったが、まだ少年は自分の服の端を掴んでいた。ほらと再び促されてようやく白く細い指が一本ずつ拓海のシャツから離れていく。冷たい風が布越しに肌を撫でていった。
「本当に兄さんじゃないの……?」
こちらを見上げる瞳は迷子の子どものように心細げに揺れている。その表情をみて、ふいにこのときだけ嘘をついてやろうかという思いが首をもたげる。慰めに見せかけた、自己満足に近い優しくも残酷な嘘を。
「えっと」
「違うよ。あの子じゃない。本当は知っているだろう」
しかし拓海が口を開くより先に光がそれを遮った。全てを断ち切るかのように強い口調で。途端に彼の顔が泣き出しそうにゆがむ。それでも彼は重たい足取りながらも兄の元に向かった。自分の浅ましさを暴かれたようでばつの悪くなった拓海は誤魔化すように声をかけた。
「ごめんな。俺がお前の兄ちゃんじゃなくて」
「ううん。ごめんなさい。勘違いで引き留めちゃって」
「じゃあまた明日。長い時間拘束しちゃって悪かったね」
「いや、まあ大丈夫ですよ」
後味の悪さを引きずりながら拓海は帰宅した。当然番組は見逃した。
約束通り四時きっかりに行けば、既に光は待っていた。遊具から少し離れた一本の銀杏の木に寄りかかっている。気づいた光がにこやかに手を上げた。
「こんにちは。わざわざ時間をとってくれてありがとう」
「まあ約束しましたからね」
半笑いを浮かべる拓海に光は人当たりのいい笑みを返しただけで、すぐさま背を向ける。拓海は無言でその後に従った。
「どこに行くんですか?」
てっきりお礼なんてファミレスかどこかで奢るか何かだと決めつけていたが、光が進んでいった先は閑静な住宅街で、ファミレスやファストフード店とは縁遠い。
「ああ僕の家だけど。あ、着いたよ」
「は!?」
衝撃的な発言に腰をぬかした。
おかしいだろう。迷惑をかけたからといってお礼の場所がなぜ自宅なんだ。これは相当ヤバいものに引っかかってしまったのだろうか。いや見ず知らずの自分を捕まえておいて兄さん呼びをかましてきた少年の兄だ。あの弟にしてこの兄といったところか。
「どうしたの? さあ上がって」
光は扉を開けてこちらを不思議そうに見つめている。二人の間には五歩ほどの距離があった。ここで踵を返して全力で逃げれば逃げ切れるのではないだろうか。足に力をこめたそのときだった。
「光兄さんおかえりなさい。あれ、昨日の人?」
奥から少年が出てきた。日の元ではその白さが浮かび上がり、いっそう儚げな雰囲気が濃くなる。こちらを認めた瞬間、薄い唇が弧を描いた。
「昨日はごめんなさい。今日はお客さんなんだね。きれいな家じゃないけど、どうぞあがっていって」
彼はお茶持ってくるねと奥へと消えていく。
「遠慮せずにどうぞ」
あの顔をゆがませるのは気が引ける。拓海は渋々玄関に足を踏み入れた。
部屋は物が少なくこざっぱりとしている。リビングには椅子が四つ置いてあり、机を挟んで向かい合っている。同じデザインで色違いのランチョンマットが三つかかり、後一つには無地のランチョンマット。机上には既に四つグラスが置かれていた。落雁や饅頭も皿に盛られている。
拓海に一番近い席の隣に少年が座っていた。拓海はその隣に腰かけようと手を伸ばす。
「あ、悪いんだけど、そっちじゃなくてあっちの席でいい?」
光がやんわりと手を引いて、少年の向かいの席に誘導した。一つだけ無地の布が敷かれた席に。そして光自身はその隣に座る。もう一人来るのかと身構えたが、一向に来る気配がない。そうこうしているうちに光が口を開いた。
「騙し討ちのような形になっちゃって本当にごめん。でもどうしても君にあの子と会ってほしくて」
「それって俺と間違えた人のことです?」
「うん。僕ら三人兄弟でね、その次男坊。どうして悠、ああ君の向かいの子なんだけど、君に絡んできた訳を話したくて」
カランと氷が鳴る。微かに線香の香りが鼻腔をくすぐった。
「だってそっくりなんだもん。よく世界にそっくりな人は三人いるっていうけど本当だったんだねえ。ねえ兄さん」
ポンポンと空席を叩きながらまるでそこに人がいるかのように、悠は虚空に笑いかけている。目の前の光景に愕然としていると光が苦笑を漏らした。
「ごめんね。びっくりしたでしょ?」
「え、あ、いや……」
「まあこれには理由があるんだ。先に会ったほうが早いかな」
光が席を立ったので拓海も後に続いた。悠は未だ虚空に向かって話しかけており、今度は一瞥すらよこさなかった。
光は迷いなく奥の襖を開く。そこは和室で、部屋の一角を大きな仏壇が占めていた。
「これが家の次男坊」
仏壇に添えられた写真はたしかに自分と似ていた。特に眉毛の形と笑顔の雰囲気が。ここまで似ていれば、他人の空似だとしても声をかけてしまうのは仕方がない。
「ところで拓海くんは今何年生?」
「高校二年生です」
光は大きく目を見開き、ふいに遠くに視線をやった。
「そう……。この子もね、死んだとき君と同い年だったんだ。不思議な縁もあったもんだね」
「あの、なんで彼は……」
「交通事故だったんだ。バイトに行くって言ってね、そのまんま。信号無視した車が猛スピードでぶつかって即死だった。あんまりにも損傷が激しかったものだから顔も見せずに葬儀を行ったんだ。だからかな。永はまだあの子の死を受け入れていないみたい。昼はあの子が生きているように振る舞うし、夜は探しに行くんだよ」
「そう、ですか」
語る光の面立ちは静かだったが、膝に置いた拳は震えていた。改めて写真を眺める。笑った顔は年相応で、無邪気だった。
なあ、なんで死んじまったんだよお前。こんなに、こんなに思ってくれている家族がいるのにさ。なんで置いてちまったんだよ。
突然自分でも驚くほど熱い衝動が腹の底から湧き上がる。だがそれを舌にのせるより先に光が話しかけてきた。
「拓海くん」
「なんですか」
「ありがとう」
その微笑みが渦巻く炎を鎮火した。くすぶる黒い煙を胸に抱きながら拓海は尋ねた。
「あの、こんなこと言うのお節介かもしれませんが親御さんは……」
「家は父子家庭でね。でも永があんな感じだろう? 最初のほうはがんばっていたんだけど、最近は夜遅くに帰って朝早くに出る生活を続けているんだ」
光は情けない話で悪いけどと眉を下げる。
「いえそんな、差し出がましいことをすみません。でもじゃあ光さんは」
「大学生は結構時間に余裕があるからね。弟の散歩くらい付き合えるよ」
「でも……」
拓海はそこで口をつぐんだ。あの様子では治るかどうか定かではない。それに光だってまだまだ遊びたい盛りだろう。
光は笑みを深くする。その瞳は全てを見透かしているようだった。
「いいんだ。僕がやりたいことだから」
眩い陽光が僅かに開いた障子戸の隙間から差しこんでいる。埃が反射して、星屑のように散っていた。
「それに独りは寂しいじゃないか。たとえ明けない夜だとしても、二人なら寒くはないだろう?」
拓海はそれ以上何も言うことができなかった。
その後菓子を振る舞われ、詫びにと高級そうな果物の詰め合わせを持たされて拓海は光の家を後にした。出された菓子も、貰った果物も今まで食べた中で一番上等な味だったのにちっとも美味しさを感じなかった。
それからあの兄弟に出会ったことはない。それでも北風を切って自転車を走らせる夜に彼らのことを思い出すのだ。夜に囚われた彼とそれに寄り添う兄の姿を。
「夜を明けさせる方法ってあるんすかね」
「何? 拓海ちゃん、急に詩人みたいなこと言っちゃって」
「いや独り言っすよ」
バイト先の先輩がレンズを光らせた。知らず知らずのうちに口に出していたらしい。ニヤニヤ笑う先輩が肩を組んでくる。その手を振り払ってレジの整理をしていると、ポツリと先輩が呟いた。
「でもさあ私たち超能力者じゃないんだから、時間早送りして太陽を昇らせることなんてできないわけよ。だからさ、待つしかないんじゃない? ほらよく言うでしょ。明けない夜はないってさ」
「なんすか先輩。気持ち悪い」
「えー拓海ちゃんがおセンチなこと言うからでしょー」
「ちょっと確認したいことできたんで裏行きます」
体をくねらせる先輩から逃げるように拓海はバックヤードに飛び込んだ。指先は暖房のおかげで暖かい。
いつかあの子の冷たい指先にも朝日が届く日がきますように。拓海はそんな柄にもないことを祈っている。