心遣いがなくて残念な人々
最近「この人、何しに来たのかな?」って人に出会ってしまう機会が多くなってきた。
巡り会う確率が高い場所のひとつに講演会場がある。
拙講演は大部分が小規模なものであるし、従って、席の指定などもない。
動員をかけている類のものではないので、無理矢理、聴かせるという趣旨のものでもない。
要は多分に「自分の意思で参加」されているものだと解釈している。
こういう大前提があるのだが、その種の方は大抵、一番前の席に陣取られる。
そして「決して、笑ったりはしない!」と誓いを立てているのではないかと思うほど、終始、批判的な目で演者を見つめておられることが特徴だ(偏見を承知で書くならば、私の場合、その全てが男性だ)。
ライブ感がある会場は音楽だろうが、寄席だろうが同じことだが、お客様と演者との真剣勝負でもあるが、少なくとも、お客様はその時間を楽しもうとされていらしてくださると思っているし、演者はその思いに応えて、最高のパフォーマンスをしようと努力するであろう。
つまり、お客様もその空間では、ある意味「パフォーマー」の一員なのだ。
例えば、音楽ライブを想像して頂けると分かりやすいかもしれない。
お客様の拍手なり、歓声なりの「みんなで楽しもう!」という一体感がミュージシャンのアドレナリンを誘発して、ベストパフォーマンスを生み出すという相乗効果が出るところがライブの良い面だと思う。
キャストとスタッフと客の“三位一体”が最高の空間を共に作り上げているという高揚感がたまらない魅力となるのだ。
そんな中で、スイングもせず、手拍子もせず、頑なに身じろぎもしないという「鉄の意志」を持たれてしまうと、悪目立ちするので、100%の会場の完成度が若干でもマイナスになってしまう。
常にベストを目指しているキャストにとっては、ほんのコンマ何%かでも、辛い状態に置かれるだろう。
芸人さんのライブでも、決して笑わない客がいると聞いたことがあるが、無理して笑う必要もないのだが、私には「笑ったら、負け!」と思って、わざわざ来場しているのでは?疑惑があるのだ。
拙講演も“ライブ”なので、最大限、楽しんで頂こうとしているのだが、まるで「自分は最初から、一切、楽しむ気はないです!」という態度を取られる方がおられると正直、やりづらい。
その方の全身から「批判してやろう」感が漂っているからだ。
ネットでも、そうであるが、最初から「批判ありき」で匿名で攻撃的な眼差しで見つめる人のなんと多いことかと思うが、実際の会場でも至近距離でそれをやる人がおられる現実には、少し萎えてしまう。
まあ、オマエのパフォーマンスの精度を上げろや!と指摘されたら、それまでだ。そこは「すみません<(_ _)>」と謝るしかない。
先日、若者たちに座談会形式でインタビューさせていただく機会があった。
もちろん、その若者たちに無理強いしているわけではなく、その子の意思で参加してもらっている機会だ。
6人いらして、私の質問に、ひとりずつ答えていただくというものだったが、その中にひとり、信じられない程、感じ悪い女の子がいたんだな。
他の人が一生懸命答えている時には「つまらない!」っていう気持ちを体全体で表現しているように見える。
途中、寝ているの?という場面もあったりするから、起こすために、質問の順番を変えて、その子に振ったりするのだが、そういう子はやはり深い思いは語れないので、インタビュアからすると、正直、この子には振りたくないな(時間が無駄だから)と感じてしまうのだ。
多分、その子たちが私と再び会うことはもうないだろうから、一期一会になる出来事。
だからこそ、この瞬間をお互いに目一杯楽しもうとしないと無駄になっちゃうどころか、空気が嫌~なものになるよなって思うんだが、このように非協力的な人はどこにでもいるんだなと思い、とても残念に感じてしまった。
最近、ある場所で子どもを持つ40代の男性にインタビューしていたのだが、その方が我が子に付けて欲しいと願っている力とは「素直、感謝、礼儀」の3点なのだそうだ。
「これさえあれば、社会に求められて、幸せに過ごしていけるから」とおっしゃった。
全くの御意だなぁっと感心しながら聴かせて頂いた。
大人になってしまうと、なかなか、その思考なり、行動なりを改めることは難しいと思うのであるが、
未成年のお子さんを育てているご家庭では、学力とか偏差値とか、英語力とか、そういうことよりも「世の中の大抵の人たちから求められる人」という教育方針で日々を過ごした方が結果、子どもの人生が輝くような気がしている。