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乃木藩、奔る~静かな忠義~


この物語はフィクションです

山の向こうに日が落ちていく。
振り返れば薄紫の空に月が出ていた。
贅沢な空だ、秋元真夏はそう思った。
少し肌寒いが空気は澄んでいて心地よい。
酔いを醒ますには絶好といえた。
「今日は楽しかったわ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
隣を歩く鈴木絢音がそう答える。
藩内で評判の食事処に二人で夕餉をとりに行った帰りである。
彼女も酒を嗜んだせいか、いくらか頬が上気しているようだった。
月の光に浮かぶ彼女の横顔に思わず見とれていた。
二木藩から堀未央奈にくっついてやってきた時は童女そのものだったのに、真夏に仕えるうちに、いつの間にか大人の女性になっていた。
「絢音も大人になったわね」
「いつの話ですか」
「ふふふ」
未央奈が藩主に任じられ二木に帰ってからも、絢音は乃木を離れなかった。
真夏が家老の間は私が支える、そう言って残ってくれたのだ。
「絢音はどうするの、二木の藩に帰るつもり?」
「それが、しばらく旅をしようと思います」
食事をしながら聞いた絢音の意志を思い返す。結局、あの子に似るのね、真夏は友の姿を思い返していた。彼女から預かった絢音を無事に育てることができた、そういう気持ちもどこかにはある。
日が落ち、闇が訪れる。本当はもう少し早く帰るつもりだったのだが、絢音との昔話が楽しくなって、つい長居になってしまった。
絢音が真夏の一歩前に出た。表情から先ほどの穏やかさは消えている。鯉口を切る。思わずえっ、と声を出した真夏に絢音は声をかけてきた。
「真夏様、私の傍を離れないでください」
暗闇から白刃が襲い掛かってくる。絢音は刀を一振り、それをいなして後ろへ下がる。真夏は一気に酔いから覚めた。
「乃木藩、前の筆頭家老、秋元真夏様と知っての狼藉か」
絢音の言葉に白刃の主は答えない。それどころか足音は増えているようだった。ふと真夏の身体が雑木林の方に押された。倒れ込む。
「御免」
絢音は後ろの敵を振り向きざま一刀で斬り伏せると、真夏に近寄ろうとする浪人風の剣客を素早い動きで一人二人と制していく。何人かいた剣客はほとんどが傷を負い、絢音の剣技に無理を悟ったのか逃げて行った。
「絢音、大丈夫?」
「まだです」
先ほどの剣客とは異なる武威を全身に滾らせた男が一人立っていた。
口の辺りは布で隠し、笠をかぶって顔は見えないが、明らかにいままでの刺客とはモノが違う、剣技に疎い真夏でも分かるほどだった。
「おまんは女子にしちゃ強いねや」
領内では聞いたことのない強い訛りに面食らう。
真夏は今にも逃げ出したくなるような己を必死で堪えていた。
正眼の構えのまま絢音が息を吐く。彼女も男の剣気に圧倒されつつあった。
男が刀に手をかける。その刹那、男は一気に絢音に近づいて、刀を抜いた。いや、抜いたのだろう。真夏には男が刀を抜いてから納めるまでを目視できなかった。男が間合いを取る。絢音もいくらか後ずさり体勢を整える。
見れば絢音の羽織がところどころ千切れていた。男が斬ったのは間違いない。真夏は男の剣技に戦慄した。
「わしの技を受けて、立っていられるがや、大したもんや」
男には余裕があった。腰が抜けたままの真夏にはどうすることもできない。
「真夏様、どうかお下がりを」
「でも、そういう訳には」
「行くぜよ」
真夏が言葉を紡ぐ前に男は地面を蹴っていた。絢音も決意を固めたように男へ突進する。馳せ合う。刀が一度交錯する音がした。二人の位置が逆になっていた。男の袂が切れだらりと垂れ下がる。男が感嘆の声をあげた。
絢音は、そう思って覗き込むと、ゆっくりと彼女の身体が地面へと落ちていった。絢音。叫ぶ。叫んだが、声にはなっていなかった。這いつくばって絢音の方へとにじり寄っていく。
突然、目の前に刀が突きつけられた。のどの奥でひっと空気の漏れる音がした。男は頭を振って呆れるようにして言った。
「主がこがな臆病では、この臣も仕えるもんを間違えたがじゃろう」
「私の悪口はまだしも、絢音の悪口は許しません」
「ほうか、なら覚悟しぃや」
もう刀を納めるまでもなく、男は上段に構えた。
きっとこの責は自分にある。
真夏は絢音を巻き込んでしまったことを心の中で詫びた。
刀が振り下ろされる音。折れた矢が転がっている。
「何もんや?」
男の声。真夏は思わず自分の首をさすった。無事に首が付いている。
「辻斬りなど、許しません」
道の向こうから初々しい声が聞こえた。
これ以上、また誰か巻き込むのか。
真夏の身体は冬のものとは別の寒気で包まれていた。

「今日の黒見様、一段と気合が入ってたね」
「もうへとへとだよ」
井上和は肩にかけた弓を背負い直した。
藩校・赤佐館の館長、黒見明香は面倒見がよく生徒からの信頼も篤かったが生真面目な指導は厳しくもあった。今日は武術の指導ということもあって特別熱が入っていたということもあり、和たちも疲労の色を見せていた。
和は二人の学友との帰路にあり赤佐館で借りた提灯が道を照らしている。
足取り軽く歩いているのは川﨑桜といって、藩内有数の名士の娘であり、文武両道で人当たりもよく、藩校の内でも出世頭ではないかと噂されていた。
比べて今にも刀を引きずりそうになっているのは菅原咲月で、波音神社の手伝いをするなど家族を助けながら藩校に通っており、その面倒見の良さで校内の人望を集めていた。
「明日は四書の素読だよ」
「寝ちゃわないように気を付けないとなぁ」
二人のやり取りに和は微笑む。井上の家を背負って藩校に行くとなったときは緊張もしたが、学友に恵まれて気負いなく通うことができている。持つべきものは友、出てくる月を眺めながら和は改めてそう思った。
ふと反対側から光を感じた。月の光が何かに反射したようだった。
続いて、静かな道に風を切る音が響く。
何かが倒れる音、人の声も聞こえた。
「ねえ、何か起きてるよね」
「行ってみよう」
三人で走って近づく。月に照らされた人影が二つ、対峙するように立っていた。交錯する。少し間があってそのうちの一つが倒れた。
「辻斬り?」
「まさか」
疑問を呈しても近づけば刀を構えた男が立っているのが見えた。三人とも実戦経験などはない。今そこに凶刃があることに二の足を踏んでいる。
和は一度弓の包みを握りしめた。意を決し、弓を取り出す。
「和、本当にやるの?」
「辻斬りは禁制に背くこと。私でもそれをやめさせることができるなら」
的しか狙ったことはない。だが藩内での乱行を見過ごすわけにはいかなかった。すると、普段はおおらかな桜が切迫した調子で言う。
「分かった。和の矢と同時に私たちも斬り込むことにする」
「私たち、って私も?」
「咲月、お願い」
見るからにあたふたした様子の咲月だったが、二人の威勢にその提案を了承した。
矢を取り出し、練習の通りの型に入る。足を踏み出し、姿勢を作り、弓を引いた。男の刀が振り上げられるのが目に入る。和の心の中では無心と焦りが葛藤していた。
ふと、無心が勝った気がした。弓を引き絞る。矢を放った。
男が振り向き、和の放った矢を叩き落すのが見えた。その瞬間、男が笑ったような気がした。怖気がした。
「辻斬りなど、許しません」
桜の声が和を正気に戻す。友を死地に向かわせたのではないか。自然と弓を道に置き、刀を取っていた。
桜の一撃をかわした男は咲月の太刀を受け止める。挟んだ格好になった。だが、男には余裕があるようだった。咲月を弾き飛ばしたかと思うと、飛びかかってきた桜の腕を掴み勢いを利用して放り投げた。道の端まで桜は転がっていく。咲月が負けじと刀を繰り出すが、二、三合打ち合う内に上段から叩きつけた男の刀によって咲月のそれは真っ二つに折れてしまった。咲月は思わず怯んで後ろへ下がる。
折れちゃいけない、そう思って和は真っ直ぐに刀を突き出した。男はひょいと避けると自在に刀を振って和を圧倒していく。途中、刀が触れ合い、鍔迫り合いになった。力比べになると和は余計に不利だった。押し込まれる。
「助太刀御免」
柔らかな声がした。男の肩口を刀が走っていく。男は身体をよじってそれを躱すと新たに刀が現れた方向へ突きを入れる。助太刀の主はそれをあしらって、和の前に出た。
「間に合ってよかった」
五百城茉央、赤佐館一の剣士で上背もあるが、威圧感のあるような人物ではなく、見た目も声も性格も穏やかで親しまれる人という方が近かった。
「美空ももうすぐ来てくれるから大丈夫」
一ノ瀬美空も和の仲間である。姿は見えないもののこれ以上相手が増えては面倒と思ったのか、男が仕掛けてくる。これまで以上の太刀筋に躱すのがやっとで、打ち返す暇もない。
「逃げるばかりじゃー主君を助けられんぞ」
主君、その言葉に和は引っ掛かりを覚えた。すると林の方へ投げられていた桜から声がした。
「真夏様、しっかりしてください」
和は剣先が震え始めた。自分が助けようとしていたのは真夏だったのか。あまりに重大な使命が知らぬ間に課せられていたのか。退路はなくなった。
男は茉央の方を気にしているのか背を向けた。今だ。踏み込む。振り返った男がまた笑ったような気がした。厭な笑い。気味の悪さをかなぐり捨てて刀を振り下ろした。どこからともなく現れた男の刀が和のそれを跳ね上げた。
和の刀が手を離れ空中を舞う。丸腰のまま後ずさる。和、呼ばれた気がした。咲月が折れた刀を男に投げつける。男は一太刀でそれを打ち落とすと和に向かってきた。斬られる。白刃が走ったのが見えた。
「馬廻衆、推参」
和の目の前で火花が散った。男が怯むように距離を取る。茉央がここぞとばかりに繰り出した一撃を受け止め、振り払う。
「運のえい女や、今度は覚悟しちょき」
真夏の方を見やると一言残し、男は林の方に紛れてしまった。安心した和は、その場にへたり込んだ。
「大丈夫?怪我はない?」
和を助けたのは遥香だった。真夏の危機を察して馬を飛ばして来たのだろう。また後ろから声がした。
「間に合ってよかった」
遥香をここまで連れてきてくれたのは美空のようである。そういう知恵が周り、気配りができるのが美空でもあった。
「絢音さんが、絢音さんが倒れておられます」
咲月の悲痛な叫びが一瞬の穏やかな空気を切り裂いた。
最初に見た倒れた人影は絢音だったのか、と震撼する。
柚菜ら残りの馬廻衆の面々もここに集まってきていた。
遥香が絢音を療養所に連れて行く指示を飛ばした。
その喧騒を月が残酷に照らしていた。

「内々の話とはなんだ」
今部が怪訝な顔で尋ねた。美月は懐から書状を取り出す。
「乃木藩からの書状にございます。お読みください」
美月は頭を下げたまま今部の言葉を待った。
「こ、これは、誠なのか」
今部の声が震えている。当たり前だろう。
飛鳥が撃たれ、真夏を襲った者により絢音が斬られた。
国元から届いたあまりに衝撃的な書状の内容に美月も卒倒しそうになった。
淡々と事実を並べる美波の文面は、彼女が怒りや悲しみを堪えている様が透けて見えるようだった。
「両人が襲われたとなれば、拙速に開国した報いだとして、攘夷を掲げる者共がまた盛り返してくるに決まっておる。旧主さえ守れず、乃木藩はいったい何をしておったのだ」
「申し訳ございません」
恭しく頭を下げ続ける美月に、今部はそれ以上怒りの言葉を投げつけようとしてこない。ただ、苦々しい顔をして何かを考え続けている。
今部の怒りは、余りに乃木藩に肩入れしてしまっている自分の立場を危惧するものでもあるのだ。このまま乃木藩の凋落とともに、自らの地位が崩れ去るのを眺めているのか。しかし、攘夷派と他に手を組むことが今から可能なのか。そんなところだろう、と美月は見当をつけていた。
「このことは乃木藩の内部のことである。慰めの言葉以外儂から特に言うことはない。本日はこれで終いじゃ」
今部は突き放した。それも想定はできていた。
「今部様と我々はこれまで一心同体で参りました。それだけはお忘れなきよう。慰めの言葉、有難く頂戴いたします。それでは失礼します」
どこまで効果があるか分からないが、釘は刺した。
今部は苦々しい顔を崩さなかった。

城から退こうと廊下を歩いていると前から数人を引き連れた女性が現れた。
水ノ戸藩の藩主・仁子である。
幕府では財政難の問題からしばらく前より贅沢禁止の令が布かれているが、将軍の血縁の一角である松寺家は例外と言ってよく、仁子も鮮やかな織物と技巧を凝らした髪飾りや刀剣を身につけていて、どこから眺めても仁子だと認識できた。攘夷派の棟梁としての威厳も全身から放っている。
攘夷派の面々を引き連れあるいてきた仁子は、対照的に質素な装いの美月に声をかけてきた。
「これは美月殿、ご機嫌麗しゅう」
今日は特に機嫌がいいわけがないが、美月は取り繕うような笑顔で応えた。
「仁子様こそ、ご機嫌麗しゅうございます」
仁子がふと近づいて来た。それまで蓄えていた笑みを消し去って言った。
「今は、ご愁傷様、と言った方がよいのかな」
美月の身体に戦慄が走った。どうして仁子が乃木藩の遭難を知っているのか。まさか仁子が指示を下したのか。
追い打ちをかけるように、仁子が口を開いた。
「これからのことは我々に任せられよ。日ノ本を正しきやり方で守ってみせましょう。貴公はごゆるりとお休みくだされ」
仁子は嘲笑するように再び笑みを浮かべ廊下を歩んでいく。
もし、仁子が乃木藩の敵ならば、ここで斬らねばならぬ。その考えが頭の中を占める。荒い息を吐きながら、美月は脇差を握りしめた。
すると突然、両脇から羽交い絞めにされた。抵抗する間もなく、そのまま廊下脇の小部屋に引きずり込まれる。
「何をなさいます」
「釈迦に説法ですが、城内の刃傷沙汰はお家に関わりますよ」
美月を諭しながらも目の前に満面の笑みがあった。思わず面食らう。
「お久しぶりです、櫻藩の松田里奈です。こちらは山﨑天」
「よろしくお願いします」
天と紹介された女性は、整った顔立ちに切れ長の目が印象的な美月よりもかなり長身の人だった。里奈は櫻藩の家老で何度か会ったことがある。所用があって今は江戸にいると聞いていた。
「これはお恥ずかしい姿を」
いえいえと頭を振りながら、里奈は真剣な顔つきになっていった。
「飛鳥様の件、私たちも聞きました」
「櫻藩の方が、どうして?」
「乃木藩の噂を流している者がいます」
これで仁子が知っている理由も説明はついた。もちろん噂を流している当の本人が仁子である可能性も否定できないが。
しかし、乃木藩に向けられた悪意が相当のものであると美月は感じ取っていた。刺客を差し向けるだけでなく、権謀術数にまでかけようとは。
「お困りのことがありましたら、櫻藩をお頼みください。特に真夏様にはよくしていただきましたから」
権謀術数渦巻く城内で里奈の善意が温かかった。
お願いしますとだけ言って、美月は頭を下げるしかなかった。

ここまで読んでいただきありがとうございました。
4か月以上開いてしまいました。
書ける時にどんどん書いていきたいなと思います。

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